訪問先:三加和町中林
お話を伺った方:庄山秀一さん
金栗さん(昭和20年8月5日生まれ)
調査日:平成16年6月26日
晴永 文
牟田 喜子
*村の祭りについて
======年行事======================================================
1月5日 初寄り合い(区長が世話役)・・・村の規律の見直し
新しい規律の導入や現存の規律の削除等を話し合う
3月 春祭り 神官を呼んでお酒を飲む
6or7月 願立てごもり(宮総代が中心となる)
以前は7月のこともあったが、最近はほとんど6月に行われる。
9月 組ごもり→総ごもり
11月28日 座祭り 宮総代の交代
12月 村祭り
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--------村の行事が行われる場所は?
ほとんどがお宮だが、中林のお宮には神官がいないので別の部落から呼んでいる。
--------願立てごもりとは?
田植えが終わった後、その年の豊作を祈るお祭り。今年は昨日(平成16年6月25日)にあった。以前は7月にすることもあった。それでも昔に比べると遅くなっている。昔は稲が大きく、現在より田植えが一週間ほど早く終わっていた。機械よりも早いということに驚いた。
--------組ごもりの「組」とは?
中林には隣組がない代わり、全18戸を上、中、下組に分けている。(順に6,7,5戸)
以前は、各組がそれぞれお宮に集まり(組ごもり)、その後総ごもりとして3組が一度に集まっていた。しかし最近ではみな忙しくなり、組ごもりを省略し、総ごもりだけをおこなっている。
--------なぜ6戸ずつでないのか?
昔は中林も30戸ほどあった。他の部落では現在でも30戸以上ある。中林は三加和町でも二番目に戸数が少ない。上組の地区、中組・下組の地区と区切られており、引越しなどで人がいなくなっても区切りを変更せずに数の減少を補わなかったので、数がばらばらになっている。過疎化の表れと言える。
--------座祭りで宮総代の交代は、どのように行っているのですか?
座元宮総代という。宮総代は一年で交代、引継ぎをする。「せっと渡し」と呼ばれるものがある。旧総代と同じ組の人が料理を用意して待っている。しめなわをまいたものを新宮総代に渡す。時間がある時は、和んで何時間も話すこともある。この日はお宮に上がらず、「とびかぶさん」にお参りに行く。(ござをしいて、お供えものを持って行く。)神官がお参り、おはらいをする。
--------「とびかぶさん」とは?
神木となっている大木のこと。種はかしの木で、「とびかぶり」という名前。
「谷というところに大木がおんなはる」と表現された。その言葉から、村の人にとって「とびかぶさん」が非常に大切な存在であることがわかった。この木にはつねにしめなわがまいてある。肝心なときはお宮よりも「とびかぶさん」にお参りに行く。
--------村祭りではどのようなことをしますか?
おでんや、やきとりを作ってみんなで食べる。お宮では神楽がある。これは、以前は学生がやっていたが、現在では子供たちがやっている。別部落の神官が子供たちを集めて神楽を教え、練習している。
--------盆祭りや祭りは楽しみでしたか?
もちろん楽しみだ。村祭りのときは「えんかうち」といって料理を準備するのだが、家庭ではやっていない。お宮でおでんや焼肉をしている。今は12月の第一日曜に行っているが、昔は11月24日ごろと決まっていた。教育委員会が学校の勉強を優先させ、祭りは休みの日にするように言ってきた。
「教育者ももっと考えていいだろう。伝統は大切にするべきだ。決まった日にちにしてよいと思う。親戚が集まらない。」と話してくれた。
--------田んぼへの水はどこから引いていますか?
筒と呼ばれるため池から。山から水を引いて旱魃のときに利用している。言うなれば小さなダムである。水を流す仕組みは、ダムと同じだ。
和仁川(大川と呼ばれる。)からもひいている。だがこの川は、場所に変化はないが、川幅を広げ石垣にしたため水の量が少なくなった。生活排水がここへ流され、水質も悪化している。
また、村には神田と呼ばれる田んぼがあり、村の人は部落でとれたものをここへ奉納している。神田へは和仁川の支流(下の川と呼ばれる。)から水を引いているため、そこにある井手は神田井手と呼ばれている。
--------水争いはありましたか?
以前は起こっていた。区画整備が行われる前だ。けんかや殴り合いの争いだった。排水と用水は共同で、下の川から水を引いていた。水利権があって、小川からポンプで勝手に水を引くことはできない。水はだんだん畑に上から順におとしていた。水利用のルールは「上から順番に」。(ただし、区画整備していないところ。)
昔は雨乞いのお祭りがあっていた。鐘をたたいていたそうだ。記憶にないし、何十年前か何百年前かわからない。
--------屋号があれば教えてください
・車 昔水車があり、米をついていた。
・酒屋 昔地酒屋だった。
・堀端 ?
・ぶくで ?
--------村の田んぼについて教えてください。
村の一等田は県道沿いの田んぼ。そもそも一等田は道路沿いにしかできない。道路に関して、つまり便利のよいところに一等田ができる。
化学肥料の導入以前、米は反当5〜6俵とれていた。悪い田でも4〜5俵はとれていた。麦も5〜6俵。麦を作れる田は深田といって、やわらかい土でなければならない。村にも麦を作れるところと作れないところがある。そばは、だれも作ったことがないし、直播きもしたことがない。
--------昔はどんな肥料を使いましたか?
「まやんこえ」を使っていた。これは牛や馬にわらをふませてできるもの。ふんでいる間に出す便がわらにまざることで、たい肥ができる。たい肥は「こずんで」おき、少しずつ使っていた。
灰は葉にふっていた。野菜にまくと虫が来ない。(かぼちゃ、きゅうり等の野菜)根にふることもあった。昔はかまどを使っていたので、薪を燃やしてできる灰を使っていた。こんにゃくを作るときは、豆がらを燃やして灰を作り、使っていた。現在は手ごんにゃくを作っており、そのときも使っている。
稲の病気には「いもち」「もんがれ」というものがあった。害虫は殺虫剤や「うんか」という油を使って駆除していた。「うんか」とは椿油のこと。上から油をおとし、竹で稲の上を揺らすことで虫の羽に油がつき、虫が弱っていくという仕組み。今の肥料は化学肥料だ。窒素やリン酸などの量がはっきり決まっているものを使っている。
--------昔の田植えについて教えてください。
共同作業はやっていた。てまがえと呼ばれており、中林ではかせいと呼ぶことはなかった。ゆいとは聞いたことがないし、わからない。田植えは6月下旬ごろで、ほとんどの人が麦も作っていた。お手伝いの早乙女は神田のときくらいに来ていたが、ほとんどこの辺りではなかったし、田植えの歌もなかった。
さなぶりというかは知らないが、田植えの後の打ち上げの祭りはあっていた。(現在では個人でやっている。)なえの残りを束ねた大きなかまをつくってあげる。井戸のあるところはそこにあげている。水を使った御礼であり、水を汚したお清めでもある。若竹で米、塩、酒をひねったものも作る。それの名前は忘れてしまったそうだ。
--------飼っていた牛や馬はどのように使ったり世話をしたりしていましたか?
中林では牛と馬の両方を飼っていた。馬は木出し馬(山出し用)といって、山から木を運び出すのに使っていた。今でも馬を使っている人もいる。馬車と牛車があり、米60kgくらいを運んでいた。えさは畑、田、川原の草だった。牧草のように茂っていた。(もっとも、現在では川岸は石垣になっているが)部落で川原の草を入札して、食べさせていた。
また、ここでは馬洗いだけでなく、牛洗いも行っている。夏には川で牛も馬も毎日洗っていた。橋のあたりを中心にしていた。冬は寒いので体をふいてあげたり、ブラッシングをしてあげるくらいだ。
馬には蹄鉄をしており、爪切りもしていた。馬の病気は聞いたことがないが、怪我ならある。馬は牛に比べると体がか弱く怪我をしやすい。山出しのとき、するどい竹が体にささって死んでしまうことがあった。牛は体が強く、ささっても死ぬことはないのだが、馬は傷口から内臓がほとんど出てしまっていたそうだ。
牛を歩かせるときはたずなを引いていた。右に曲がるときは右、左に曲がるときは左のたずなを引く。機嫌を損ねたら寝そべって動かなくなる。かけ声はあったが、意味は覚えていないそうだ。「どーどーどーどー」と言っていたが、どのようなときに言っていたのかは曖昧で、おそらく牛を止めるときだったかな、ということだった。昔は牛の子を10ヶ月ほど太らせ、それを売って得るお金が大きな収入となっていた。(つまり、せりに出していた。)今はそのようなことは行われていない。
牛の呼び方も、福岡とは違っている。
(質問用紙にごって牛と書いてあるのを見て)
「こっちでは雄牛はごって牛とは言わん。こって牛と言う。福岡の方ではごってと言うとやろう」ということだった。ちなみに雌牛はそのまま雌牛と呼ぶそうだ。こって牛をおとなしくさせるため、子牛のときに「金ぬき」というものをする。いわゆる去勢手術だ。生まれて一年以内に行うことが多い。
草切場も存在していた。川原の草を入札するのだ。朝ごはん前(5:00ごろ)には出かけていた。早く行かなければ入札できない。これは男性の仕事で、女性はごはんを作って帰りを待っていた。中林の草切場は和仁川沿いにあった。
--------村に電気やガスがきたのはいつごろですか?
電気がいつごろきたかははっきりと覚えていないが、60年ほど前にはあった。だが、ガスがくるのはとにかく遅かった。30年くらい前か、もしかすると30年も経っていないかもしれない。テレビがガスより遅かったというのは覚えているそうだ。玉名は山が多いため、平地に比べるとガスがくるのはずっと遅かった。
話はそれるが、中林地区の山はすべて私有地だそうだ。住宅は中林に集中しており(道沿いにのみある)、そのほかには谷に1件あるだけで、豆塚や辻など他の小字の地区には家はないそうだ。
--------それ以前にはどうしていたのですか?
薪を使っていた。薪は山から取っていた。まわりはほとんど自分たちの山なので、ほぼ全部の山から取ってくる。中林の山々は個人の山であり、共有していない。木の切り出しはどびきが一番多かった。くさをまいたり、かんをうったりしていた。
炭も作っていた。だが、「売るごつしよらん。自分で使う分くらい。」と話してくれた。自家生産で収入はたいしてよくなかったそうだ。
昔の暖房にも炭を使っていた(薪の炭)。こたつに炭を入れて温まっていた。そのほかには火鉢もあった。薪の燃えた残りや炭を入れていた。
--------この村の焼畑について教えてください。
この村では山を焼くことは焼畑と呼んでおり、特定の地方独特の呼び名は特にない。目的は主に開墾で、植林を行っている。雑木林をスギ林へと変えようとしている。そのほかには、サトイモを作っていたのではないだろうか、ということだ。この辺りは植林が中心であるため、何を作っていたのか定かではない。少なくとも、ソバは作っていない。
焼畑は面積が狭く、民有地である。阿蘇のように草山を焼くことはなかった。だが、以前は野焼きといって川原を焼くことがあった。これは子供たちが遊び半分で行うものであり、どんど焼きの残り火であった。
--------村で採れた自然の幸について教えてください。
かごを最近まで採っていた。「こうぞ」という呼び名は聞いたことがある。これを使って公民館で和紙を作っている。今も公民館を訪れると和紙作りを体験することができ、ここで作った和紙は、町の学校の卒業証書などに使われている。
「ちょま」という言葉は聞いたことがあるが、どのようなものかは知らない。もしかすると採っていたのかもしれないが、呼び名が違うとわからない。だが、山栗はあった。この辺りでは野栗という。普通の栗より小さいがおいしく、天津甘栗に味が似ている。カンネもあり、よくまきついてくる。そのほか、どんぐりや椎の実も採れる。以前は野いちごや山桃もあった。山桃は、前は食べていたが今は食べていない。食べ物が豊富にあるからだ。
商品価値のあるものといえばみかんやタケノコだが、これらは売るために栽培されているもので、自分たちで食べることはほとんどない。(ここはタケノコの産地だそうだ。みかんは今は作っていない。)
また、川にはドンコ(ナマズのこと)やアユがいて、フナが入ってくることもある。川から水を引くところにいる。菊地から漁業連が放流しているカメやコイも見ることができる。「スッポンガメ」もいる。ヤマトリガニというカニもいて、毛ガニのようにふさふさしている。サワガニもいる。金栗さんが子供の頃にはカッパが出ると信じられていたそうだ。もっとも、それを見た人は誰もいないが。
川の毒流しも行われていた。「げらん」と呼ばれていた。電流も流していた。しかし、地元の人が流しているのではなく、よその地域から流れてきていたということだ。
--------村の食について教えてください。
おかしはカライモや「りょうせん飴」だった。(子供のころ。)ほかにもあったと思うが思い出せないそうだ。干し柿のことはつるし柿と呼び、1かけ2かけと数えている。ちなみに1かけは20個で、左右に10個ずつ下げる。わらであんだ小なわにひっかけている。しかし、今はあまりしていない。1かけ2個ということもある。
野草も食べていた。食べられる野草には、(ふつうの)ギシギシ、ウマンギシギシ、ヨモギがある。ふつうのギシギシには、塩をかけて食べる。ウマンギシギシはその名のとおり馬が食べるものである。ギシギシをよく食べていたのは主に男性で、女性や子供はツクシやツバナ(黄色い綿のようなものが入っている。)をよく食べていた。食べられない野草の方が多く、上記したもの以外は基本的に食べられない。
--------米作りについて教えてください。
「米作りの楽しみなんてなか(笑)」豊作を願ったり、感謝したりするお祭りなど、収穫後の楽しみはわかるが、米作り自体の楽しみはない。それとこれとは違ったものであって、米作りは苦しいものだ。笑いながらそう話してくれた。米作りの苦しみは、田の草取りや、害虫の駆除だ。
「稲を刈るころへらくちが出てくる。へらくちってわからん?マムシのことたい。今はジャンボタニシが多か(笑)。ジャンボ。ふつうのタニシよりずいぶん大きか。ふつうのタニシは昔はおったが最近はおらん。ジャンボタニシにとってかわってしまった。」マムシにかまれる可能性があり、危険なようだ。
作った米の保存方法についても伺った。米がんがんという米を入れるための缶に入れておくそうだ。要するに米びつだ。(ちなみに、お話を伺った方々は缶のことを「がん」と発音されていた。)米がんがんには5俵入りと10俵入りがあり、これに入れておくとネズミ対策を特別にする必要がない。がんがんに入れることでネズミと湿気の両方から守られるという、すぐれものなのだ。種籾も自家製だった。だが、子供のころには米のごはんは年に1,2回しか食べられなかった。祭りと正月のみだ。米と麦を混ぜていた。
「4:6くらいかな。それでもかなりいい方だ。3:7だったかもしれん。麦の中にカライモを入れるということもあった。」米がんがんは5俵や10俵入りなのだから、お米はたくさんあるのかと初めは思った。しかし、このお話を伺って米がいかに貴重であったかを垣間見ることができた。
米だけでなく、野菜も作っている。ほとんどの野菜を自給できる。自給できないものといえば、魚類やお肉だ。昔はどこにでも鶏がいて、必要なときはそれらの鶏を「つぶして」いた。また、魚類についてもウナギなどの川魚やカニ類は採れていた。結婚式のときには採れたサワガニを揚げて食べている。
--------村へ来ていた行商人等について教えてください。
反物、衣類売りが来ていた。海の幸と山の幸を物々交換していた。福岡の筑後地方から何でも入ってきた。箕ソソクリ、鍋ソソクリは両方いた。鍋ソソクリはどこから来ていたのかわからないが、箕ソソクリは菊池から来て川原に野宿していた。お坊さんもやってきていた。白い布を下げて鈴のようなものをチャランチャランとならし、鉢を持っていた。玄関先で何かを言っていて、おそらくお経だったろう。そのほかには、やんぶしは見たことがないが、薬売りは来ていた。村医院といって近くに病院があり、昔から病気のときはきちんとお医者さんに診てもらうことができていた。(←村医(むらい)さん)
--------昔の若者について教えておしえてください。
結婚前の若者が集まっていたのは、お宮やお寺、公民館で、女性も来ていた。何も遊ぶものはなかったが、これといった決まりごともなかった。しかし、上級生からの制裁はあった。制裁といってもいたずらだが。たとえば、「つるし柿とってけ」「すいか1個むしってけ」というかんじだ。つるし柿を1さげ盗んできたり、カライモをほってきたりと、いろいろないたずらをしていた。(まさに質問用紙に書いてあるとおりのことをしていた。質問を作った人もやっていたのではないか?!という話になった。)
--------戦後の食糧難のときの様子を教えてください。
犬を食べたことがある。(これは金栗さんだけで、庄山さんはないそうだ。)すき焼きやナベにしていた。犬は牛肉などに比べかなりのアクが出るため、一晩どろ水の中に入れていた。若い犬がうまかったという話を聞いたことがあるそうだ。食べていたのはその辺りをさらっている野良犬で、餌付けしてから捕まえていた。赤犬がうまい。犬の肉は牛肉と味が変わらない。だが、犬がおねしょの薬だという話は聞いたことがないということだった。
--------「よばい」の話は聞きますか?もやい風呂はありましたか?
もやい風呂はあった。1件か2件で作る。男女区別なしだが、男性が先に入る。「よばい」の話も聞いたことがある。これが昔の青年の楽しみだった。青年はよその部落にけんかをしに行ったりもしていた。
--------こういう言葉を聞いたことがありますか?−じょうもんさん、まつぼりご
じょうもんさんとはべっぴんさんのことだろうか。じょうもんさんとは言わない。まつぼりごも、「ご」がついているからわからない。この辺りでは「あいつはまつぼっとる」というような使い方をする。「まつぼる」とは、盗みを働くという意味だ。
--------恋愛結婚は多かったですか?
昔はお見合い結婚が多かったろう。遠方から嫁が来たり、逆に遠方に嫁に行ったりしていた。今では恋愛結婚のほうが多い。
--------農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?
小作制度はかなり厳しかった。作ったものはほとんど地主にやっていて、自分たちが食べる分を取るのがやっとだった。「地主は殿様のようだった」という。だが、今は小作の方が強い。「作ったもんをやるけんが、おいの土地を耕してくれんか」というかんじだ。昔は兄弟が多かったので、厳しい制度でも作らなければならなかった。
--------村に格差のようなものはありましたか?
差別の話は聞いたことがない。神社の祭りの参加、運営に関しても平等だった。
--------戦争は村にどのような影響を与えましたか?
影響はよくわからないが、中林にも戦死者は多く、今でもその人たちを祭ってある場所がある。戦死した夫の弟と結婚した人もいる。戦争未亡人の人たちはきつかっただろう。
--------これから村はどうなっていくのでしょうか?
「これが一番難しい質問だ。高齢化が進み、村の運営ができるか不安だ。後継者がいない。」ということを強調されていた。村は昔とはずいぶん変わってきている。時代の流れには逆らえず、伝統であった祭りの日にちを変えざるを得ないところにも村のあり方の変化が垣間見えるように思う。村の今後については個人ではわからないから、部落的な話し合いをしなければならない。これは三加和町全体の問題だ。町から人々が市内へと出て行っている。
「大学を出て自分たちで法人で農家をやった方が、企業に入るより儲かっていいかもしれない。田舎に若い人が増えれば助かるし、農業大学でなくても大学を出て農家、百姓になるのもおもしろいね。そういう考えもいいと思うし、そんな人が集まれば百姓も変わる。」と、このように話してくれ、大学生への期待も寄せられた。
*調査をしての感想
講義からでは学べないことばかりだった、の一言に尽きる。貴重な体験であったことは言うまでもない。村を訪れ話を聞き始めて、まず気にとまったのが、村の人が「部落」という言葉をお使いになっていたことだ。私たちは小学生のころから同和教育を受け、「部落」という言葉をあまり使わないようにと教えられた。その影響でこの言葉に対してあまりいいイメージを持っていなかったので、驚きであった。だが、今回の体験でイメージが変わった。言葉は使う人次第なのだ。村では「昔」を頭だけではなく体でも感じることができた。話を聞き続けるという点では講義と同じであるのに、村の人から聞くとより身近に思えた。今回の調査では、もちろん歴史についての認識をさらに深めることができた。ただ、歴史だけではなく教育問題についても改めて考えさせられたということも忘れないでおきたい。伝統はどのように守り、どのように子供たちに伝えていけばよいのか。都会で育つ子供たちに田舎の村の生活を体験させ、教科書では伝えきれないことを学ばせることはできないのか。
過疎化が進む村の人々の切実な思いが、話を聞く中で随所に感じられた。昔の村の生活を体験したことのある人から直接話を聞くことができた私たちがこれからできることは何なのか、自分で考え、将来に活かしていくことが求められるだろう。温かいもてなしと貴重な体験をさせてくれた村の人々に感謝している。