・入り会い山はありましたか? どこに?

一の谷(地名は地図参照)のところにあった。

 

・そこでどんな作業をしましたか。

草刈りや野焼きをした。後に共同作業に出ていた人で、

原野の所有権を分けた。

自分の欲しい所に旗を立て、その後に大きさを調整した。

 

・木の切り出しは、木馬・しゅら・路引き・川流しはありましたか。

木は他の所から切ってきていた。

木を切っても切らなくても切り出しだった。

 

・炭は焼きましたか。収入はよかったですか。

 焼いたとすれば、自家生産でしたか、ヤキコでしたか。

昭和30〜40年代までは焼いていたが、ガス化で炭は必要なくなったので

焼かなくなった。

 

・かごは取りましたか?

この地域ではかごのことを「こうぞ」と言って、

終戦後まではこうぞを買いに来る「こうぞ買いさん」がたくさんいた。

 

・商品価値のあった山のもの・山の幸はどんなもの?

お茶や杉、たけのこが少しと渋柿の木があった。

渋柿の木は、ゴルフクラブのウッドに使われていて、昔はたくさん

あったけど今は少なくなってしまった。

 

・米はどういうふうに保存していましたか。

はん米、ひょうろう米は?種籾は?

すべてせこ、わくの中に種籾のままとっていたか、大きな缶(5俵、10俵)に

玄米でとっていた。

 

・ネズミ対策はやっていましたか?

今は袋に入れて、大きな米用の冷蔵庫で保存している。

昔はドラム缶に入れて保存していたが、ネズミは

入って来なかった。

 

・米作りの楽しみ、苦しみは?

やっぱり、人手が足りなかったのが苦しかった。

働く人を雇うのが大変で、子供の頃は小学校でも田植え休みや

稲刈り休みがあった。

水田の稲に付いた虫を取るときには、田んぼの水面に

油を垂らして、表面に油の膜を作り、竹のさおで稲の穂の部分を

ガサガサと探って、虫を水面に落としていた。

羽に油が付いたら浮かんでこなくなるから。

田植えが終わった後は、田植えだごを作って食べさせて

もらっていた。

田植えだごはメリケン粉でだんごを作り、細く切って、

黒砂糖をかけて食べた。

草刈り、草抜きも大変だった。がんづめ(除草機)で草の根を

浮かせていた。

とにかく草抜きの時期は暑かったので、昼の作業は

とても嫌だった。

 

↑田中城から見た田園風景

 

・昔の暖房は?

こたつや火鉢、切りごたつ、湯たんぽがあった。

冬はとても寒かった。夜は湯たんぽを使って、その次の朝には

その湯たんぽの水で顔を洗っていた。

 

 

 

・車社会になる前の道はどんな道でしたか?

現在車の通っている道が昔の道でもあった。

川沿いに通っている道と山の中を通る道があり、昔は

鉄道が通る計画もあった。鉄道計画はなくなったが、

その跡地に道路ができた。

 

↑和仁川沿いの風景。川沿いは綺麗に整備されていた。

当日は大雨だったため、水量が多かった。

 

・むらにはどのような物資がはいり、外からはどんな人が来ましたか。

行商人は?魚売りはどこから?

箕ソソクリ、鍋ソソクリなどは?

日用品がよく入ってきた。行商人や魚売りは

「買わんかのも(柳川の方言?)」と言いながら

南関やせた、大牟田から来た。

 

・川原やお寺の境内に野宿しながら箕を直したり、

 箕を売りに来る人を見た事がありますか。

  箕は自分達で作っていたし、昔はあまりいいかっぱは

  なかったので、箕売りを見た事はない。

 

 

・かまどのお経を上げる目の見えないお坊さん

 (「ザトウさん」)は?

  お坊さんかどうかは分からないけど、たまに行き倒れに

  なった人が居たことがあった。

  三串さんの以前の家の裏に行き倒れになった人のお墓がある。

  (場所は地図参照)

 

・やんぶし・薬売りはいましたか?

  薬売りは昔はよく見かけたけど、最近はあまり来ていない。

  昔は富山から来ていた。今では農協から来ているが、

  最近近所に来ているのを見た。

 

・むかしは病気になった時はどこで診てもらいましたか。

  昔も、地域の医者がちゃんといた。和仁や東吉地の方に

  医者がいたらしい。三串さんの昔の家のあたりには

  歯医者があった。

 

 

・米は麦と混ぜたりしていましたか。

  混ぜていたが、麦は少なかった。あわやいもが多かった。

  米は収穫しても、ほとんどを外に出して(売って?)

  いたので、自分たちが食べる分は少なかった。

  昔のご飯は、あわやからいも、かぼちゃの量の

方が米の量よりも多かった。

  今では考えられないことだと思う。

 

・干し柿を盗んだり、すいかを盗ったりはしましたか?

  どちらもいたずらでやった事はあるけど、

  食べ物に困ってやったというわけではない。

 

・戦後の食糧難で、若者や消防団が犬を捕まえて

 すき焼きや鍋にしたことは?

  すいかや干し柿と同じで、いたずらや興味本位で

  食べた事はある。

  昔は、この辺りでは食べ物に不自由はしておらず、

  そういったげてものを食べる必要はなかった。

 

・昔のおやつ、お菓子にはどんなものがありましたか。

  田植えの手伝いの時に食べさせてもらう田植えだご、

  ソーダまんじゅうや盆まんじゅうはよく作っていた。

  いもなどもおやつにしていた。

  昔の子供たちはまんじゅうしか無かったからか良く

  まんじゅうを食べていたけれど、今の子供たちは

  ちっとも食べない。

 

・むらに格差のようなものはありましたか。

  むらの中には差別はなかった。

 

・戦争はこの村にどのような影響を与えましたか。

  戦災はなく、この村は被害は受けていない方だった。

  飛行機が一機近くの山に落ちただけだった。

 

・若者クラブや、それにまつわる生活について。

  上吉地は、いろいろな所から人が集まってきている

  ので、村の決まりやしきたりはほとんどなかった。

  青年クラブもなく、「夜ばい」をすることもなかった。

  この辺りは開けていた方だと思う。

  他の地区にはしきたりは残っていて、

  この辺りには共同風呂はなかったが、山川のあたりには

  共同風呂はあった。

 

  昔は、何かと行事が多く、飲む事も多かったが、

  吉永さんが居ない間に集まることも無くなっていたらしく、

  帰ってきた吉永さんの呼びかけで年に一度、正月に

  飲み会をするらしい。

 

 

 

 

 

 

 

○感想

昔の人々の生活について聞く、という機会が今までになかったので、

とても良い勉強になった。

協力していただいた方々も、終始懐かしむような表情でお話してくれて、

時に先方でどんどん話が盛り上がって行くこともあったけれど、

その時間を少しでも気持ちの面で共有できた事は大きかったと思う。

特に心に残ったのは田植えの時の話で、水田に石油を注ぐという事は

考えも付かなかったので、昔の人たちは知恵という便利な道具を

今の人よりたくさん持っていたんだな、と感じた。

あと、饅頭の話のところで、私の祖母も「最近の子はちっとも食べんねぇ」

と同じような事をこぼしていたので、懐かしく感じた。

どしゃ降りの中で、生き返りにはとても苦慮したけれど、なかなか出来ない

貴重な体験をしたと思う。

 

今回の体験で、調査にご協力いただいた永沢さんご夫妻、吉永さん、三串さんの

他にも、食事に立ち寄った居酒屋のご主人の方には米沢さん宅まで送って

いただいたりと、大変お世話になりました。お世話になった方々には、

感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。

 

参考資料:三加和町ホームページ(画像)

 

                    1MD04192T 佐藤 勇太