歩き・み・ふれる歴史学 レポート

三加和町上和仁

池田有季

伊藤陽子

鹿毛春美

 

6月26日、私たちは熊本県玉名郡三加和町に行った。私たちが調べるべき所は、春富地区の上和仁の野中という所だったのだが、バスから降りる所を間違い、というか国土交通省発行の地図が間違っていた為、緑地区の上十町の野中という、まったくもって見当違いな所に来てしまった。とりあえず、近くの家のおばさんに聞いてみると、「上和仁は山を一つ越えなんですもんね〜。」とのことだった。または、一回役場まで戻って行くと良い、とアドバイスをいただいた。さすがに、山を越えるのはいやだった(迷う自信があった)ので、役場までてくてく歩くことにした。最初はハイキング気分だった。ところがどっこい、1時間歩いてもさっぱり役場が見えてこない。途中、何度もヒッチハイクを試みるが、意気地がなくて挫折。鹿毛さんは、サンダルは壊れるし、すべってこけるし、でふんだりけったりだった。そんな中、沢ガニと出会った。みんな疲れていたので、大変心が和んだ。つい、携帯電話の動画で撮ってしまう程、ありがたい存在だった。

沢ガニと出会った後、その日お世話になる予定だった石原さんに電話をして、緑小学校まで迎えに来てもらい、なんとか上和仁に辿り着くことができた。石原さんに地図を見せた所、あまりのデタラメさに激怒していらっしゃった。

石原さん宅はとても大きくて古くて、火縄銃、弓、陣笠など、今となっては博物館などでしか見られないようなものが、平然と飾ってあって驚いた。釘隠しには鶴と兎のそれぞれを象った細工が施してあり、興味深かった。

石原さんに紹介していただいたのは、柿原さんという85歳の元気なおじいちゃんであった。柿原さんにいろいろ質問したのだが、順番があべこべなので、わかりやすいように、土地、生活、農業の3項目に分けて書きたいと思う。

 

<土地>

字などの由来や、それにまつわる伝説など

三加和町・・・神尾村、春富村、緑村の三つを加える平和な町

和仁・・・昔、和仁氏が支配していたからだと思う

東山、西山、西蓮寺、観音寺、正照寺、辻堂、鬼丸、太郎丸(西蓮寺のみ上和仁)・・・平家の落武者が、都に地形の似た和仁地方を見て、京都をなつかしんで京都の地名になぞらえたのか?→証明するものは何もない。

   西蓮寺、観音寺、正照寺には現在寺はない。

   観音寺の南方の御手洗から硯のかけらが出土。

水源・・・菊池川の水源がある。

        昭和35年に三加和町から開拓団を派遣→現在は4つのみ

        高原野菜がとれる

◎南蛮毛・・・和仁氏は大分の豪族とも親交があった。その豪族の所には、オランダ人女性がいたのだが、その豪族が彼女を和仁氏に嫁としてやった。彼女は、捕虜のようにして連れてこられた上に、また見知らぬ土地へ来て、寂しさのあまり、「高いところへ行けば、故郷(オランダ)が見えるかもしれないわ。」と思い、山の頂(現南蛮毛)に登った、という伝説がある。なんだか切なくなった。ちなみに、和仁一族が春富地区を支配していた時代、もともと検地をしない約束であったのに、検地をされた。実際の面積より狭く申告していた為、検地されるとたくさんの年貢を納めなくてはならなくなる。そこで、和仁氏は和仁城(田中城)に立てこもった。そこへ秀吉の3万の兵が鎮圧しに来るが、和仁氏は千〜二千の地侍だけで、3ヶ月間頑張った。

<生活>

・普段の生活

   食事は、米・麦・粟が混ざったものを主食としていた。おかずの中でも魚は重要な蛋白源だったそうで、近くの河から獲ってきた鮎や鯖、鰯などを食べていた。海産物は、大牟田や県境の福岡から行商の方が売りに来ており、「三加和町に来る頃には魚は弱っていたが、平気だった。」とあっけらかんと仰っていた姿が印象的だった。「戦後犬を食べていてと言う話を聞いたのですが、こちらではどうだったのでしょうか?」という私たちの質問には、はっきりと食べていたと答えてくださった。保健所から犬(特に赤犬)がつかまると連絡が入り、引き取りに行っていたそうだ。ちなみに、犬肉は生でも美味しく、すき焼きなどにしても美味しいそうで、体が温まるという効果があるそうだ。また、終戦後は、『牛肉』として売られている肉も、その半分に犬肉が入っていたことも教えてくださった。野草や木の実を食べることは一般的なことだった。以下にそれらがどのように食べられていたかをまとめる。

   子どものおやつとして食べられていたもの

             ― 楊梅(ヤマモモ)・郁子(ンベ)・桑のみ(クワノミ)・茱萸(グミ)

野無花果(ノイチジク)・木苺(キイチゴ)・通草(アケビ)

羊蹄(ギシギシ)…塩をつけて茎を食べる

   食事として食べられていたもの

― 蕗(フキ)・薇(ゼンマイ)・蕨(ワラビ)蓬(ヨモギ)…餅に入れる

蒲公英(タンポポ)…和え物にする・野蒜(ノビル)…団子汁に入れる

夏には、井戸の中つるして冷やしたスイカなどを食べて暑さをしのいでいた。逆に、冬の寒さは、基本的に着込んでしのいでおり、火鉢やコタツも利用していた。それと、水の冷たい冬場に和紙を漉き、その紙を障子や傘などに使っていてそうだ。

電気が町に来たのは大正9年のことで、その年はお話を伺っていた柿原さんの生まれた年だった。また都市ガスはまだ来ておらず、プロパンガスは、昭和35年か40年くらいから使っているそうだ。

・ 医者

人を診るにしろ、家畜を診るにしろ、町には医者がいたそうだ。彼らは外部から呼ばれ、町人が家を用意して住まわせ、生活の面倒を見ていた。家畜の医者は、伯楽(ハクラク)と呼ばれ、部落に一人いたそうだ。代金は人の場合年に2回、家畜の場合年に1回、米や野菜といった収穫物で支払われていた。医者ではないが、薬売り(越中富山)も1軒に2〜3人来ており、熊の胆や仁丹といった主に漢方の置き薬を置いていったそうだ。

・ 青年団

   寄り合いの場所は寺の御堂で、規律が厳しく、制裁は当然のこととして受け止められていた。先輩には絶対服従で、入りたてのころには肝試しをさせられたこともあったそうだ。

青年団が共同で働いて集めたお金で漫才師や浪曲師といった芸人を呼び、ご馳走や酒も用意して、敬老会をしていた。そこには一般の人も観に来られたのだが、そういった人は金一封を出しえもらっていたそうだ。当時のお金で20〜30円近く集まり、資金源となっていたそうだ。

当時の青年団は40人近い人数が、また70歳以上のお年よりは4〜5人しかいなかったのに対し、現在は青年のほうが6人ぐらいしかおらず、人数比が逆転してしまったそうだ。

・ 結婚

当時恋愛結婚は珍しく、たいていが御見合い結婚で、許婚同士の結婚も多かったそうだ。

結婚式の日、午前中は『婿入り』と言って嫁側の家に婿とその親戚が向かい、夕方の暗くなるころ、今度は『嫁入り』と言って婿側の家に向かった。ちなみに、周囲はもう暗いので、提燈を下げて行き、村人があちこちで焚き火をして明かりを作っていたらしい。また式のときは、上座に仲人、その左右に新郎新婦の親戚が向かいって、新郎新婦は一番末席に座っていたそうだ。宴会は1日で終わらないこともあり長くて3日ほど続いたそうだ。最後には、部落の人が招待されたそうだ。

・ 祭り

私たちは、2つの祭りについて話を聞いた。

まず聞いたのは、『川祭り』。田植え後の休息をかねて行われ、秋までの五穀豊穣・無病息災の願掛けをお宮でしていた。そして、稲の穂が実りだす頃、願掛けのお礼として『彼岸篭り』をしていたそうだ。『彼岸篭り』とは、1週間お宮を空けないよう村人が交代でお宮に篭ることだ。これは家族総出で行われ、お重を持ち込んで食事をしたり、話をしたりしていたそうだ。戦時中はしておらず、今もしなくなったそうだ。

祭りのとき『神楽舞』が行われていたそうで、それは長いものだと40分もあったらしい。『神楽舞』は、今でいう雛人形が着ているような衣装を着て、歌・笛などの御囃子と共に舞われていたそうだ。「そのときの歌を歌ってほしい」という私たちのお願いに、少し照れくさそうに応えてくれた。とても渋い素適な歌声だった。ちなみに、この踊りは、25〜26歳くらいの青年が小学校4年くらいの子供に教えていたらしいのだが、今では村に踊れる人もおらず途絶えてしまったという。なんとも寂しい話だ。

・ 現金収入

薪を作って大牟田なり海岸付近に売りに行き、1束10銭ほどで現金に換え、漬けアミなどの物資と交換したりしていたそうだ。

薪は、初め馬に載せていたが、やがてそれが馬車となった。鉄製の車輪がゴム製となり、自転車で引くリヤカー、三輪自動車、車と発展していったそうだ。ちなみに車の普及は早かったという。

 

<農業>

当時は一反から6表収穫できれば豊作だったという。そのうち3〜4俵は小作料として地主に納めていたので、実際手元に残るのは2〜3表ということになる。当時の一人あたりの年間米消費量は約1俵であり、又、米は売って金銭を得るためのものでもあったので、2〜3俵では全く足りなかった。そこで、米の収穫のあと麦を作り、米:麦:粟(稗)=4:4:2の割合で食べていたそうだ。

雨が少ないときには上流域の人々が水を占領したため、下流域まで水が届かず、水ゲンカがしばしば起こっていたようだ。しかし雨量が十分な時には、下流域のほうに暖かい水が届くので、稲の成長にはよいという利点もあった。水不足の時には雨乞いも行われたそうだが、これはやけくその飲み会のようなもので、みんなで酒を飲んで太鼓などを鳴らし大騒ぎしたらしい。なんとなくその気持ちはわかる気がする。

害虫駆除についても当時の人々の知恵と工夫がうかがえる。ウンカなどの稲の害虫を駆除するには、田んぼの水に竹筒で少しずつ菜種油落としていき、油膜で虫を動けないようにしていたそうだ。大根などに付く虫は、練った赤土を先端につけた棒で取っていた。又、殺虫力はあるが人間には無害である、かずらの根(ゲラン)で、ジャワから輸入されたものを使用していた。切ると真っ白い汁が出てくるらしい。

米の保管方法は、部屋の真ん中の高台の上に俵と竹を編んだものとを交互に重ねて置き、ネズミから米を守った。ブリキ缶が発売され米の保管道具として使用され始めると、ネズミ被害は全くといっていいほどなくなった。しかしブリキ缶1缶には10俵ほど保管していたので火事が起こると致命的であったそうだ。

 

柿原さんのお宅もとても大きくて、新しく見えたのだが、なんともう築40年だったそうで、古くなった柱などを柿原さんが自ら磨いたそうだ。たくましい!

柿原さんは、昔のことでもはっきり覚えていらっしゃるし、話し方がとてもお上手だったので、私たちはすっかり柿原さんのお話の虜となってしまっていた。まだまだたくさん聞きたいことがあったのだが、時間がなかったので、後ろ髪をひかれる思いで柿原さん宅を辞去した。

石原さん宅に戻ってくると、石原さんの奥さんが肉うどんをつくってくれた。そのうまいこと、うまいこと。お腹ぺこぺこだった私たちはぺろりとたいらげてしまった。その後は、久々のみかんに舌鼓を打った。雨はどんどんひどくなり、床下浸水するのでは、と不安になった。帰りは最初入った玄関からは出られなかったので、ちがう出入り口から出た。石原さんも奥さんも大変親切な方で、もうちょっと三加和町にいたかったのだが、さすがにそうもいかず、また役場の所まで車で送ってもらった。

人のあたたかみに触れて、感謝せずにはいられない一日でした。