三加和町上津田調査結果
調査者 大島 輝
泥谷 麻美
目次
T.地名
(1)上津田における小字とその読みおよび備考
(2)村内の地名とその由来またはその思い出
U.農作業
(1)良い田と悪い田
(2)田植えの時期
(3)水を引くときには
(4)直蒔きか田植えか
(5)田んぼで使われていた肥料
(6)脱穀とその後の作業
(7)共同作業
(8)稲の病気と害虫駆除
(9)災害とその対策
(10)米・麦以外の作物
(11)米作りの楽しみ・苦しみ
.
V.山について
(1)山での作業
@薪の入手
A炭焼き
(2)入り合い山(村の共有の山)
(3)木の切り出し
(4)山の幸
W.生き物について
(1)用水路・川の生き物
(2)牛・馬
@飼育頭数
A雄牛・雌牛の呼び方
Bえさ
C指示の出し方
D牛・馬を洗う間隔
E馬について
X.行事
(1)年越し
(2)神社の祭り
(3)神楽
Y.食べ物について
(1)米の保存方法
(2)魚の取り方
(3)食べられる野草と食べられない野草
(4)干し柿・勝ちぐりの作り方
(5)お菓子について
(6)食料の自給事情
(7)犬肉について
Z.村の生活
(1)ガス・電気について
(2)昔の暖房
(3)灰の作り方と使用
(4)村に出入りするひと・もの
@魚売り
Aソソクリ
Bお坊さん
C薬売り
(5)車社会に入る前の道
(6)病気のときは
(7)青年クラブ
(8)青年の悪行?
@盗み
Aよばい
B喧嘩
(9)娯楽
(10)言葉
(11)お風呂
(12)結婚
(13)戦争の影響
[.村の変化と今後
(1)村の変化
(2)今後
\.最後に
<当日の行動> 8:30 九州大学出発
10:30 現地到着
11;00 日永照雄氏宅 到着
16:20 同氏宅 辞去
現地出発
19:00 九州大学着
<今回お話を伺った方々>
日永照雄さん 昭和7年6月21日生まれ
日永諭さん 大正2年3月23日生まれ
亀崎篤さん 大正8年2月3日生まれ
*日永照雄さんの奥様にも貴重なお話を伺ったが、お名前と生年月日をお聞きすることを忘れてしまったので、以後、奥様と表記したい。奥様には失礼のほどを、ご容赦いただきたい。
T.地名
(1)上津田の小字・小字読み 及び 小字備考(場所は地図参照)
(小字) (小字読み) (備考)
久保田 クボタ
杢ヶ迫 モクガサコ 杢…大工、こだくみ
東ノ前 ヒガシノマエ
上中園 カミナカゾノ
新替 シンガエ
松尾 マツオ
三反田 サンダンダ
原 ハラ
葭ヶ谷 ヨシガタニ 葭=葦
陣内 ジンナイ
* 資料になかったが現地の人々が使っていた地名(場所は地図参照)
アカハゲ、コゴンヤシキ、カンノミズ、ゴンジュウ、シュウゲンボ
(漢字は不明)
(2)村内の地名(場所は地図参照)
@村の田んぼ:特に無し
A圃場整備前の田:特に無し
B山の中の田んぼ:特に無し
C谷:特に無し
D川の瀬・渕・滝
名前)渕曲がり
備考)由来は、川がそこで曲がっていることから。。
E井手(井堰)
名前)ウウダ井手
備考)十町川にある
F用水:特になし
G池
名前)ヤツエ(八津江)、コイゴウ(鯉壕)
ホトケノウラ(仏ノ浦)、ジンナイ(陣内)
備考)付近の池にはほとんど名前があった。上記はため池の名前
H橋
名前)カミツダ(上津田)橋、ウウダ( 生田)橋
備考)ウウダ( 生田)…扇状地。
カラムシ( 麻)の生える地が多い。
ウウダ橋
昭和3年ごろ、初めて建設された。その後何度か大水で流されているが場所は変わらず、今も同じ場所にある。現在のものは昭和57年の水害で流されたものを昭和58年に再建したものである。
なお、昭和57年の水害では上流の橋が下流の橋にかかって一緒に壊れている。昭和3年以前はそこに橋はかかっておらず、川の中に石が並べてあり飛んで渡っていたらしい。大水のときには石が流れてしまい、水が引いた後回収して再び並べていたそうだ。
また、県道ができる前にかかっていた橋(今では壊されている)は石で作られていた。それには欄干がなく、大雨の時には流されることはなかったがそのまま橋の上を水が越えていたらしい。
さらに昔の橋は土橋ばかりだった。柱は杉でできており、その上には泥をのせていた。欄干はなく、すぐに落ちてしまっていた。
<話の脇道:それぞれの思い出>
*自転車は運搬車くらいであまりいなかった。
中古車を10円で買って乗っていた。(亀崎さん)
*学校にはまだ着物で行っていた。6年生のころの写真を見ると着物の子どもばかりだった。雨が降ると裸足で学校に行っていた。玄関の横に足洗い場があり、水がためてあった。(日永 諭さん)
*橋を越えるほどの大雨が降ると早く学校から帰ることができた。
そのため、早く川の水が橋を越えないかと思ってみていたそうだ。
I小集落
名前)東組、西組、上組、中組、下組
備考)各組に一人ずつ、計5名の年行事がいた。そして、その上に一人区長がいた。
* 年行事のことを「キメイリ」(キモイリがなまって)呼ぶところもあった。
J家の屋号
名前)クロカネ(黒金)、フクジュ(福寿)
K大木、古木
名前)特定の名前はないが大きなムクの木が2ヶ所にあった。
備考)大人の両腕を回しても足りないほど太い幹を持つ大木だった。道路改修で現在はない
L古い道や峠:平坦なところばかりだったので峠自体がなかった。
U.農作業
(1)良い田・悪い田
村の一等田は久保田や前田に多かった。そこでは化学肥料が入る以前は、反当5,6票は取れていた。(ちなみに日永諭さんが子供のころには、すでにアンモニアなどの化学肥料が入り始めていたそうだ。)
逆に悪い田は主に谷間の田んぼだった。日当たりが悪い上に水が冷たかったため、株が小さく、2,3俵しか取れなかった。
なお、焼畑や山を焼くといったことは行われていない。
米以外では、麦が大体5,6俵ほど取れていた。(ただし、上津田の田んぼは湿田で、収穫時も雨が多いため良いものは取れなかったそうだが)
(2)田植えの時期
田植えは、昔は7月の初め頃(七夕の前までに)行われていた。このときに人を雇うことは無かった。(ただヨザン(?)の時には人を雇うこともあり、日永照雄さんの家でも雇っていたそうだ。)田植え歌というものも無かったらしい。(ちなみに、農作業の際に歌われる歌はない。民謡も同様。)
(3)水を引くときは
田んぼの水は川から井手を使って引いていた。場所は50年前からずっと変わっていない。水の量は十分だったが、旱魃の時にはやはり水争いも起きたそうだ。ただ、言い争いのみで殴りあいになるというようなことはなかった。
水を分けるときは、基本的には上から順に引いていた。もっとも、中には自分のところの田んぼに少しでも早く水をためようと夜中にこっそり水を入れる人もいたようだが。
(4)直蒔きか田植えか
上津田では、稲に関しては直蒔きをすることは無く、田植えを行っていた。だが、粟やコクミ(?)は畑で直蒔きしており、麦もまた直蒔きだった。
(5) 田んぼで使われていた肥料
肥料には敷き藁(上津田ではほとんどの家で牛が飼われていたため)、大豆、大豆の油かす、レンゲが使われていた。敷き藁や大豆はそのまま田んぼに蒔き、レンゲは田んぼに咲いているものをそのまま耕すことで肥料としていた。なお、大豆はかしき大豆(満州大豆)と呼ばれるもの(「かしき」は「かりしき」の意)。大豆かすは満州大豆のかすで、直径は50〜70p、厚さは15pくらいのもので、これは輸入していた。
(6)脱穀とその後の作業
稲や小麦の脱穀には「千歯」(千歯こき)が使われていた。稲用と小麦用があり、それぞれ形が違っていて、稲用のものは小麦用のものよりも歯の間が狭かった。裸麦に関しては、「オニバ」(大きな木を切ったものに6,7枚の歯がついたもの)を使い、豆には「ウリコ」と呼ばれるもの(奥様によると扱いが難しかったらしい)を使っていたそうだ。
千歯で脱穀するのは非常に時間がかかり、夜通しの作業になった。そして脱穀したもみをオニバでたたいた後、「モミズリ」という作業が行われる。亀崎さんの子供のころには、朝暗いうちから5,6人が集まって行っていたそうだ。このモミズリはモミを米にかえる作業で、(どういうものかは残念ながらよくわからなかったが)これでモミからぬかが取 れた。その後「マンゴクキ」(同上)にかけた。大正、昭和初期まではこのようにしていた。
(7)共同作業について
モミズリの時には縁家・親類中が集まって作業が行われていた。これを「クマガエ」という。また、田植えの際にも共同作業が行われており、こちらは「テマガエ」と呼ばれていた(手間替:手間をお互いに貸しあうという意味)。日永諭さんによると、共同で行わなければ能率が上がらないらしい。ただ稲刈りに関してはあまり共同作業は行わなかった。
(8)稲の病気や害虫駆除
稲の病気で最も多かったものはいもち病(稲熱病)。害虫駆除には椿の油が用いられていた。
(9)災害とその対策
旱魃の際、川の水が足りなくなった場合にはため池の水を使っていた。ため池の水もほとんどなくなってしまった時には、ため池の一番底の「泥栓」と呼ばれる栓をはずしていたがほとんど泥しか残っていなかった。ちなみに、泥栓をはずしたため池には魚がたくさん残っており、新しく水を入れるときに魚も一緒に放流したらしい。
最近では、川の水位が下がって井手から水が引けない場合にはポンプを使って川から水を引いている。そのため、平成6年の旱魃では影響を受けることはなかった。
旱魃のとき、雨乞いをすることがあった。その当時、人々はそれを楽しみにしていて、酒の肴や重箱を持ってお宮さんに行ったそうだ。太鼓を叩いて(現在、その太鼓は破れてしまっているらしい)酔っ払ったりする人もでていた。そして、雨乞いをすることで、本当に雨が降った、ということだ。
台風に関しては、この辺りでは来ないので特に神事はなかったらしい。
(10)麦・米以外の作物
野稲が三俵ほどとれていた。また、「お」は畑で作られており(今は作られていないが)、「かご(こうぞ)」が畑のけいはんで取れた。
(11)米作りの楽しみ・苦しみ
以下、今回お話をうかがった方々の会話を引用する。
なお、日永照雄さんは照>、日永諭さんは諭>、亀崎さんは亀>、日永照雄さんの奥様は奥>と表記する。
奥>米作りは・・・嫌だったでしょうな、昔は。
諭>なんでや全部・・・
奥>草取りでも今みたいに、もう3時半ごろから起きあがんの、実家あたりは。
亀>苗取りは大事じゃったい。苗が、苗取りが。
奥>競争でね。
亀>こう両手で全部取らやってなー。
奥>そんで藁でしばるようなったろ?
・
・
諭>そして田んぼにこう。
奥>なんちか肩だったですねー持っていくともね。
田んぼの中さ肩でこうなんか背負ってからしよったよ、私たちも。
諭>苗の取りいいとか取りにくいとか言いよったですもんな。
奥>あれもうちょんぎれて。
諭>固くて
亀>(聞き取れず)ちょんぎれちから取れんも。
奥>ちょんぎれるし、もうとにかく暑い日にね、
も、7月ごろの暑いころにこう草取なんとですよねー
亀>あの草取りがな
諭>あの草取りが・・・
奥>あとここ刺さるとたい、ちくちく葉っぱが
・
・
奥>がづめをしが
亀>がづめてしかあったですもんね
(聞き取れず)かぶと稲のかぶのこうずっとあったさ。
この間ば4本か、鉄のなんのあと間を植えていく上か下かたくさん
牛をかいしてな
そいで全部回りよったです。
奥>ならあのあれが「おす」とか入る前ですかい?
亀>入る前ですたい。かずめちゅうして。
諭>てがづめ(?)ちゅうとったな。そしてからおして・・・
亀>(聞き取れず)
奥>私達が時代、やっぱ「おす」とだったね、もう。
だけどやっぱれその前はこうして手で・・・
亀>まだてがづめ(?)家にあんの。おしがみ(?)もあるばってが。
奥>ちょっともう、苦労だったよ、そういう。
亀>苦労したもんなー昔は。
奥>そんでひとかまひとかま、こうしゃくしゃくしゃくしゃく。
諭>手でもこうやって根元かきまぜて。
奥>それが一回ならいいですけどねー、
1回取ってしばらくするとまた生えとってですもんねー
亀・諭>(笑)
大島>雑草がですか?
奥>んん。で、暑いときじゃないね、稲は。
亀>暑かもんなー。
諭>腰掛けるわけにいかんしな。
(笑い声があがる)
奥>もう田んぼの水がお湯みたいに沸くとたい。
だから背中はこうせな背中が暑いじゃない。
諭>「ひみの」(日蓑?)ちゅうがあったよ。普通は雨よけにしちょん蓑。
背中がやけんように。
奥>あれは天気がいいときも着よなったですか?
諭>四角に作った。
奥>なんかそうあったなー。ござみたいなのでしょ。
諭>こうやって編んで、イグサでね。
亀>イグサで。
諭>それが「ひみの」って。
奥>「ひみの」「あまみの」って。
諭>「ひみの」に「あまみの」。いろいろあったですよ。
奥>そらね、ほんと昔の人はそーとね・・・仕事しよなったですよ。
亀>体ばつこうたもんな。
諭>んで腰が余計曲がっとったい、昔はな。
奥>畑に行くにもねー。
亀>全部歩いてばかりじゃけんな。
V.山について
(1)山での作業
@薪の入手:薪は周囲の山々からとっていた(特定の場所は無かったが)。冬の間は年中の燃料にするために、山に行って薪を取ること(山行き)が農家の人々の仕事だった。山は主に竹山と雑木林で、松の木も多かった。
A炭焼き:炭は自家生産をしており、収入も良かった。肥料にもしていたそうだ。
(2)入り合い山(村の共有の山)
上津田の入り合い山は、お宮山と天神山の2つ(場所は地図参照)。お宮山は神社に付属した山である。そこでは焚き物を取っていた。
(3)木の切り出し
木馬(きんま)、しゅら、路引きがおこなわれていた。これらは牛や馬を使って(木馬は牛で)行われていた。川流しに関しては特になかった。
(4)山の幸
カンネ(葛根)を寒の内に採っていた(日永諭さん、亀崎さんのお宅でも採っていた。とても長いものが採れたそうだ)。それを切り、杵でついて水を替えながら何度も洗ってデンプンを取り、それが自家用の薬になった。
山栗はあまり無かったが、子供たちが遊びのひとつとして採っていた。
なお、商品価値のある山の幸というものは特に無かったらしい。
W.生き物について
(1)用水路、川の生き物
用水路の中にいた主な生き物は、フナ、コイ、ナマズである。日永照雄さんの奥様の話によると、川の下のほうに大きなナマズがおり、いつも同じ場所でえさをやっていたので、えさをやりに行くといっせいに集まってきたらしい。
ほかの生き物では、ウナギ、カニ、ハエ、ドジョウ、スモクチ(?)、ギュギュウ、セ
ンペイ、シビンチャ、ハエといったものがいる。ウナギの数は少なく、またカニは食べ
ることができさばの頭をかごに入れて置いておくとかかったそうだ。(なお、秋口が食べ
ごろ)
ギュギュウはナマズの小さいような魚で、色が黄色くトゲがあった。ひれの部分に針
があり刺さると痛かったそうだ。(食べられる部分はあまりない)
センペイは平たい4つ目の魚であり(正式名称:オラニア(?))、サエは小さなえび
である。
現在、フナ、コイ、ナマズ、カニ、ハエ、ドジョウは数が減り、スモクチ、ギュギュ
ウ、センペイ、シビンチャ、サエなどは姿を消してしまっている。
また、田んぼの中にいた生き物はフナ、鯉、ナマズだ。川から水を入れる際に一緒に入ってきたらしい。
フナが田んぼで卵を産み、それが孵化したものをフナゴと呼んでいた。それを子供たちがよくすくって食べていたそうだ。そのころは今のように魚を買って食べることはあまりなく、田んぼや用水路で取れる魚を食べていた。
(「おいしかったですね」と奥さんは話していた)
現在では川底が下がってしまったため、そういった魚が田んぼに入ってくることは無いそうだ。
(2)牛・馬について
@飼育頭数:ほとんどの家が農家で、牛を主に飼っていた。飼っていない家はほとんど無かったらしい。馬を飼っていた家は少なく、4軒(クロカネ・ハットリ・タケヤス・ちょうだ)ほどだった。
Aえさ:えさは自家製のものを使っており、田んぼや畑のあぜに生えている草を混ぜたものを朝と夕方に与えていた。ほかにも、からいもづらを切って混ぜたりもしていたそうだ。草切り場や草切り山と呼ばれる場所は無かった。草は一度切ってもまたすぐに伸び、それを順にまた切って与えていた。(そのため、田畑のあぜは昔はきれいだったと、奥様は話してくれた)
B指示の出し方:牛を動かす際には、ハイッハイッという掛け声とともにひもでたたいていた。左右に動かすときには両側につけた綱を引っ張ったそうだ。
(奥様曰く、「かわいそうだったよ。前は牛は本当にかわいそうだった。」
雄牛をおとなしくさせるには首をなでていたらしい。
C雄牛・雌牛の呼び方:雄牛はこって牛、雌牛はめんち牛と呼んでいた。
こっては男、めんちは女という意味。
D牛や馬を洗う間隔:牛は2,3日おきに洗っていた。馬については詳しいことはご存じないようだったが、毎日洗うことは無かったらしい。場所は河原(地図参照。現在は河川工事が行われたため、入ることはできない。)
E馬について:馬には蹄鉄を打っていたらしい(詳しくはご存じないそうだ)。蹄鉄場という場所が昔はあってそこで打っていたそうだ。
また、どのような病気があったかという質問には、ぜんぜん知らないと苦笑気味に話してくれた。
X.行事
(1)年越し
12月31日の晩には神社に酒の肴を持って集まり、一晩中薪を燃やしていた。おそらく、火事の肩代わりをしていたと思われる。一度、無駄なことだと1、2年やめていた時期があったが、その後東組、西組、上組と立て続けに三件火事があっため、再開されたそうだ。
「昔か人のありよったことじゃ、勝手に自分たちで止めることばいかんなって。」
(日永諭さん)
(2)神社の祭り
氏神様の祭りが10月15日にある。以前は各部落で日にちがばらばらだったが、途中で日にちをあわせることに決めたそうだ。だが、それに加わらなかったところもあり、イタクサ方面では、11月3日に行っている。祭りの際には、以前は神楽が舞われていたが、現在は無くなっている。
また、夏の無病息災を願う祈願祭も行われていた。
なお、祭りの際には、村全体で運営に当たっていた。
(3)神楽
現在ではなくなってしまったが、かつては10月15日に神楽を舞っていた。それは神社ごとに行われていて、亀崎さんが若い頃には舞う人間も多かったらしい。舞うのは男性であり、長男、三男と一人おきに行っていたそうだ。
Y.食べ物について
(1)米の保存方法・食べ方とねずみ対策
米は俵に入れ、庭に竹を敷き詰めた上にそのまま積んであった。はん米やひょうろう米も同様である。そのため虫がついたり、雨が降った時俵が柔らかくなってしまったり、俵を食い破って中からねずみが出てきたりといったことがあったらしい。
食べる時には、麦やからいもを混ぜていた。むしろ麦に米を混ぜていたといったほうが正しいようだが。奥様はからいもばかり食べていたそうだが、結構おいしかったらしい。
ねずみ対策には、主にネズミイラズ、わな、猫が用いられていた。ネズミイラズは日永諭さんが覚えている限りではすでに使われていなかったそうだが、米粒のようにして色をつけたりしていたらしい。
<それぞれの思い出:見栄っ張り?>
昔は庭にたくさん米を積んでいるところがいい家だと思われていた。そのため、そんな余裕のない家は、貧しいと思われるのが嫌で、米の代わりにぬかを詰めて庭に積んでいたこともあった。
(2)川魚の採り方
普通に釣っていたそうだ。毒流しのようなことはしなかった。
「毒流すのはおおごとごつ」と日永諭さん。
(3)野草について
食べられる野草としては、セリ、フキ、ミツバ、ダライメ(もしくはダランメ。タラ
ノメのこと)があった。
食べられない野草(毒のある野草)は特に無かったらしい。
(4)干し柿・勝ちぐりの作り方
干し柿はつるし柿にしていた。皮をむいた柿の、へたから1pほど離れた部分にひもを通して10個か20個並べてつるしていた。
勝ち栗は栗を煮て日向に干して固くするそうだが、上津田では作らないらしい。
(5)お菓子について
お菓子としては、「だごやき」というものがあったそうだ。小麦粉に黒砂糖を入れ、団子にしたものである。お菓子ではないが、干し柿もよく食べられていた。
(6)食料の自給事情
野菜や味噌、醤油は自給していた。魚は田や川で採ったり、魚売りから買ったりしていた。ただ、お金がない人は買うことはできなかった。肉に関しては、犬肉、豚肉、食用蛙も食べていたらしい。加工食品はめったに食べることはなかった。
(7)犬肉について
犬肉がどのようにしてとられているかはわからないそうだ(捕まえて殺すことはなかったようだが)。また、犬肉がおねしょの薬になるという話については、亀崎さんと奥様は聞いたことがなく、日永諭さんは聞いたことがあるような気もする、ということだった。
Z.村の生活
(1)ガス・電気について
上津田にガスが来たのは1978年ごろらしい。それまではかまどでご飯を炊き、風呂焚きもしていた。
電気がきたのは大正10年ごろ。そのときには電球がたっている(?)のを見て大騒ぎしたそうだ。それ以前には照明にはランプを使っていた。
(2)昔の暖房事情
Uの(11)と同様に記す.
奥>炭をねーやっぱり。
諭>暖房はないから・・・こたつくらいですか。
亀>こたつくらいですな。
泥谷>ほりごたつですか?
諭>ほりごたつ。こ、畳の半分だけ。
奥>床の下のほうに掘り下げて。
諭>そして下の方に木炭を起こしたやつを入れて上にこうかけて。
亀>こたつの中だけ。
私のこまかいときはほとんどいろりがあった。
奥>火鉢ですたいね。
諭>畳片枚ぐらいのそん。
亀>くずたい、くずちゅう泥で固めたのをそれに土入れて。
ちゃんと作ってあったもんな。
諭>火をたくところがあった。
奥>ヨウザンなんか流したごしてですか。
亀・諭>はい。
諭>まだ上のほうあまり深くないわけですな。
そしたら上から(聞き取れず)かけてお茶沸かしたりなんか。
・
・
諭>茶釜って大きなあれがあった。あれを置いてあった。
奥>そいでお茶が沸いとったですないね。
亀>そいで天井は真っ黒ですたい。
奥>昔の家はそいで黒光りがしよったですたい。
亀>煙で黒なってもんな。
奥>そんで虫もつかんと。
諭>そんで天井がないところもあったもんな、昔は。
藁で屋根を作って、空が見えるところが。
奥>藁屋根だったもんね、昔は。
諭>天井じゃあまり間がないもんじゃから、もう天井がないところにする。
そしてみんなその周囲に座って。
奥>家族やっぱ一緒にあれしよったでしょけんねー、今みたいに。
・
・
諭>ほりごたつのほうが木炭や・・・ぬくいのはぬくいな。
亀>ほりごたつのほうが足曲げんち下の方かついてよかもん。
(3)灰の作り方と使用
灰は薪を燃やした後にできたものを使っていた。いわばついでにできたものを使っていたのであり、わざわざ作るようなことはしなかった。特に肥料に使うというようなことも無かったらしい。
(4)村に出入りするひと・もの
@魚売り:ナガス(アガオの手前にある。現在有明造船という造船所がある)という場所から自転車で大勢来ていた。自分たちで取った魚(いりこなど)を売り、村の人々 もよく買っていた。イタクシマ(?)という場所からは、カジヤマ トメさんという魚売りが来ていたらしい。
Aソソクリ:ソソクリは修理という意味。
上津田では蓑や鍋を修理したり売りに来たりする人々はあまり来なかった。鍋は村の専門家に頼むなど、大体自分たちで修理していた。
Bお坊さん:カンギョウジが寒い頃の夜に何人かでまわってきていた。ザトウさんが来ることはなかった。お坊さんではないが、やんぶし(山伏)も来なかったそうだ。
C薬売り:富山の薬売りが泊りがけでいり薬を来ていた。家庭に薬を置いていき、また翌年に来て使った分だけ代金を取り、また補充していった。
(5)車社会に入る前の道
2mほどの狭い道だった。(場所は地図参照)
(6)病気の時には
病気にかかった時には医者に診てもらっていた。部落の中には医者はいなかったが、近隣の村には医者がいた。一番近いところでは日永諭さんが子供の頃からウダに一軒あり、他にも、ジッチョウなどにもあった。
(7)青年クラブ
上津田では昭和9年に県道ができた後、公民館ができた。青年クラブができたのはその頃だ。その以前にはそれに該当するものはなく、集まりがあるときには個人の家で集まった。青年クラブはあまり厳しいものではなく、規律や制裁もなかった。
<話の脇道:女性の場合>
女性は女性同士で集まって遊んでいた。婦人会というものもあったそうだ。集まるときには個人の家に行っていた。何をしていたかといえば、「若いもんの話だったろたい(笑い)」(奥様)ということらしい。
また、女性のいる家にはよく男性が遊びに行っていたそうだ。奥様の家は姉妹ばかり6人いたため、しばしば男性が遊びにきていた。
(8)青年の悪行?
@盗み:皆さんの証言を引用
奥>それは結構ありよったですたい。
カビが生えてても盗っとったです(笑い)。
翌日行ったらまっさらかびがしとったたい。
若い人たちはそういうことあったよ。
諭>やっぱ部落で神楽ん稽古ん時、年上の人たちは泊まりよったですね。
私たちは帰りよったですたい。
そうすっと、私達が帰ったあとで柿を、賽銭箱の(聞き取れず)なったやつね、
それいっぱいとる(笑)。
いっぱいちぎってきて、晩にちぎって。
奥>食べるとがなかった時代だろけんね。
泥棒のうちに入らんですね。
亀>あの頃はそがんことなかったもんじゃけん。
諭>相手も、盗られる方も、青年のしたんじゃろくらいに。
奥>もうちょっとねー頭のほうにね、こう何でも、
みかんでも何でもなってるともぎ取っていくような感じたい。
諭>時にはあがっとっとこう梯子を外してよったけ。誰かこけたち言いとった。
奥>スイカなんかも行きよなったそうですねー、ナカンバラあたりまで。
うちに(聞き取れず)あったけ行きよった。
諭>私も向かいの畑にスイカとってしね。
晩に行きよった。
奥>晩にね、
そうすっとこらーって言いはると走ってねー。
今ならおおごとになるけど、昔はねー。
亀>今は車持っとるけんな。
前には盗ったすと2つ3つぐらいのこて。
それ以上持てんけんな、持っていかれんけん。
奥>昔はその位で盗られた方もなんだしね。
亀>そこで食べるだけのしれたもんじゃもん(笑)。
A よばい:昔はしばしばあったそうだ。覗かれるということもあったらしい。若い人々
はそれが楽しみだったそうだ。
B 喧嘩:この村の中で喧嘩が起こることはなかったが、よその村に行ってしていたよ
うだ(日永諭さん曰く、「喧嘩は強かったもんな」)。板楠方面らしい。死者や怪我人が出ることもあった。
(9)娯楽
昔はよく芝居があった。だが、この村では行われていなかったため、遠い場所まであちこち歩いていったそうだ。(ちなみに、ヤマガという場所までは歩いておよそ1時間。道も悪かった)
(10)言葉
じょうもんさん(お嬢さんの意)という言葉は昔はよく使われていた。
みちわけざけ、まつりぼこという言葉は聞いたことがないそうだ。
(11)お風呂
以下、奥様、日永諭さん、亀崎さんの会話を引用
亀>共同風呂中のはなかなー。大体個別風呂。
諭>そんなー、もらい風呂はあったな。
隣あたりにー隣あたりに入りに行く。
自分うちに沸いとらんもんじゃけん、隣に行って隣からまた来ると。
そういうことはあったですよ。
毎晩どこでん風呂を沸かすことは少なかったですけんね。
奥>薪を取ってですねー焚いて。
水もお宅はどこから汲みよなったですか?
そこから、ロクゾウさんあたりから汲みよったですよ、うちあたりは。
諭>私の時、知っとるときはポンプだったですよ。
井戸はあまりなかった。
亀>私の時は使い水はロクゾウさんから。
風呂水はイド川から汲んできよなった。
(中略)
諭>そうすっと平井戸のー、の隣には普通の井戸があったもんな、つるべで。
奥>とにく水もねー、大変だったよ。
でも人数多いしねー。
私のお嫁に来たぐらい、このお風呂入って、裏のほうじゃけん、
毎回掃除するのに見るともうお風呂の縁がこうー。
垢のねー、もうこんなのに入りよったろうかと思ったとよ。
今みたいにどんどん使われんの、水を。やっぱねー、昔は。
もしあれが明るいところなら入られんよねー。暗いところでそんなしよったよ。
諭>私のところは石の風呂だったですよ。
石で風呂を作ってあった。
亀>今はもうなかな、石風呂。
奥>くっつくと熱かったでしょ。
諭>がまがですね、
亀>タケグチだけ、でとったもんな。
諭>そこで焚くたい。
そんでそこに引っ付きさえせんかったらよかった。
あの、五右衛門風呂よりもよかった。
亀>五右衛門はもうふたば入れんならもう熱うて入られんもん。
諭>あれが子供の頃はなかなかぴしゃっと踏めんたい。
奥>ほん難しかったですね、横なってねー。
でもちょっと燃やしてもらうと、くっつくともう熱くてね。
亀>クロカネは桶風呂もあったな。
諭>桶風呂もあったろな、桶風呂。
石風呂はですね、背中こうすっとのってくるよな、あの石の。
奥>がさがさしよっとですよ、石風呂で。
諭>石風呂は気持ちいいですよ。(中略)
もうあれもあの五右衛門がはやりだしてからどこにでもほうってあったですよ。
(11)結婚
恋愛結婚は多かった。最も、見合い結婚と比べた場合には、やはり見合い結婚のほうが多かった。
(12)村の中の格差
村の中での格差はあまりなかった。農地改革の際にも、土地の払い下げを受けた者はいたが、取り上げられたものはいなかった。
(13)戦争の影響
大きな影響は出なかったが、7,8人の戦死者が出ている。家庭の男性が見な死亡したところでは、養子を取らなければならなかったりと苦労したらしい。
[.村の変化と今後
(1)村の変化
やはり、人口がだいぶ減ったそうだ。昔は一戸当たり平均5人だったが、現在では3人ほど。特に子供の数が大きく減っている。
(2)今後
農業の後継者がいなくなっている上に、農業だけでは生活できなくなっている。
「百姓も潰れやせんか」と、日永諭さん。
\.最後に
今回の調査を通じて、教室の中で学ぶだけでは決して得られないことを数多く学んだと
思う。直接お聞きしなければ知ることのなかったであろう事実だけでなく、自ら積極に
に学ぼうとする姿勢も今後の人生にとっての貴重な財産だ。そして最後に、今回お忙し
い中調査に協力してくださった皆様に、心から感謝の意を示したい。