三加和町上太田黒レポート
調査者:溝上浩平
渡邊俊介
和田康平
1、調査目的
記録に残らない、失われつつある通称地名=しこ名を地元の古老から聞き取り、それを記録する。また、その他忘れつつある昔の村の姿・記憶を記録する。
2、調査日 2004年6月26日
3、お話を聞いた方 中山 勝さん:大正二年生まれ
4、当日の行動記録
08:15 九大六本松キャンパス本館前集合
08:30 出発
10:20 バス降車
10:40 区長である宮野さんの家に到着、が、お話を聞く方は病院でリハビリ中
11:00 お話を聞く古老、中山さん登場
12:00 昼食
16:20 宮野さん宅を辞する
17:20 バス乗車
19:00 九大六本松キャンパス到着、解散
5、調査項目
5.1――太田黒の土地
<小字>
「前田」――「マエバタ」(前畑)、「ホッタ」(堀田)
「深町」――「コウチ」(耕地)
※
現在の「淀」と「面頓寺」は位置が逆だったそうだ。
<地名>
「北ノ前」――<フタマタ>(二又)
「山田」――<ジンカク>
「石坂」――<ドンドン>(水が勢いよく吐き出される様から)
「淀」――<ヘコヒキ>(ヘコ=ふんどし。ふんどしを引きずるような湿地であることから)
※
「前田」にある中学校橋は昭和26〜27年頃、中学校ができたことに由来している。
また、太田黒は温泉が出やすい土地のようで25mくらい掘ると温泉が出るそうだ。神尾小学校付近に温泉が2つ(表<客中心>と裏<地元中心>)があり、護岸工事の際に川の中に温泉が出ることもあるそうだ。
三加和町には、神様が8柱在り、(耳、歯、イボ、胃、手足、目、性、命)そのうち上太田黒には、「イボイッサン(いぼ石さん)」=イボ石神がいる。この自然石は昔から「イボ」とりに効能がある神様として古くから信仰されており、自分の年の数だけ大豆を煎って供え、石の上のくぼんだ部分に溜まった砂を手にとって、それでイボをこすると不思議とイボが治るそうだ。
・「赤猫田」
宮野さん達が話すのをためらっていた、たたりの地であり、「田」とはついているが、現在は荒地らしい。以下『玉名郡誌』の要約である。
神尾村大字石坂、徳川時代の中ごろ、六兵衛半助というものがいた。家は貧しく借金が多かった。年の暮れに債権者が来て、「若し返済不可能なるにおいては抵当たる家屋敷を明渡すべき旨厳談」した。半助は、今晩立ち退くから大晦日の古飯(赤飯か?)もうすぐできるからもうしばらく待ってくださいと頼んだが、債権者は怒って「古飯とは何事ぞ」と言って鍋の中に土砂を投げ入れた。半助達は怒り心頭に達するも「怨み骨髄に徹せしも」どうすることもできず追い出され、和仁川に沿って下る時に泣き叫びながら「此の恨み争でか晴さで置くべきか 魂魄此處に止まりて債権者一族に長く禍を致すべし」と言ったそうだ。(注:下線部は玉名郡誌より引用)
その後、一家の魂が化けて赤猫となり、債権者の住んでいた地、今のいわゆる赤猫田に住むに至り、その一族はもとより田主にまで毎年災いをなしてきたそうだ。
今年(玉名郡詩の記述された大正9年)に同地に傳染病(流行病か?)が流行して現地の主一家のものが前後して3名死亡したそうだ。このことで、地元人はいまさらながら赤猫田を恐れるのであった。
宮野さん達は思わせぶりに話していたが、どうもそれほどのものではない気がするのは気のせいであろうか。確かに、債権者は典型的な悪役、といったところであり、恨まれて当然という気もするが、だからと言って債権者本人だけでなく一族、さらには無関係なものまでたたるほどの事はあるのだろうか、と考えるのは現代人の勝手な物言いだろうか。
5.2――太田黒の信仰
まず、太田黒一帯の主な信仰対象は阿蘇神社である。熊本阿蘇郡に本社を持つ神社で、共に巨石を御神体に持つという共通点がある。こちらのご神体には、みるみるうちに大きくなったという伝説があるらしい。ご神体の巨石は囲われており、女性は立ち入ることが禁じられている。楼門があることから、かなりの規模のようだ。昔は石段があった(いまはグラウンド整備等でなくなってしまったそうだ)ことからもその規模が伺える。ちなみに、折々にお供えする米やお金はそれぞれ持ち回りだったそうだ。
また、この敷地内には深い穴があり、そこは和仁川とつながっているという。時には鯰が上がってくるらしい(ここで唐突にナマズの話が出たのは、ここが阿蘇の神を祭っていることに関連するのだろうか?阿蘇神社の本社末社では、鯰に関する伝承が残っているところや、鯰を大切にするところが多数あるという)。また、神事の前には和仁川で身を清めたそうだ。
以下、神社で行われた主な神事。
・ 神楽:収穫後に行われる、神様への感謝を示す神事。旧暦十月十五日に行われる。近在から多くの人が見に来ていたそうだ。太田黒では舞・笛・太鼓(大小)などがあり、青年会(*後述)が主に行う。青年会の面々は夜になると練習の為集まり、十時まで練習した後は必ずお酒を呑んでいたとか。(中山さん曰く、「それぐらい(神楽も含めて)が楽しみやった。」)
・ 雨乞い:太田黒は和仁川によって豊富な水量が保障されてはいたものの、やはり水が足りないことはあったそうだ。その時に行われる雨乞いの神事は、歌、太鼓、舞などが神楽と共通だが、ポイントとしてひょうたんを廻すことがある。
(ひょうたんを雨乞いに使うのは、全国的にも多いようだ。やはり水との関連性ゆえだろうか)
・ ガンタテ(願立て?):豊作祈願の神事。お弁当を持ってお堂に篭り、数夜を明かす。(宮野さんの奥さんの言うことには、「晩の弁当は(お篭りの)人数が多いもんだから大変やったよ、もう」だそうだ)
・ ワクグリ(輪くぐり):健康祈願の神事。カヤでつくった大きな輪を境内に据え、その前でお祓いをうけた後、男は右回りに女は左回りにその輪をくぐったそうだ。
(カヤには浄化の力があると言われており、禊ぎの意味があると思われる。また、男女のくぐる左右の別はイザナギ・イザナミの国生み神話に基づいているのかもしれない)
神社で行われるものではない=阿蘇の神様への祭事ではないが、サナボリ(サナブリ?早苗饗?)と言われる、河で行われるものもある。これは若竹を縦に割ってそこにお神酒を注ぎ河に流すと言う儀式で、田植えが無事に終了したことを田の神に感謝し、そのお帰りを見送ると同時に、豊作を祈願するという意味がある。
また、寺での病気の治療も行なっていた。病気になるとお坊さんにお経をあげてもらい、お経の束で患部を撫でさすってもらうと、不思議と治ったということだ。
5.3――太田黒の農業
まず、太田黒は近くに和仁川があり、水の量は潤沢であったので、田んぼへの水はそれぞれがもっている井出からひいていた。よって、水争い、共同田はなかったが、逆に、洪水による水害が大変だったそうだ。実際、調査に行った日も大雨が降り川が増水していたが、宮野さんの奥さんが言うには、「このぐらいはたいしたことない、川の水が岸ぎりぎりまでくるのが普通。」だそうだ。護岸工事をして、この状況(冠水もする)であることから、昔がどれほど凄かったかは想像に難くない。
また、下太田黒、野田には水車もあったそうだ。(上太田黒にはなかった)その水車は、皆で造って共同で使う、といったものではなく、個人で造り、皆は金を出して使わせてもらう、というものであった。ちなみに水車では脱穀を行っていたようだ。(中山さん曰く「臼があって、水の力で杵を持ち上げてドーンとついていた。」)
農家では全ての家で牛を持っていたが、それに対して馬を持っている家は2、3軒ぐらいであり、そのうち牛だけになってしまったそうだ。理由は、牛の歩みは遅いので、それぐらいの速度が年寄りにとっては丁度良い。だから、年をとってくると馬を売って牛を買う、ということをしたからだそうだ。
また牛馬の餌は、畑や河原の土手から毎日取ってきていたそうだ。(山から取ってきたりはしなかった というより、山は階段状に畑にされていたそうだ)ただし、草が湿っていないと、つまり、朝露が残っているような時でないと、乾燥して非常に刈りにくくなるため、朝早くからやらなければならない大変な作業であったようだ。
田んぼで作っていたのは、米、粟、麦であり、麦に関しては全ての農家で米をとった後に作っており、粒あるいは粉にして、米に混ぜて食べていたそうだ。
同じく全ての農家でしていた事は、養蚕であり、家の中には蚕用の部屋もあったそうだ。作った糸の多くは、製紙工場に売ったそうだが各家庭には織機もあり、平素の服は木綿だが、祭りの時の着物はみんな自家製だったそうだ。(染めるのは染め屋に持っていったが、それ以外は家で全てやっていたそうだ。宮野さんの奥さんは母親から絹のセーラー服を作ってもらった、と懐かしそうにおっしゃっていた)
話を聞いて感じたことは、農家というのは意外と豊かな生活を送っているのではないかということである。「決してそんなことはない。」とはおっしゃっていたが、話を聞くかぎり、そうは思えなかった。今まで、農家、農業に対して思っていたイメージは江戸時代の農民や、明治・大正の小作人といったものが中心であったので、教科書その他から受けたイメージとの実際の状況とのずれというものを感じた。
5.4――生活について
5.4.1―新技術の導入
戦後、新しいエネルギーや技術が多く日本に普及した。太田黒もその例外では無かったようだ。中山さんや宮野さんの発言からも、その印象深さが伺えた。
・ 電気:(これは戦前だが)大正七年導入。この年に多くの家庭に普及したわけではないが、太田黒に電燈の灯りが燈った最初の年となった。当時五歳だった中山さんは、電柱を埋めに来た時のことを覚えてらっしゃるようで、「なんか歌を歌いよったよ。」などと、子供心に強烈な印象を受けたようだ。それまでの灯りといえばランプ(さらにその前は囲炉裏?)だったそうで、ホヤぬぐいをよくしていた記憶があるとか。(ちなみに燃料は菜種油)
・ ガス《昭和三十五年〜四十年にかけて普及》
・ 水道→河川工事の欄参照。
・ 電話:《昭和三十五年〜三十六年頃?》
当然のごとく、一家に一台と言うわけにはいかなかったようだ。
・ テレビ《昭和三十年〜》
やはり初期はめったに持つ家が無く、夕ご飯の後など、近所の子供が集まってきてはテレビをみせてくれとせがんだそうだ。大勢が一緒にみるので、画面を大きく見せるために、ガラスの容器に水を入れた拡大レンズを使っていたという(これは今でも使えそうな気がするのだが、どうだろう?)。
―番外―
・ 木炭バス《昭和十七年〜?》
文字通り木炭を燃料として走るバス。坂道では本当にのろのろとしか進まず、後ろから人が押したこともあったとか。
・ 自転車
今も庶民の足として活躍しているが、大正の世も大活躍だったらしい。中山さんは自転車に飯ごうと米を担いで無銭旅行(大分、宮崎等)を決行したとか。途中は野宿、もしくはお寺などに止めてもらったらしい。(「宮崎は神の国やから、人柄がよかったねー。」と言っていたが、宮崎の親戚を見る限り、彼らは単に悠長なのだと思われる)
しかし、宮野さんの世代、つまり太平洋戦争前後には自転車というものはほとんどなかったそうだ。金属供給の問題だろうか。
5.4.2―物売り等
近年、太田黒は店舗が激減しており、多くは都市圏に買い物をしに行くようになったそうだ。だが、それ以前は商店もあり、物売り等も度々来ていたという。主なものを聞かせて戴いた。
・ お惣菜屋
・ テボ(蚕を買う竹で編んだ籠)売り
・ 富山の反魂丹売り―――いつも泊まる所は決まっていたとか。
・ コイショケ(竹で編んだ笊のようなもの)売り―――宮野さんの奥さんが今持っているコイショケは、中国製で100円だそうで…時代を感じる。
・ オケソソクリ、又はオケワカエサン(桶輪換えさん)
・ ミ(箕)ソソクリ
(※ちなみに、ソソクリは「普請、修理」の意で、ソソクルという動詞が元になっているようだ。古語?)
*廻り芝居、浪花節などの芸人も時折来ていた。
他に部落に来る人として、修行僧(頭巾を被っていた)やカンジン(勧進)と呼ばれる物乞いもいたそうだ。河原に草などで簡単な住まいを作っていることが多く、宮野さんの奥さんも子供が物乞いをしにきたことを覚えていた。
5.5――青年会について
青年会とは、十六歳〜二十五歳の独身男性が集まって組織していたもので、往時は六十人前後が所属していた。先述の神楽も彼らが主体となってしたようで、部落という共同体の大切な部分を担っていたと思われる。県からの依頼で旧参勤交代道の整備などをして、その賃金を活動費用にあてていたそうだ。草芝居などを練習して演じたこともあったらしい。
が、必ずしも立派なことばかりをしていたわけではないようだ。(中山さん:「悪いことばっかしよったよ。」 宮田さん:「(事前に渡してあった質問事項を見ながら)ここに書いてあることは大抵やったよ。」)
家の軒先にお饅頭やお握りなどを下げておくと、いつの間にか無くなっている。「ああ、こりゃ青年会がとっていったとやろ。」と思うのが通例だったそうだ。つまり青年会はそういった存在として認知されていたということか(“盗み”に対する大らかさに少し驚いた)。
犬を捕まえる話も聞かせて戴いた。竹であらかじめ輪を作っておき、犬がそこに首を突っ込むように追い込んで捕らえたそうだ。宮野さんによると赤犬が美味いというのは単なるうわさだとか。曰く、「肉はみんな同じよ。」
他にも、風呂覗きや夜這いはよくしていたそうだ。特に夜這いは何かと思い入れがあったようで、色々と話してくれた。
夜這いといっても、半ば遊びのような感覚だったそうだ。目星をつけた女子のところに大勢で忍んで行き、一人がこっそりと家の中に入っていくことが多かったという。これが夏だと、雨戸も閉め切っておらず障害となるのは蚊帳のみ、ということで、そうっとかき分けて布団をめくったものの、そこに寝ていたのは親父さんで、わぁっとばかりに逃げ出したこともあったそうだ。
女子の目星をつけるにも、色々と作法があったらしい。その一つは、浪花節などが巡業に来たときの帰りなど、(冬だったので)帰り道の女子を自分のマントでふわっとくるみ、「ほら、ぬくかろー。」などといいつつ家まで送っていったとか。そうやって、その女子の家をチェックしておいて、夜に忍んでいくというわけだ、と。
話を聞いていて感じたのは、その当時の恋愛の明るさというか、あけっぴろげ具合だ。本や映像などからは、大正・昭和の恋愛は隠すべきものだったというイメージを受けがちだが(もちろん、そういう部分もあったにせよ)大抵は楽しく恋愛をしていたような印象を持った。
5.6――河川工事について
現在、上大田黒田に水を引く堰は少し北に行ったところにある野田にあるらしい。しかし、以前はすぐそばの川から水を引いていたそうだ。何故現在では野田まで水を引きに行くのか?話を伺ってみると、15年近く前に行われた河川工事が関係しているらしい。
ここ上大田黒は地形的に川に沿った形の細長い形をしている。そのため、水はすぐ近くの川から引くことが出来るため、水を巡る争いは起こらなかったそうだ。元々地形的にもくぼんでいる場所なので、水量もあり、水不足もあまり起こらなかったらしい。(ただ、雨乞いの話もあったので、完全になかったわけではなさそうである。)
ただ、水害は例年のように起こっているらしく、川は増水し、辺り一面水につかってしまうそうだ。話者の話によると、増水は激しく、腰から下まで水に浸かってしまうほどであったとのことである。地形的にくぼんでいることと、和仁川の西にある山の木が伐採され、裸山となってしまったことも原因らしい。(土石流も毎年のように起こるそうだ。)
特にひどかったのが15年前の水害で、多大な被害と、幾名かの死者も出した。このことをきっかけとして、河川工事が行われたらしい。川を掘って深さを増し、土手を高くしてコンクリートで固めるということがおこなわれたが、このことは川に大きな変化をもたらした。
堰の位置の移動は話の最初に述べたが、何よりも激しい変化は生態系の変化である。河川工事以前は川の土手は笹藪で満ちていたのだが、工事の際にほとんど失われてしまった。以前はそこにたくさんの蛍が住んでいて、夏になると箒を振るだけで捕まえられるほどであったという。工事後の今ではほとんど見られなくなってしまったと話者は少し寂しそうに話していた。
また、川に住んでいた魚もかなりの種類が姿を消したという。一応川の中には「魚の住む宿」としてコンクリートで作った半円柱状の住処が作られているそうだが、何の効果も果たしていないようである。
消えた魚の品種も伺ってみたが、シジミ以外はまったく聞き覚えのない名であった。ギュッギュ、ハエ、センガンジなど。地元特有の呼称らしい。
河川工事のため、水道も通らなくなり、ボーリングが各地で行われたそうだ。その際に温泉もいくつか見つかったらしい。
上大田黒ではまだ圃場整備が行われておらず、この河川工事が最も変化をもたらした出来事であるように思われる。故に、河川工事以前の話を聞くことは上大田黒の歴史を残す点で非常に有益だと思われるが、文章に起こしてみると予想以上に内容が薄いと気づかされた。再度訪問し、話を伺う必要があるように思われる。
5.7――上大田黒の今後について
最後に、上大田黒の今後についてまとめてみたい。
今回話を伺う中で、昔の出来事を数多く聞かせてもらったわけだが、話の節々で「昔はよかった」という台詞を何度も耳にした。河川工事などによって失われた環境・生態のこともあるだろうが、何よりも部落としての活気が昔は盛んだったようである。
「男はソフト、女はバレー。あん頃が一番楽しかったぁ。」と話者は語っていた。青年会や老人会、村をまとめる組織もしっかりとしていて、部落全体に活気があったという。だが、現在では老人会は存在しない。役員を務めてくれる人が今ではいないのだそうだ。
もともと上大田黒は他の部落と違い、細長い形状をしていることも部落がまとまりにくい理由の一つらしい。
ただ、区長さんによる個人的なペタンク場の開設など、部落に活気を取り戻そうとする動きは行われている。
部落だけではなく、町単位で周辺から地元特有の産業を体験学習してもらおうとの動きなど、何かと活動は行われており、私たちから見ると三加和町は活気にあふれているように見えた。
何より話しを伺った中山さんは92歳、区長である宮野さんは68歳。どちらも実年齢よりも10歳以上若く見えるほどお元気な方達である。このような元気あふれるお年寄りのいる町なら、あと5年、いや10年後に再び話を伺いに行っても同じような元気な笑顔で私たちを迎えてくださるだろう。
今後の三加和町と上大田黒の発展に期待を抱きつつ、結びに代えさせて頂きたいと思う。
6、総括
まず何よりも、テープレコーダを忘れていったことが痛かった。せっかく研究室に貸し出し要請をしていたにもかかわらず、すっかり頭の中から抜け落ちていた。気がついたのは帰りのバスの中だったりする。あいまいな記憶やメモから漏れてしまったものは少なくなかったように思われる。
さらには、時間調整の計画性が足りなかったように思える。実は、自分たちがバスから降りるのは一番最後だと思っていたのだ。故に、一番最初に降ろされることになったときに慌てふためかざるを得なかった。結果、連絡していた時間より早くついてしまい、相手側を無意味にあせらせてしまった。
それにしても、今回の調査グループの中では一番長い聞き取り時間を持っていたにも関らず、すべての質問項目を満たすことができなかったのは残念だった。聞き方に問題があったのか。お昼から小宴会が始まったのも誤算ではあったが。
豪雨の為に現地を見て回ることができないのも無念だった。しかし、聞き取りだけでも手一杯だったことも確かだ。もっと時間的余裕を持たせるか、事前の連絡を密にとり、作業効率を上げる必要を感じた。
話が脱線したり、担当地域外の話が多かったのも聞き取りが足りなかった理由であると思う。仕方のないことだとは思うが、調査する以上、うまく話を誘導する能力も必要なのだなと感じさせられた。
*参考文献:熊本県教育会玉名郡支会『玉名郡誌』(東京、名著出版、1972年) p865