失われつつある記憶

〜熊本県三加和町での調査より〜

 岩橋由季

佐伯眞矢子

 

調査地:熊本県玉名郡三加和町上岩

談:徳永克己さん  昭和15712日生まれ

          〔平成16626日現在63歳〕

 

T.小字名

 

  @志源寺  シゲンジ

  A扇谷   オウギダニ

  B三浦   ミウラ

  C城の浦  ジョウノウラ

  D西丸   ニシマル

  E北園   キタゾノ(これが多く使われる)

        キタノソノ

        キタンソノ

      ※現地の人は『北園の畑』のことを『ハチリュウの畑』とも呼んだ。

  F中村   ナカムラ

  G河久保  カワクボ

  H馬場園  ババゾノ

  I長浦   ナガウラ

  J尾谷   オタニ

  K立山   タチヤマ

  L迫の前  サコノマエ

  M北辛木田 キタカラギダ(一般の資料にはキタカラキダとふってあるが、現地では音がにごる)

 

     他の現地特有の呼び名

   一井木橋(イチイギバシ)→ イチギバシ

タカバシ

(昔は橋が高く架かっていたため、こう呼ばれた)

 

 

 

T.田・畑

 

  現地の田んぼの呼称

     立山にある一部の田を、昔あった‘オテンジンサン’と言う神社にちなんで‘オテンジンサンヤシキ’と言う。

     北園の畑を‘ハチリュウの畑’と言う。

 

  三加和町の圃場整備

岩を流れる岩村川は平成11年からの圃場整備によって流れが変えられた。馬場園と河久保の境から北園と漆尾の境の部分までが南側の道路沿いに寄せられ、田の形状や水を引く場所などにも変化があった。(地図参照)

 

  田に水を引く水源

     カミノツツミ:立山にある池。今も一部の田に水を引く。

     ウランタニノツツミ:立山にある池。かつては田に水を引いていたが、現在は使われていない。

     ヒラヤマイデ・ヒラヤマノイデ:山鹿市との境辺りにあるせきとめ。現在も田に水を引く。

      

圃場整備前後の水の供給地

 

圃場整備以前

圃場整備以後

北園・中村の岩村川以北

ミウラノイケ

ミウラノイケ(今年できたポンプも)

北園・中村の岩村川以南

平成11年に解体されたせき止め

今年できたポンプ

大部分の田

ヒラヤマイデ

ヒラヤマノイデ

立山の一部の田

 

カミノツツミ

 

水争い

大きな揉め事はなかったが、よその田にいく水を自分の田に入れたりすることはあったらしい。

 

雨乞いの経験

     徳永氏二十代。山鹿市の水の神、明神さんに行って、一升瓶のようなものに水をもらってきた。数人で、ふもとまでは自転車、山は歩いて登る。三加和町の阿蘇神社で水を祭って太鼓をたたき、酒や持ち寄った重箱料理で雨を祈る。その後雨は降り、ご利益があったのではないかと言われた。

     現在九十代くらいの人は歌を歌っていたらしい。

 

〜対談の一部 雨乞い編〜

水が足りなくなったときに、雨乞いとかそういうのはしたりしたんですか?

  徳永さん:ああ、しよったよ。

あ、してたんですか?(意外な驚き)

  徳永さん:うん。

どういうことをされてたんですか?

  徳永さん:向こうに、山鹿に小坂っていう部落があるわけたい。小さい坂って書いて小坂。明神さん、ちゅって水の神様があったもん。

明神さん?

  徳永さん:うん。明神さん。水の神様なんよ、ちょっとな。そいけんそこさもらいに行って、して(水を)もろうてから帰ってからその迫の阿蘇神社で、今度は百姓がみんな寄ってから、いろいろお酒飲んで、重箱()(にして)で、手製の弁当作ってそこでいっぱい飲んでから太鼓たたいて。

太鼓。

  徳永さん:太鼓たたいてから祈る。

水をもらってくるんですか?

  徳永さん:うん、もらってきよったよ。山鹿にいきよったもん。

歩いてですか?

  徳永さん:なんね、自転車たい。そんなん()。山まで行ったら自転車置いて歩いていくとたい。一升瓶抱えて。

水をもらって持ってきて、ここで祭って。

  徳永さん:うんうん。阿蘇神社で、百姓らが行って、重箱肴で太鼓たたいて。

ああ。太鼓。雨、降りましたか?

  徳永さん:んー。ほんのちょっとな。

降りましたか。へぇー。

  徳永さん:そりゃ降ったよ。ちょっとね。ああ、ご利益のあったな、って言いよったたい。まえは雨の激しかったけんな、いろいろ、いっぺんでふっとんもん。

一度に。それは何年位前ですか?

  徳永さん:何年位前になっとかねえ。もう。30・・・何年か、4年位前やったかなぁ。そん時に何人か行ってね、水ばもらってきて、阿蘇神社でお祝いばしたたい。あれもなんか歌があるもんな、ちょっとした。

歌ですか。おぼえていらっしゃいます?

  徳永さん:ちょっとした歌のあるばってん、そげんとはもう今の90後半の人くらいが歌いなったけん、もう俺たちは覚えてなか。

徳永さんはお水をもらいにいったんですか?

  徳永さん:行った。

そのころはじゃあ・・・二十代くらいですか?

  徳永さん:うん、二十代たい、まだ。

じゃあ若い人たちがいって、もらってきたんですか?

  徳永さん:はいはい。そんとき何人かで行ったもんなぁ。四、五人くらいいたろう。五人くらい。

自転車で、山越えて。

  徳永さん:うん、下に置いて、山道を通って、山の上にのぼって。阿蘇のごたるとこ。

 

  台風

台風予防の神事(風切り)などは徳永氏の頃にはなかったらしい。しかし、平成4年の台風が来たときのことを語ってくださった。

 

     〜対談の一部 台風編〜

十年位前に大きな台風来ましたよね?

  徳永さん:うん、十九号かなんかやろ?

あの時はどうだったんですか?田んぼとか、山とか。

  徳永さん:あぁ、あれは田んぼがびったりしてしまったたい。稲の。

秋でしたよね?もう倒れてしまって?

  徳永さん:うん、もう秋じゃったけ、もう稲の穂がでとったけ、もうべたっと。稲のたっとったのもみんなべたっとしてしまったたい。

倒れたら刈れなくなりますよね?稲刈りのときは。

  徳永さん:そしてもう手で刈ったりね。あと、(稲を)何本か一緒にして、まだ(稲が)青かけ、早かけ、実の入らんけ。

倒れてしまったらそれから上に伸びませんよね?

  徳永さん:そう、栄養の上がらんけ。

あぁ、だから何本か束ねて。

  徳永さん:そう。

 

  用水路

 用水路の中の生物 

昔:どじょう       →どじょう汁

  さえび(小さなエビ)  →釣りの餌 

  黒タニシ       →油炒め(美味らしい。)

  カエル

今:用水路のコンクリート整備と農薬の使用によって昔いた生物は全滅した。

  ジャンボタニシ    →不味い。

    養殖されていたものが放置され、現在川や谷に流れ込み繁殖した。

    現在はつばき油などで駆除している。

 

二等田 

1.中村〈徳永氏所有〉

2.馬場園          (地図参照)

普通の田で取れる米は8表程度だったが、二等田ではそれよりも1俵半〜2俵程多くの米が取れた。

 →圃場整備の際、二等田の土も他の田の土と混ざってしまったため現在はこれらの二等田は存在しない。

 

  悪田

     谷・盆地の田んぼは日照時間が短いためあまり米が取れない。普通の田で取れる米8俵に比べて45俵くらいしか取れなかった。現在は、減反政策で米作りが抑制されており、悪条件の土地を休耕にし、肩書きは田んぼでも、栗・杉などを植えている。

      

肥料

 化学肥料導入以前は、石灰・人糞・木灰(かまどなどのもの)などを肥料にしていた。

 

  稲の病気

   いもち病(稲熱病):いもち菌の寄生によって起こる稲の病気。多湿の年に多く発生。暗緑褐色や黒色などの斑点を生じ、ついには稲の発育を止める。

   うんか:うんか科の昆虫の総称。セミに似た形で、体長約5ミリ。稲を害する。

 

  害虫

   カメムシ  もみを吸い取り、その部分は黒くなる。

   ハマキ   稲の葉を食べる。

    駆除 昔:廃油・灯油

       今:農薬

 

  田の共同作業

 昔はかせい、現在は組合といい、親戚同士で助け合って行った。

  田植え

 昔は蚕を買っていたため、六月二十日過ぎに行っていた(400a.m.ごろから)。早乙女を雇うところや、てまがえもあった。

  さなぼり

 親戚同士で集まって行っていた。

  田植え歌

 現在100歳程度の人なら覚えているかもしれない程古くにはあったかもしれないが、徳永氏の記憶にはないらしい。

 

  家畜

 馬は二代前、牛は一代前頃に使っていたが、現在ではどちらも使っていない。

 餌は草、くだけ(もみをたいたもの)、小麦(ローラーでつぶしたもの)、米のとぎ汁などがあった。

 牛が歩くときには手綱一本で引き、田を鋤くときには手綱二本で操作した。お尻をたたくこともあった。

 雄牛をコッテ、雌牛はメスウシと呼び、産まれた雄牛はほとんど市場に出された。雄牛は主に子を産ませるためだけに飼われていた。

 特に雄牛は市場に出すときに暴れたので、おとなしくさせるために、Y字の竹で避けた。

 馬のひづめはけずり、蹄鉄はベテランの人がつけた。

 馬はほぼ毎日洗い、牛はたまにしか洗わなかったが、ワカミヤさんの祭りではどちらも洗った。

 

  焼畑

 昔はわらも売れていたので、焼畑はしなかったが、もみがらは焼いていた。現在ではわらも買い手がいないので焼いている。また、もみがらは精米するときにライスセンターにおいてくるので、焼く必要はない。

 

  麦

 麦は昔は作っていたが、値が下がったため作らなくなった。冬の田は放置するのが普通だが、レンゲソウなどを植えたりもする。昔は45俵とれていたそうだ。

 

  他の作物

 昔はそば・こきび・あわ・サツマイモなどを作っていた。こきびではきびもちを作るほか、あわも食用だった。

 

 

U.山

 

  

 昔は杉を切って売っており、杉を切った後に枝を切って焼いて耕し、里芋などを作り、二年くらいたってからまた杉を植えた。(杉は一度切ったら植林しないと出てこないため。ただし、雑木は出る。)

 昭和3040年ごろには、木をまき、燃料として用いたり、米、麦を売るついでに売ったりしていた。現在は、山はほぼ雑木林(かし、くりなど)で、杉は一部の植林されたもののみであり、これは杉の値が下がったために植林で生活できなくなったことによるものであり、山に入るのはその一部の杉の手入れをするときがほとんどである。

 また、炭を焼いてかやであんだ炭袋に入れて売ってもいた。30cmくらいに切り、1俵4貫程度に分けて売った。蚕を飼っていたため、それを温めるために自分のうちに炭場を作り、自家生産していた、共同の炭窯もあり、現在も残っている。

 

  ゴルフ場

 平成元年からゴルフ場建設のための山の買収が始まり、北辛木田の多く、また南辛木田(中岩)・尾谷・立山の一部が買収された。しかし、バブルの崩壊後、ゴルフ場の建設は中断され、今もそのままになっている。18ホールにもなる大きなものになる予定だったそうだ。

 

  きのこ作り

     しいたけ

山の中でしいたけを作る人は三加和町にはおらず、家で作って家で食べる、いわゆる自給自足が主であった。余ったものは売ることもあったらしい。

       〜対談の一部 しいたけ作り編〜

  徳永さん:(ドングリやナラを)伐採して、正月明けて、二月ごろ玉切りするわけたい。

二月ごろ。

  徳永さん:普通の雑木ば、ドングリとか、楢の木とかを切って。秋ごろ。10月…11月ごろかな。10月ごろ伐採して、倒して、もう水の全然あがっとらんごとなってから、霜が降って、葉っぱがもう木の色つこう?伐採して、それから2月ごろ、まあ正月ごろから玉切りするわけ。1m20位か。

短く切るんですか?

  徳永さん:うんうん。1m20位。して、玉切りして、菌ば打ち込むわけ。

あ、しいたけの。

  徳永さん:はいはい。そして、1年寝かせなん。あくる年は、もう大体小さかとが立つことは立つ。少々。で、もう2年めになってしまえば…

いっぱい大きめのが生えてくるんですね。

  徳永さん:3年めになるとまたいっぱい立つ。きのこが。

菌っていうのは。

  徳永さん:菌も培養されとるわけたい。菌ば買うてくるもん。普通の店の森林組合とか何とかで買うてきてそれば。100個とか200個とかで売ってあるもん。それば、今度は穴ほがしてからね、152030cmぐらいかな、らせんにこう打つわけ。

周りに。

  徳永さん:そう。らせんにこうずーっと。30cm間隔でぐりぐりぐりぐり。

     ひらたけ(=えのきたけ)

作る人は少なく、自分の家で食べることが多い。青い実のなる榎木(ムクノキとも)や柿の木に菌を塗っておくと、たくさん出てくる。堤防にも生える。

 

  共同地

 ゴルフ場に買収された土地の中に、昔上岩共有の山だった土地がある。長浦には三軒で共有している土地があり、扇谷には上岩区有林もある。区有林は杉の木が大きくなるように下刈りをしている。

 

  木の切り出し

 まびき(かんばつ?)された木は小さいので、防災用に加工され、公民館に保管している。木の運び方は、ずらせ(すらせ、しゅらせとも)と言い、180cmくらいに切った木を、そりに乗せるようにして牛に引かせる方法や、どじきと言い、木を切ってそのまま牛に引かせる(木を何本かくくることもあった)方法などがあった。木や竹を切って川に流して下流まで運ぶ方法も使われていた。

     川は他にも様々なものを上流から下流へ運ぶのに用いられた。

 

 

V.神社

 

 テジンサン:今は存在しないが、この神社にちなんで立山の田のことを‘テジンサンヤシキ’と言う。

 阿蘇神社:現存する神社で、雨乞いのときなどにみんなが集まった。

 オテンマングウサン:学問の神様で、西丸にある。

 ワカミヤサン:別にバトウカンノンサンとも呼ばれ、牛馬の神様であり、家畜(徳永氏のときは牛)を川で洗い清めて健康を祈った(16日)。現在は圃場整備のため社が取り壊され、ご神体を公民館に移した。牛馬を飼わない今も(96日)、公民館に酒と手製の重箱弁当を持って集まり、お祝いをする。

 

 

W.食べ物

 

  昭和初期

 昭和初期には主食として米と麦を混ぜたものやあわ・きびを食べていたが、米は少なく、米:麦=28程度だった。こきびはもちにし、からいも、さつまいもなども食べていた。丸麦やつぶした押し麦、とれてすぐのひらがし麦やあわなどをたいてふくらし、さらに米を加えてもう一度炊いて量を増やしていたが、ずちゃずちゃになりがちだった。

 

  戦後

 戦後には犬を食べることもあり、赤犬と呼ばれる茶色い犬(おいしいらしい)を消防団で追い掛け回して捕まえ、みんなで料理して食べていた。

 

  おやつなど

 山栗、くりは山の中に自生しているものを食べたり、木の実やかんね(くず)はたたいてつぶして食用にしていた。小豆を炊いてこきびの団子と食べる「あんかけだご(あれかけだご)」やまんじゅう、だごやき、とうきび、さつまいもなどがおやつだった、

  

  徳永氏の体験

 干し柿を盗んで食べたり、小学生のころには上級生にそそのかされて熟し柿や大根、からいもを学校帰りに畑から勝手に食べたりしていた。

     熟し柿のことを『じゅくし』『てんまん』とも言った。

 

      〜対談の一部 どじょう汁編〜

どじょうは食べるんですか?

  徳永さん:どじょう汁ちゆうてから、汁ば、秋ごろ芋と、芋とそのどじょうばして食べるとたい。栄養のあるけん。

あぁー。どんな味するんですか?

  徳永さん:うまか味するよ。秋ごろどじょう汁ちゆうてからどじょうば何匹か入れてからこうしよっとたい。して芋を、芋…里芋か。里芋の入れて、したらうどんとかそげんとも混ぜちから食べよったたい。

へぇー。うなぎみたいな味ですか?

  徳永さん:うーん、ちょっとね。そげんと。あのー、生きとっとば油ごなしば最初しね、うん、油でいためっとばい、こう。

生きたままですか?

  徳永さん:うん、生きたまま。して、一応…知らんばってんが、そげんしてしよったろう。して、後から芋ば入れてから、炊きよった。以前はね、うどんのごたるの入れよっともおったもんな。

一緒にですか?

  徳永さん:うん。 (奥さんに)あの、どじょう汁は作りよったもんね、昔は。どじょう汁ちゆうてから。

  奥さん:うんうん。

  徳永さん:あれは、いつもどじょうば油でこなしよったろう?して、里芋かなんかいれよったもんね。

  奥さん:うん、里芋とかごぼうとか。

  徳永さん:そったら、あの、うどんも入れよらしたもんねぇ。

  奥さん:うどんは後でやろ?

  徳永さん:ああ、後でたい。

  奥さん:うどんていうかだごやろ?

その汁に、ですね?

  徳永さん:うんうん、汁に。して食いよったよ。

へぇー。

  徳永さん:そったら茎のごたっとも入れよったような気がすっもんね。

  奥さん:茎は入れんよ。

  徳永さん:入れよったよ。前はそげんして。あ?芋ん茎じゃ。

  奥さん:あぁ、芋ん茎ね。

  徳永さん:あん、ずいきば切ってほんで、それして旨いことなってから。

奥さん:うん、それは入れなったね。

徳永さん:うん。まぁ、里芋ははいっとったね。芋はね。芋と茄子入っとろって。

なす。

  徳永さん:うん、なす。

あぁ。へぇー。炒め物みたいな感じですか?

  徳永さん:うん。みそ汁のごたる。

みそ汁?

  徳永さん:うん。みそ汁たい。具のいっぱい入った。

  奥さん:昔はよくしよったばってんね。

  徳永さん:今でもすったい。うん。今は魚が違うばってん。

 

 

X.生活

 

  家

 電気は昭和初期、ガスは昭和40年台(45年ごろ?)に導入されたが、ガスが通ってからも自分の山からとってきたまきでご飯などを炊いたりしていた。囲炉裏もあったが、現在はほとんどない。

 瓦屋根に変わったのは、昭和4547年ごろで、それまでは草葺などだった。

 

  作物

 かご(こうぞ)は徳永氏のお父さんの時代には作っており、剥いて蒸して乾燥させた後に八女などにおくり、お金にしていた。からむし(ちょま)・麻なども作り、牛の鞍につけるひもなどにして用いていた。

 

  祭り

 祭りの運営は、昔は家柄のよい家、良田を持っている家、地主などの寄付によるところが大きかったが、今はどの家も同じくらい負担している。

 

  徳永氏の幼いころ

 昭和20年代には三加和町にも防空壕があった。配給の制度もあった。

 小学生のころには紙の傘や竹の皮で張った傘があり、かっぱではなくみのを用いていた。はだしがほとんどだったが、下駄・ゴムぞうり・地下足袋・まめの出来やすいゴム長のようなものも用いられていた。学校には足洗い場があり、道路は川にあるような丸石が転がっていた。

 「処女会」「青年団」という未婚の若者の集会があり、青年団の上下関係は厳しいものだった。

 

 

Y.これからの三加和町

 

 これからの課題としては、田の担い手を探すことが挙げられる。これは少子化や農業継承者の減少からおこるものである。地域づくりや町づくり、若者の農業離れを食い止めることが今、三加和町、ひいては農業全体に求められているのだと徳永氏はしめくくった。