三加和町上板楠調査レポート

 

1、導入

2、稲作について

3、昔の生活

4、三加和町の製糸業

5、三加和町の神様

6、戦時中

7、戦後

 

 

 

 

 

1、導入

 

 平成十四年六月二十六日に私たちは三加和町にお住まいの井島和博・ニオさんご夫妻のお宅に訪問しました。お二人は快く私たちを迎えてくださって、たくさんのお話を聞かせてくださるだけでなく、おはぎや、筍とゼンマイの煮物まで作って食べさせてくださいました。貴重な体験が出来たことをお二人に感謝します。

 

 

 

 

 

2、稲作について

 

上板楠のあたりでは、田んぼの水は川から引いており、水の量は豊富とは言えないそうですが、上流にため池があるので田植えの際はそこから水を補給していたそうです。ため池の栓を抜いて川に水を送り込むわけですからため池がなくなってはどうにもならない。絶対に田植えの後にしか栓を抜いてはいけないというルールがあったそうです。上流の田が水を多量にとってしまうと、下流の田に水が不足する。逆に旱魃になると下流の田は川の何本かが合流したりするため、ある程度水が確保できるが上流の可は水がすぐ不足するなどと、それぞれ問題点があったようです。川には水を取るための井堰が多くあり、滝の下井堰、コジャド井堰、仲田井堰、祇園さん井堰、宮橋井堰、戸木田井堰などといったそうです。また、田んぼにも様々な名前が付いており、久保里(周りより低い窪地にある)、山上(山の上にある)、原谷(谷にある)等があったそうです。

 生計に関わることなので、水争いは昔はしばしば起こったそうです。殴り合いになったり、うしろからトウグワで頭や足を叩かれ流血するというようなこともあったそうですが、たいてい仲裁(水争いに利害関係のない第三者)が間に入り、丸く収まったとのことです。今のようにすぐ警察沙汰になるといったこともなく、また、当人同士の争いで終わって部落同士の争いに発展することもなく「昔はよかったねぇ」としきりに言ってらっしゃいましたのが印象的でした。昭和四十年頃に、電気ポンプなどが導入され始め、水の少ないときでも川から水を楽に汲み上げることが出来るようになったので、水争いもなくなったそうです。水争いがあったほどですから、集落同士の仲は悪かったのでは?と私たちは思ったのですが、ここ三加和町(緑町、春富町、神尾町の三つが合併した)では決してそんなことはなく分け隔てなくとても仲がよいといってらっしゃいました。

 この地方は水田が作れる環境であるため、米以外の味の劣る野稲や、ソバはほとんど作らなかったそうです。井島さんの家の近くでは、米は一俵約六十?の米が八俵ほど取れ、町役場の近くは十俵ど取れるが、井島さんの家の近くの方が水が綺麗なため米の味は役場近くの物より良いそうです。米は俵に詰めて保存されていたものを、戦後はコハンという丸い缶に入れて保存していたとのことです。また、ネズミ対策としては、猫いらずというだんごに毒を混ぜた物を用いていました。肥料は、硫安(窒素)、化石(リン酸)、カリを配合して作った物を用いていたそうです。なお、これらは配給制でした。配給をする人のことを「ドシコ」といい、「チキリ」と呼ばれる秤を使い、田の面積に応じてきっちりはかって配られたそうです。配給制が終わり、肥料を各人が自由に買っても良くなったのは昭和二十五、六年頃のことでした。今は米の単価は下がってしまったが、昔は去年よりも一俵でも多く取れると嬉しかったなぁととても懐かしそうにおっしゃっりました。

 田を耕すのには、主に雌牛を使ったそうです。雄牛は力は強いが、同時に気性が荒いため、農耕よりは材木を運ばせたりするのに用いました。雄牛のことは、「コツテ牛」とよび、操作するときは手綱の綱の部分が竹で出来た竹綱を用いたそうです。柔らかく、引くことしかできない綱とは違い、竹なら前に押して牛を前方に向かせることも出来ます。コツテ牛は気性が荒いため、後方にいる人間に突進してくることがあったため、竹綱によって前方に向かせていたのです。また、方向転換をするときは、右なら「マイマイ」と、左なら「サッサシ」と声をかけながら、手綱引くそうです。牛も人の言葉をちゃんと分かって言われたとおりに曲がるのだとおっしゃっていました。そのほか、とても印象的だったのが「ヤンブッサン」のはなしです。ヤンブッサンは毎年豊作を祈るために村を訪れていた人です。この地方を訪れていたヤンブッサンはお母さんと娘さんの二人連れで、彼らは英彦山の方から来ており村に滞在中はよく、家に泊めてあげていたそうです。

 

 

 

 

 

3、昔の生活

 

 わっかもん宿は実際にありました。何をするというわけでもないが、蚊も居らず涼しいため、結婚前の男女は集まってしゃべったり、スイカを食べたりしていたそうです。

 

 夜這いもおこなわれていました。夜這いをしてもらいたい人は、部屋の鍵をかけないでおきます。昔の家の造りは田の字型であったため、どこに女の人が寝ているのかは誰にでも分かるのだそうです。

 

 村八分といったものは存在しませんでした。また、のけものの村と言ったものも存在しませんでしたし、よその村から来る青年と喧嘩をするということもなかったそうです。

 

 もやい風呂はなかったが、共同使用の井戸はあったとのことです。

 

 暑さは茅で作った簾を垂らしてしのぎ、また、農作業の時は背中に麦っから(麦わら)で編んだものをきて、直射日光を避けていました。寒さは掘り炬燵に木炭を入れてしのいでいたのだけど、そのせいでおさない子供がやけどをするということが頻繁にあったそうです。木炭は燃え尽きるのが早く何回も交換をしなければならなかったが、やがて木炭に取って代わることになった練炭はとても長持ちし、繰り返し使うことも出来ました。

 

 生活に必要な木炭や薪は山から取ってきていた。薪を打って生計を立てていたというほどであり、その収入はとても良かったといいます。炭を焼いて売ることもあったそうです。 

 

 箕ソソクリや鍋ソソクリの人はきたといいます。わたしたちはここで箕というものが何であるのか分からなかったのですが、  さんは「若い人たちは箕をしらないんだねぇ」といいながら教えてくださいました。箕というのは、お米の選別道具だそうです。箕ソソクリや、鍋ソソクリというのは、お宮の境内などに泊まって箕や鍋の修理をしていた人のことです。決して良い職業ではなく、彼らは低い身分の人であったそうです。その人達は寒さをしのぐために石を焼き、その上にむしろを敷いて寝ていました。焼いた石はとても暖かく良い暖房になったそうです。:生活の知恵を感じさせる話でした。

 

 

 

 

 

4、三加和町の製糸業

 

 三加和町は古くから紙の名産地として知られてきました。一番古いところでは、慶長十三年(1608年)の検地帳に、わずかながら楮畑の面積が出てきています。元和五年(1619年)に山十町の北原両助が、川原谷の慶春に付き級漉きの技法を習い導入し、元和七年(1621年)には両助の子孫、北原佐助、彦兵衛、両蔵などが、御用紙漉きに命じられました。そのご「玉名郡南関手永御蔵給知御面帳」、「南関手山十町小物成楮上納控」、「検地帳」などに楮畑の面積や納めた楮の量の記述などが見られます。また、1789,1800年にはそれぞれ、天草・長崎方面と大阪方面に紙の販路を開きました。天保十三年(1842年)には、紙楮会所が設置されます。江戸時代には紙は紙荷駄で「肥後山鹿蔵」に持ち込まれ、ここから陸路で熊本櫨方に送られました。また山鹿会所から、津口での運上が徴収免除で廻船問屋によって、紙問屋へ積廻されました。明治十二年(1879年)の「玉名郡村誌」によれば、紙漉戸のかずは、緑町、神尾町、春富町、の三地区を合わせて486戸、産業は68640束と記されています。しかし明治三十四年には、290戸に減少しており、高知から技術者を呼んで講習会や指導をおこなったりと、改良を図りますが、その後大正になると養蚕業に押されて、製糸業はますます衰退していきます。昭和にはいると戦争による働き手の召集により、紙漉は困難となりました。戦時中には軍事機密で風船爆弾(ふ号兵器)用の大判紙の供出の要請を受けたりもしたようです。終戦の年、復員などにより、製紙は一旦復活しますが、紙価の低迷により、昭和三十七年、井島繁喜氏を最後に三加和町から製糸業は消え、単なる原料産地となりました。

 しかし現在は、三加和町手漉き和紙保存会が発足しており、手漉き和紙の保存につとめており、手漉き和紙の体験会などもおこなっているそうです。    さんもこの会の会員で、体験会などで指導をしていらっしゃるそうです。修学旅行で紙漉の体験に来たり、地元の小中学校などは、自分の卒業証書用の紙を手すきで作ったりしに来るそうです。また、子供の頃から紙を漉いていらっしゃる方の漉く紙は何枚漉いても厚さが同じでとても美しいのだとおっしゃっていました。

 

 

 

 

 

5,三加和町の神様

 

 三加和町には様々な神様が存在します。井島さんの家のすぐ近くには若宮さん、観音さん、祇園さんなどがいらっしゃいました。若宮さんは牛馬の神様、観音さんは安産の神様だそうです。また、祇園さんは、片目の神様だそうです。きゅうりぬすど(泥棒)をして、キュウリのつるをはわせる竹の支柱で目を突いたため片目になったと祖母から聞いていたと話してくださいました。他にも祖母はこういったいろいろな話を聞かせてれらたとおっしゃっていました。はかにも、そこの砂を身につけておくとまむしにかまれないとされている四王子さんというヒラクチ(まむし)の神様、また、畑には、カンロギさんという神様がいらっしゃるそうです。また、三加和町には「八つの神様」がいらっしゃるそうです。八つの神様は、目、歯、いぼ、命、耳、胃、性・腰、手足、の神様で、それぞれその部分の病気を治してくれるとされているそうです。

 

 

 

 

6、戦時中の話

 

 ある晴れた日の朝十時頃、アメリカの戦闘機と日本の戦闘機の空中戦が勃発した。激しい攻防戦の末、一機の戦闘機は空中分解し、火花をとばしながら二又づつみと呼ばれる山の一角に墜落した。〜その光景は息をのむほどのものであった。「見事なもんじゃった」とおっしゃっていました〜 村の人々は、アメリカの戦闘機が墜落したと騒いで、竹槍を手に、緑町、春富町の消防団に加わって山を捜索した。しかし、墜落した戦闘機は日本のもので、人々が目にしたものは焼け残った戦闘機の残骸、無惨にも焼け死んだ日本兵の姿だった。人々はその兵隊さんをその山に埋葬した。〜現在その場所には記念碑が建てられていました。戦後、その兵隊さんの身元が分かり、娘さんや息子さんが立てたそうです。兵隊さんの奥さんのお墓と並んであります。私たちは  さんご夫妻にそこまで連れていっていただきました。私たちの目にしたその場所は、六十年前にそんな恐ろしい出来事があったとは思えないような静かな場所でした。しかし、そのことを知った私たちは一生そのことを忘れてはならないと思います。

 こんな事もあった・・・ある日、白い服を着た見かけない人たちが山を出入りしていた。村の人々はアメリカ人だと勘違いして、猟銃を片手に彼らを追いかけて撃ち殺そうとした。しかし、実はその人達は大牟田から戦災で焼け出された人々であった。〜戦時中は日常に敵を感じて生活していたのだと改めて痛感させられる話でした。私たちの想像以上に毎日の生活に神経をすり減らしていたのでしょう。

 学校は一カ所に集まっていると、そこを狙われたら全滅するという理由から、お宮やお寺に分かれて分散授業がおこなわれていた。授業といっても国民総動員で戦争がおこなわれていたので、軍に納めるためにポンポン草(繊維となる)を加工したり、運動場すべてを使って唐いもを栽培したり、、竹槍の練習をしたりすることが多かった。又、ポンポン草の皮を多くむいたクラスにより多くの運動靴が配給されていたため、年輩の人がいるクラスはよいが、幼い子ばかりのクラスは苦労したという。その配給も生まれた順で配られ、学年が変わるごとに最初の人から配給されていたため、十二月生の人はいつも順番が回ってこなかったという。〜  さんは十二月生です。  さんもやはり順番が回ってこず、「いつも破れとるのばきよった」と笑っておっしゃっていましたが、当時は笑えなかっただろうなぁと思いました。今なら、皆に平等に配るのにと不思議に思いました。

 米の供出割りは部落ごとに決められていた。出しても出しても供出を要求されるので、毎晩のように夜遅くまで話し合いをした。そこに「ドシコ」と呼ばれる農協の職員がやってきてかなり厳しく取り立てられ、量もきちんと量るように指導された。皆で、少しずつ持ち寄ってはなんとか供出分を作っていた。米がないときには代わりに麦を出すこともあった。そうして供出していた米は必ずしも良い米とは言えないものも含まれていた。

 戦時中のおやつは、サツマイモをふかしたもの、ゆでたもの、もちで作ったあられ、かき餅、だんご、干し柿といったもの。干し柿泥棒の話を聞いた。村に1人だけお医者さんがいた。そこの家出は干し柿をつるしていたが盗まれることが多かった。対策として干し柿をつないだ紐のはしを結んでみたがいっこうに状況が変わらないので干し柿に下剤を注入しておいた。村には他にお医者さんがいないので盗人はそのお医者さんに腹痛を訴える。こうして盗人が誰なのかすぐに分かったという。

 戦時中の雨具は竹で出来ているばっちょ傘、竹の皮で出来ているみのであった。どちらもとてもよくできており、濡れないのだという。あしもとはわら草履であり、歩くたびにドロが洋服にまで飛び散ってひどく汚れたそうだ。

 

 

 

 

 

7、戦後

 

 終戦後、食料が乏しいため、犬を捕まえて食べることはよくあった。味は牛肉、豚肉、などと対して変わりはないという。毛並みによって味にランクがあり、一番良いのが赤犬、次が黒犬、その次が白犬で、もっとも美味しくないのがブチいぬであると笑いながら教えてくださった。ほか、うさぎやいのししもよくたべていたそうだ。 

 終戦直後はアメリカ人に撃ち殺されるだとか、女の人は手に穴を開けられて紐につるされるだとかいう噂が広まっていた。その後、様々に生活が変化していく。(その中で農地改革についてお話をうかがった。その内容は、何月何日までに耕した田は耕した小作人のものとなるというもので、この改革によって地主は多くの土地を失い、小作人の力がとても強くなっていった。)やがて、アメリカの情報が流れてくる。その中のひとつ→「アメリカでは一家に一台車を持っている」それをすごいなぁと聞いていたが、昭和四十年、一寛さんは周りの人に先駆けて教習所に通い始める。当時は免許を取ることに理解が薄く、無駄なことだろといわれることもあった。奥さんのニオさんも初めは免許は要らないと考えていたが和博さんがとるとすぐにとりたくなり、女の人としては村一番に免許を取った。今では、この村で暮らす以上(村の移動手段の主たるのは車)、免許は必要不可欠なものとなっている。

 「戦時中はとても貧しい暮らしであった。しかし、戦後、世の中は豊かになりすぎた」と井島さんはおっしゃっていました。「むしろ、ものがなかったときの方が良かった」と。戦前と戦後の両方を生きた人がおっしゃるのだから、すごく重みのある言葉だと思いました。ものがあふれかえっている時代しか知らない私たちはお二人のお言葉を忘れずに、毎日の生活の矛盾を見つめ直さなければならないと思います。

 

 現在の町の組織は、区長、部落長、五人組となっており、連絡網適役割をはたしている。五人組は昔に割り振られた単位で、当時は五軒ずつであったが今は分割したりして一単位四軒であったり六軒や七軒のところまであったりする。

 

ガス 昭和三十四、五年ごろに使用可能に。

電気 大正十年に電柱が立ち十一年に配線が完成しほぼすべての家に明かりが。

冷蔵庫 井島さん宅では昭和三十九年に購入(このあたりでは一番)

 

 この町にはいろいろな名人(おはぎ名人や漬け物名人など)が要る。一部落間に1人の名人がいて、各人が集まって技や料理を披露する集まりが開催されている。名人のところには小学生や中学生がその技を教えてもらいにくることもある。地域の伝統は脈々と受け継がれているのだ。