熊本県三加和町上平野地区に関する調査結果

調査日平成16年6月26日土曜日
調査者法学部 勇和孝
文学部 古賀絵理佳

さる6月26日、大雨の降りしきる中、朝8時30分に九大を出発、一路目的地へと向かう。九)刊道を1時間ほど南下し、熊本県境にかかるころには雨もやみ、バスを降りる。とりあえず持参した傘を開く必要はなかった。徒歩で15分ほどかけて本日お世話になる福山喬二さん宅へと向かう。
事前に電話した際には「あまり詳しくないが、できるだけのことは話してあげられる。」とのお返事をいただいている。実際どれだけの事を聞けるかわからないo
下平野地区へと向かう2人と一緒に道を歩いていると、むこうから軽トラが来た。スピードを落として近づいてくる。「まさかお迎えが来たのか?」と、皆で顔を合わせたが、自分たちのそばを過ぎ去っていく。過ぎ去ったところでエンストをおこす。車が止まる。あっけにとられて、また自分たちは歩き出した。その軽トラが本当にお迎えだったとは気づかずに。
目的地はすぐそこに見えていた。道路を渡ったすぐそこの場所であった。少し高台になったところに福山さん宅はあった。なぜ高台になっているところに家があるかに関してはまた後で触れることになる。
ニワトリの歓迎を受けた後、玄関をくぐる。福山喬二さんが待っておられた。昭和8年のお生まれになり、今年70歳になられる。
お茶で喉を潤した後、早速福山さんからこう言われた。
「一応手紙はもろうたばってん、私はそがん詳しゅうなかけんね。教育委員会からは九大から歴史について調べに来っていう話が来とるばってん、そがんない、教育委員会が立てた看板にいろいろなことが書いてあっけん、そいば見て写真にでも撮って帰ったほうが勉強になるし、わかりやすかよ。それとも、方言やことわざば調べにきたとね?」
少しは予想できたことではあったが、こちら側の意図が正確に伝わってなかったようだ。もっとも、あの手紙と質問状だけで何をするかということを伝えるのは難しいことであるだろうし、第一、特別な風俗や伝承ではなく、ありふれた日常め記憶を記録する、後世に伝えようとする行為自体、一般に考えられる歴史学のフィールドワークとはかけ離れたものであろう。今後に生かすためにも、調査協力を依頼する際に、今回のように質問状だけでなく、他地域で行った調査のレポート等を同封し、実際にこのようなことをしますという実例を先方に理解していただくことが肝要だと思われる。
閑話休題、自分たちは昔の生活の様子を記録しにきたということをはなした上で、質問に入っていった。なにぶん初対面の方としやべるゆえ、結構緊張し、質問も自分でも何をやろうとしているのか説明できないような感じになる。
とりあえず、小字の描かれた地図と、小字の一覧表を見てもらって過不足がないかどうか確認してもらう。一覧表にある分で全部だといわれる。
マニュアルにあるとおりに質問を進める。田んぼに名前はなかったか?圃場整備前の田んぼにはどのような名前が?そして山の中に田んぼはなかったか?
それが小字と一致していて、山の中にあった田んぼは現在ほとんどが杉林になっている。いま田んぼが残っているのは本村、津留、年ノ神、深田ぐらいである。
なんだか自分の中にモヤモヤとしたものを感じる。うまく説明できない。本当にやるペきことは違うのではないかという不安だろうか。
質問が平野の集落を流れている和仁川にかかる橋に及んだ時であった。
「橋は平成3 年の大水で流された眼鏡橋(現平野橋:鉄筋コンクリート製)、そして昔は、蔓でできた戸地山橋、中原橋。川のむこうに家はなかけん、田んぼに行くのに橋ば渡って行った。]
「戸地山橋と、中原橋はどこにありましたか?」
「戸地山へ行くけん戸地山橋、中原から行くけん中原橋。(地図で教えてもらう。)
「中原というのはひょっとして隣保班の名前ですか?」
そうであった。自分のイメージしていた、忘れ去られる(そして今回記録すペき)記憶としての地名、それこそが隣保班の名前であった。ここで90歳のおじいさんも力口わり、消え去るはずの記憶をとどめることができた。
平野地区にあった隣保班は次のとおり。(地図も参照)
福山さん宅がある久保園(クボゾノ)組。
唯一和仁川の対岸にある出目(デメ)。
平野の集落の西北に位置する中園くナカゾノ)組。
また、中園組はさらにいくつかに分かれていて、
西半分坂の上下をはさんで上が坂之上(サカノウエ、古くはサカンネ)組
下を下(シモ)組。
さらに天満宮を中心とした数軒を寺福寺(ジフクジ)にわかれる。
そして小字で言えば片峯にあたる中原(ナカバル)
このように分かれていることがわかった。
また、屋号がついている家はないかと訪ねたところ、屋号とはなんぞやといわれ、返答に窮していたが、苗字以外に呼び方がある家のことだと言うと、理解してもらえたらしく、一軒離れて建っている家を今古賀(イマッガ)、豊前街道沿いで、石畳が残っていた家を石畳(イシダタミ)ということを教えてもらう。そのほか、中園組に瓦を焼いていた家があってそこを瓦焼(カワラヤキ)、坂之上組に陣内(ジンナイ)もあったということだ。
調子が出てきた。どんどん質問を進めていく。
大木や古木、岩などに特定の名はなく、古道として豊前街道が通っていた。石畳が残っていたりする。地図を見てわかるように、峠と呼ペるほどの峠もない。平野の地域はこの集落と周りの田んぼを指し、山は平野の地域である概念は薄いようだ。
田んぼのことへと話は移ってゆく。
田んぼの水は平野井手から引いている。北原松右衛門堰が江戸時代からあり平野地区の田んぼに水を送っていたそうだが、現在のように水路がきちんとしたものではないため、水が漏れてしよっちゅう悩みの種になっていたようだ。
水に関しては「平野というところは水のあってもなくても困るところけんね。」と福山さんがこぼしていたように、早魅と洪水の2つに悩まされてきた。早魅になれば、田んぼの水を上から順に流して行き、上流の集落と水争いになったこともあるという。戦時中までは太鼓をたたきながら踊る雨乞いが行われていたらしい。それゆえ、平野地区の1 等田は和仁川に面した田んぼである。水の心配がないからだ。
その逆に洪水に被害もひどいという。平野地区の海抜は田んぼがある面は10?15メートルくらいである。近くを菊池川が流れており、すぐに水が溢れる。近年堤防が決壊したときは1階部分が完全に水没した家が出て、数日間水が引かなかったぐらいであり、堤防が整備されていない昔のことは推して知るべしである。「だけん平野で農業の後ば継ぐもんのおらんごとなっとよ」と残念そうに福山さんは言っていた。
米作りのことについて話が進む。
田植えは6 月下旬、もや(い)うえで行われた。べつに田植え歌のようなものは無かったという。平成初期まではさなぼりも行われていたが、近年は行われていない。生活が豊かでなかった昔は、このさなぼりでご馳走を食べるのが楽しみだったという。それでも麦を混ぜて食べることは少なかったという。
肥料は早い時期から化学肥料が導入されていたが、昭和40年代までは牛糞や灰も使っていた。終戦直後に農薬が普及したが、それまでは油をまいて害虫を馬区除していた。
試験的に陸稲もやったことがあるが、普及せず現在に至る。
なんといっても草取りが一番の重労働であったと、思い出を噛みしめるようにポッリと福山さんは言った。
稲の刈り取りは10月。筆者の故郷愛媛県宇和島市では4月田植え8月刈り取りなので、少しギャップをかんじる。
1等田では反当り9俵、そのほかの田んぼでも8俵はとれていた。
米が終わると裏作として麦を作っていた。現在ではほとんど作られていないが、昔は小麦、裸麦を作っていた。麦は米の半分くらいの収量となる。他にも、大豆、あわ、ひえもつくっていた。そばは作られてない。
種籾は風通しのよいところ→ 吊るして保存。自家用の米を兵糧米といい、10俵ほど入るトタンの入れ物の中で保存した。ネズミカゴなるもので食われないようにする。
農作業に欠かせなかった牛の話をする。
当日寺平野地区には100件農家があって、ほぼ全部の農家で牛を飼っていたそうな。かなり身近な存在である。
「まい、さい、お」(右、左、とまれの意)2本の手綱を操りながらコッテ牛く雄牛)を操っている様子を目の前で見せてもらう。農作業に従事する牛のほかに、
山で杉を引く牛がいて、その牛はダチン牛とよばれた。
少しそれるが山の話をする。
平野地区で共有の山というのは無く、各自が自分の山を持っていた。
杉は終戦後から面積が増えた。切った木は牛が川まで下ろし、川で筏にして下流え流す。
炭も自分の家で作っていたようだ。自分の山から取ってきた木で炭を自分で焼き、販売に回して収入を得たり、自家用にしたりと用途はさまざまだ。冬の暖房も炭であった。現在も焼いている人もいるという。
山菜もいろいろと取れ、どんぐり、しいのみ、山芋、ぜんまい、たらの目、ぬかごなど。
もう一度牛の話をしよう。
牛のえさ、道端に生えている草が1 番いいらしい。特別草をメリるための野原が在ったわけではないようで。
質問状には牛は洗わないのか?という質問がある。牛は洗わないことを前提とした質問だが、平野地区では和仁川の川原で洗った。今では牛もいないし、川原にもなかなか降りられない。往時の姿を思い浮かべるのは結構大儀なことだが、川で気持ちよさそうに体を洗ってもらっている牛の姿は、なんとも牧歌的で、想像する分には精神衛生上よいことだと思われる。
思い出じた。平野地区で馬を飼っていたのは10軒ほどであるという。
用途は農耕用と荷駄用といたらしく、荷車を引く馬は蹄鉄をしていたという。

そのほか昔話やら何やらを。
村の外からは行商人や苗売り、箕ソソクリ、鍋ソソクリと呼ばれる人たちが来た。筑後のほうからくるのが多かったようだ。薬売りは富山から来ていた。昔から神尾に診療所があって、病気になったときにはそこで診てもらっていた。青年クラブがあって、今でいう公民館活動のようなものをしていた。犬を、飼っていた犬を捕まえて肉にして食ペていた。
4月8日に祇園さん、10月15日に秋祭りがあり、現在ではお盆に三加和町全体でお祭りがある。
戦争のころは大牟田が空襲されて空が真っ赤になったのを覚えていらっしやつた。
隣保班に格差は無くみな平等だった。祭りの運営なども協力して行ってきた。そろそろまとめを。
「これからこの平野地区は変わっていくのでしようか?また変わらないものがあればそれは何でしようか?」という質問に対して、
「換わらんものもあるばってん、全部変わっていくけんね。」というお答えをいただいた。確かにそのとおりであるし、だからこそ、私たちが変わっていく場面場面を記録していく必要性があるのだと思う。最後に、自分達の調査の意義を確立しうる言葉が聞けて、ほっとした。質問状に書いていたことの全部について回答を得られたわけではないが、今回やったことだけでも十二分に後世に残りうるペき物だと自分は思う。
それを考えると、今回この作業に付き合ってくださった福山喬二さんには、厚く御礼申し上げなければならない。本当にお世話になりました。

最後に。
何かこのフィールドワークを総括するような学問の名前をつけられないか?( 00 学といった)今回も友達から「考古学の調査?」といったことを聞かれ、「いやそれは違うんじやないかと… 」おもわれることがたびたびあった。間違いなく一般に思われる歴史学とは違うこの学問の形態になにかセンセーショナルな名前をつけられないだろうか?