火曜3限 歩き、み、ふれる歴史学 レポート
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調査実施日 H16 6月26日 (土)
調査者:中村 和博
坪根 良輔
話者:上妻 明夫 さん(昭和11年生まれ)
上妻 はやとし さん(大正11年生まれ?)
上妻 清 さん(大正15年生まれ)
小字:門出(モンデ)、棚田(タナダ)、上棚田(カミタナダ)、皷筒(ツヅミドウ)、中岳(ナカダケ)、天神原(テンジンバル)、漆尾(ウルシオ)、後倉(ウシログラ)、日向久保田(ヒナタクボタ)、柴中(シバナカ)、百園(モモゾノ)、平葉山(ヒラハヤマ)、郷田(ゴウダ)、桜町(サクラマチ)、津留田(ツルダ)、陣内(ジンナイ)
* 注1:以上の小字以外にも小字はあったがどこにあったか不明なものもあり、それらは除いている。
* 注2:以上の中には板楠(西)の小字も含まれている。
* 注3:陣内は上板楠の小字であるが話の中でどこにあるかわかったので記載。
<地名について>
小字以外に使われていた地名で、昔は百園や津留田などの辺りをダイと呼んでいて、その周辺の集落をダイの集落と呼んでいた。また、水谷(ミズタニ、この地域方言ではミスタン)と呼ばれていた地名もあったそうだ。
村の田んぼの名前についてであるが、アダ名や住所の名前で田んぼを呼んでいたそうだ。その中でも門出が最初だそうだ。例としてあげると、その田んぼが郷田なら郷田の何番地と呼んでいたそうだ。圃場整備以前、田の名前にはドジョウ田と呼ばれる田んぼもあった。地域によって昔は山の中に田んぼがあった地域もあるが、この板楠の地域は
谷の名前は板楠の中では先に述べた水谷があった。またこの地域では、溜池のことを堤(ツツミ)といい、水谷の溜池は水谷の堤(ミスタンノツツミ)と呼ばれている。
井手の名前には桜町の用水である上井手(ウワイデ)、津留田やそれ以南の用水である下井手(シタイデ)、板楠ではばく上板楠になるが陣内の用水であるカジヤバル(カンジャバル)の用水があった。その他の井手にはダイの近くに役場近くの門出の辺りまで流れる用水もあった。ほかの井手は小字で呼んでいた。
橋についている名前は地名をとったものがほとんどである。現在、役場の近くには新江橋という橋がある。
地名のいわれについては地名がついた年代が古く、お聞きする事ができなかった。
小集落の名前については、地名でそのまま呼んだりしていたそうだ。先に述べたダイの集落や横枕の集落、桜町の集落などがそうである。世話役は、昔はダイ(百園や津留田)の区長、柴中の区長、日向の区長がいたそうだ。現在では3つの地区をあわせて
この地域では家に屋号は特についていなかった。新築した時にはその家は新しいから「新しい家」と呼んだりしていたそうです。
大木や古木、岩には名前はとくについておらず、またそういったもの自体もあまりない。先で述べたように板楠はひらけた地域であるため、古い道や峠の名前は少ない。峠の名前ではナナマガリと言ったものがあるらしい。
他にはミヨシノツネゾウやヤマワケノクエといった相撲取りの記念碑もある。
柴中には足手荒神といって小さな加倉があり、そこでは年に1回祭りをする。
<水について>
田んぼへの水は基本的に川から引いており、先に述べた下井手などから引いている。基盤整備によって今では上井手と下井手が合併している。だが、上井手も下井手も現在でもある。
水の量は潤沢な方であるが、数年に1回ぐらい干ばつが起きることがある。ただその場合も下井手からポンプでくみ上げることで水はまかなえるそうだ。
水争いは、昔はあったが今ではない。昔は用水の下の方にいた人が家までうるさく言ってくる事もあったそうだ。今ではケンカするより先にポンプで水をくみ上げれば良いので、水争いは起きない。
水を分ける上で特別なルールは今ではなくなっている。昔は溜池のほうから水を引いてきているところではややこしいルールがあったそうだ。ほとんどは時間帯で水を引く時間が決まっていて、朝何時から何時まで、昼間何時から何時まで、日の入りまで、夜の間などといった形式になっていたそうだ。
干ばつの時の思い出は、水が少なくなった水路や川などで魚をたくさんとって食べたりしたことなどであるらしい。また、平成6年の干ばつは大きな被害はなく、ポンプで水をくみ上げて済んだ。雨乞いの経験は実際にあって、雨乞い踊りなどがあったらしい。年寄りの人が気を利かせて焼酎とかを飲んで、仲良く飲み会をした。水が足りなくてケンカをするよりも仲良く飲むことで輪が広がっていくようだ。
台風予防の神事は板楠ではあまりなく、天気任せだったそうだ。
<田んぼや用水路について>
昔は50cmの用水路の中にも20〜30種類の生き物がいて、淡水魚なども多く、梅雨時にはドジョウが産卵のために上がってきていたそうだ。蛍もいた。現在ではほとんど生き物は見られず、いるとしてもコイかフナぐらいである。
昔は田んぼの中にもたくさんの生き物がいて、特に田植えをした後の田んぼは魚たちの繁殖地であった。現在は卵を生んでも生まれた魚をトラクターなどでつぶしてしまうため、全く意味がないらしい。昔は牛だったため、牛が歩いている間に魚や生き物は逃げる事ができた。
川も用水路や田んぼのようにたくさんの生き物や淡水魚が生息していたそうだ。川に居る淡水魚はドンコ・アユ・ハエ・ウナギ・コイ・フナなどで魚をとるだけでも一日分のご飯になるぐらいの量が取れたそうだ。現在ではコイやフナのような魚が2、3種類しか居ない。川の毒流しなどは戦時中にはほとんどなく、他所から来た心無い人がすることが本当に稀だったそうだ。
昔は麦を作れる田んぼと作れない田んぼがあり、湿田では作れなかった。現在では、圃場整備をしたため作れるようにはなっている。しかし、板楠の地域では麦を作る人はあまりいない。
村の一等田は役場の近くにある門出のあたりの田んぼである。昭和初期の頃では反当6〜7俵であった。戦後派7〜8俵ぐらいになり、現在では8〜9俵ぐらいである。麦については先で述べたようにほとんどつくっておらず、あいがもの餌としてつくっている程度である。そばはつくっていない。
反当3〜4升蒔きの田はあった。直播きの田んぼは今ではないが、終戦後にはすこしあった。
<肥料や害虫、稲の病気について>
昔の肥料は石灰、硫酸アンモニウム、硫酸カリウムなどを自分たちで調合して使用し、それ以前の時代では牛糞や人糞も使用していた。大正時代には炭肥も使っていた。灰は特に重要で、ガスがなかった時代は薪を使い、その灰を肥料として使っていた。
稲の病気には代表的なものではいもち病や白羽枯れといったものがある。板楠の辺りは白羽枯れの常習地帯で毎年のように発生していたそうだ。伝染病のため、村のどこかで発生したらどんどん広がっていったらしい。稲の病気に対する薬も試験管の中では効くかもしれないが実際にはほとんど効かないそうだ。
害虫と言えばウンガ。さらに板楠の地域ではメイチヨといった害虫も居たそうだ。害虫を駆除するには菜種油や灯油などをさすことで駆除していた。こうすることで代表的な害虫であるウンガなどは細かいため、生息できなくなるそうだ。ワラの長いものをおいて、その上から石灰をまいたりすることもした。昔は化学的な農薬は一切使わなかった。他には何個以上とった者には褒美として鉛筆1本みたいな形で小学生に取らせて、それをまとめて焼いたりしていた。
<共同作業や田植えについて>
農業は1人ではできないため、戦前、戦時中には共同作業はあった。共同で行うことを「もやい」や方言で「もよし」と言っていた。昭和35年ぐらいまで共同ボジョウといった共同作業は残っていた。
戦時中には警官がやってきて米を出せと言って持って行かれたりしていたそうだ。
田植えの時期は6月下旬で6月26日頃だった。お手伝いの早乙女は田植えが早く終わった他の地域から3人か4人ぐらい雇っていた。
昔は田植えの後の打ち上げ会であるさなぶり(さなぼり)を個人的にやったりしていた。家族でやったり、兄弟や親戚を集めてやったりもしていた。他にも水に対する感謝の気持ちを込めて川祭りをし、若竹を水の神様に奉納してお礼をした。田植えの後にはダイ(百園や津留田)集落で今年も豊作でありますようにとお宮に御願立てもした。その後はやはり飲み会をしたらしい。川祭りやお宮への御願立ての隠れた最終的な目的には終わった後の飲み会もあるようだ。さらに秋にも収穫が終わった後にはやはり飲み会をしていて、今でもやっていることらしい。昭和20年頃までは集落の人たち、みんなが農業という同じ仕事をしていた。農業は絶対に1人ではできず、協力が必要なことから、そういった飲み会も部落の友和が目的でとても大切なものであって、今でも変わらないものである。そして、いつの時代でも飲み会は楽しいものらしい。こうしたことからも今でも田舎は隣、近所はみんな仲が良いそうだ。
この板楠の地域には昔から芸人が居なかったため、田植え歌やもみすり歌といった地域特有の歌や民謡はとくにはなかったらしい。
<牛や馬について>
昭和の初め頃までは牛よりも馬を飼っているほうが多かった。戦時中になってからは馬も牛も同じぐらい飼っていた。戦後は馬より牛を飼っている方が多かった。
馬と牛では馬の方が農耕用として仕事をする上では筋肉質で能率は良かった。
餌は主に朝早く畑や水田の畦(アゼ)等のありとあらゆるところからとってきた野草をあげていたそうだ。たまに自家用に作っていた麦や麩(フスマ/牛の飼料の一種)などもあげていた。
板楠の辺りでは牛に鋤をひかせるとき、右へ動かすときは「マイ」、左へ動かすときは「サシ」と言って手綱を動かすのと一緒にかけ声をかけていた。止まれのときは「おおい」とかけ声をかけていた。手綱は右側に1本、左側に1本の合計2本で操作していた。牛の中にも出来が良いものとあまり良くないものがいて、優秀な牛は声をかけると手綱を引かなくても自分で勝手に動いて回っていた。わがままな牛は立ち上がろうとせず、少しも動かないこともあったそうだ。
昔は雄牛のことをコッテ牛と呼び、とても性格が荒く、山への切り出しなどような力仕事のときにはコッテ牛を使っていた。本当に気の荒い牛は人間を押し倒したりもしていたらしい。雌牛のことは特に呼び名はなく、ただ単に「メス」とか「雌牛」と呼んでいたそうだ。
コッテ牛をおとなしくさせるためには叩いたりしていた。あとは朝晩の餌を与えるとき等になでてやることで自然と人間になついてきていた。
馬は牛に比べて衛生的にも弱いため毎日川入れをして洗っていた。川入れをしても川が浅かったから大丈夫だったらしい。牛洗いもたまには川入れをしてやっていたそうだ。馬はこれといった病気はなかったが運動をとても多く必要とするため運動不足にもなりやすく管理が重要だった。馬は運動不足による障害は多少起きていたようだ。牛の方はいろいろなことに対してあまりかまわなかったそうだ。馬はみんな蹄鉄をしていて、蹄鉄の業者もやってきていた。
<草切りや薪について>
草切り場は自分の田畑の畦や傾坂や道路、河川敷などであった。道路や河川敷のような公共の場所は朝早く起きた人の勝ちであったらしい。昔は一生懸命朝早く起きて草を刈っていたそうだ。当然だが、他所のものは切ることはできなかったそうだ。昔は牧草地として草などを栽培している人はほとんど居なかったため、ほとんどが野草であった。今の人たちは仕事が各個バラバラでみんなが違う仕事をしているが、昔の人たちは集落みんなが農業という同じ仕事していた。普段は稲作などをして、寒い時には山の仕事をしたり薪を取ったりしていたらしい。1月〜3月は麦を多少栽培したり、山で焚き物を取ったり、炭を焼いたりしたそうです。
薪を入手していたのは近くの山からで主に平葉山から入手していたそうである。そして、その山のほとんどが個人の所有地で、自分の所有地を持っていない人は立ち木のある土地を買って、その木を伐採することで薪を入手していた。
入り会い山(村の共有の山)は板楠の地域にはなかったらしく、土地がない人は先で述べたように土地を買って、そこにある立ち木を伐採していたらしい。
木の切り出しは路引き(どびき)で杉などの木を馬や牛を使って引いたという。薪ぐらいになると人力で運んでいたそうだ。
<ガスや電気について>
板楠にプロパンガスがやってきたのは昭和30年頃で、それまでは焚き火であった。寒い時は焚き物取りをしていたそうだ。
電気が来たのは昭和の初期で、今では九州電力が電気を供給しているが、昔はカマト電気と熊電の二つの電気会社があったらしく、内田発電所という発電所から電気がきていたらしい。熊電のほうの料金が安く、カマト電気のほうの料金が高かったという話で、地域によって電気会社も違ったそうだ。カマト電気がストライキを起こして電気が来なかったこともあったらしい。
電気がくる以前の灯りは時代劇みたいな中に芯を入れてボーッと明るくなるような油さしのようなもので、昭和5年、昭和6年頃まではランプを使っていたという話だ。明夫さんが、物心がついた頃にはすでにランプはなく、明夫さんはランプを知らないそうだ。昔は学校から帰ってきたら、ランプの火屋(ホヤ)掃除をしていたらしい。ランプは1戸にだいたい3つぐらいはあって、提灯もあったらしい。
<炭や焼畑、農作物、山での商品価値のあるものについて>
炭は戦時中から戦後にかけてずっと焼いていたそうだ。だが、収入自体があまり良いものではなく、赤字にならなければいい方だったらしい。
山を焼くことはたまに行われていて、主に杉を植えるために行われていたそうだ。
昔、作っていた農作物は米、麦、養蚕でずっと作り続けていて、畑を荒らすことはほとんどなかった。減反が始まってからは山田のようなものは笑い話になっているそうだ。蕎麦は全く作っていなかった。畑に米を作る陸稲も昔は作られることがあったが、陸稲のほとんどは干ばつでダメになっていたそうだ。取れたとしても反当1〜2俵取れたら良いほうだそうだ。
山を焼くことはたまにあっても焼畑自体は3人の方はほとんど経験がなかったそうでだ。阿蘇のように草山を焼くことも板楠ではあまり行われなかったそうだ。
かご、方言ではこうぞというが、みんながこうぞを畑の傾坂地にたくさん栽培していたらしい。こうぞは和紙の原料となる。そのため、昔、板楠には和紙を作る紙すきの職人がたくさんいたそうだ。昔はその和紙は障子紙やかさの材料として使われていた。昔は水がキレイだったため、和紙を作るのにも最適である。それ故、有名な和紙の産地でもあったそうだ。
一方、この板楠ではちょま(苧麻・お・からむし)・いらくさなどはほとんど栽培もしておらず、とってもいないかったそうだ。
山栗も山にはあったそうだが、わざわざ取りに行くことはなかったそうだ。山の木の実も取ったとしてもしいの実ぐらいだそうだ。
他に商品価値のある山のものや山の幸はみかん栽培が始まった程度でほとんどなかったそうだ。
また食べられる野草を尋ねたところ、野草自体は食べられるものがほとんどで正式な名前はよく分からないそうだが、具体的にあげるとノウビ・セリ(方言でシェリ)・ヨモギ・ナズナなどがある。
<昔のおかしや干し柿について>
昔のおかしにはまんじゅうや米を使ったアメ類があったらしい。
干し柿は昔からあり、勝ち栗は戦前にはなかったそうだ。干し柿の作り方はとても簡単で、
@ 渋柿の皮をむく。
A 皮をむいた渋柿を紐でつるす。
B ひたすら待つ。
作り方は以上。干し柿の数え方は、「ひとかけ」、「ふたかけ」といった感じで板楠では「ひとかけ」で20個の干し柿をあらわす。干し柿は自家用として作っていたそうだ。正月には行事として食べていた。お供え物にも干し柿を供えたりもする。
<米の保存や米作りの楽しみや苦しみについて>
昔の米の保存方法は俵で保存していたそうで、昭和30年ごろまでは主流だった。飯米は1人1俵半ぐらいだったそうだ。他は兵糧米みたいな形で出さなければならなかった。種籾は自家採取で補っていたそうだ。種籾自体は強いので保存には困らなかったらしい。
ネズミ対策はトタンやブリキの入れ物に入れていたそうで、そのトタンやブリキの入れ物のことを「ガンガン(トタンやブリキのガンガンという音からとったのだろうか)」と言っていたそうだ。ガンガンにも1トンとか大きなものがあるそうだ。今ではネズミ対策は防虫加工をした袋を使っているそうだ。
昔の米作りの苦しみは水田の中の草取りだったそうだ。今では除草剤を使えば良いらしい。昔は7月の1番暑いときにかがんで水田の中の草をとっていた。そのときの水田の水は熱でぬくもっていてとても熱くて、圃場整備前は余計に熱かったそうだ。でも、それが終わったあとの川での水洗いはとても気持ちよかったらしい。
<車社会になる前の道や他所から入ってきていた人や物について>
車社会になる前から板楠の道は、原型自体はほとんど変わっていなくて、今の道が狭かっただけの状態であった。
行商人の数は結構多く、衣類を売る商人や魚売りが多かったそうだ。魚と言っても今のような生の刺身はほとんどなく、塩クジラや乾物がほとんどであった。話しによると魚売りは柳川やナガスからやって来ていたということだ。
川原やお宮の境内に野宿しながら箕を直したり、売りに来たりする箕ソソクリや鍋の穴をふさいで修理する鍋ソソクリなどがやって来ていた。ソソクリとは修理をする人のことで、箕とは風で米の籾殻と中身を選別する機械である。ソソクリの人たちがどこから来たかはいろいろな事情などもあるため聞くことはできなかったそうだ。
カマドのお経をあげるお坊さんは、昔は多くいたそうで、米や麦をあげていたそうだ。昔は物貰いがとても多かったらしい。1分間ほどお経をあげていき、こちらは米や麦を1杯あげるみたいな形だったらしい。
薬売りは売薬といって富山から来ていた人が多かった。結局は家に置いている薬は気休め程度にしかならないし、病院に行けば薬はもらえるため、みんな断っていたそうだ。今でいう配置薬みたいなものだそうだ。昔でも病気になった時は病院で看てもらっていたそうだ。
<昔の普段の生活などについて>
米と麦を混ぜることは多く、家庭の経済状態によって米と麦の比率は各戸バラバラだったらしい。
おかずはほとんど自給で、卵はとても貴重だったそうだ。だいたいどこの家庭にも10羽ぐらいのニワトリが飼育されていたそうだ。ニワトリはすごい御馳走であって親戚で何かおめでたいことがあったときには「ニワトリでもつぶすか」と言って、みんなで食べていたという話だ。魚などは年に何回かしか買うことも食べることもなかったそうだ。
干し柿とかすいかをとったりすることはあったそうで、今みたいな犯罪という感覚ではなく、いたずらみたいな感覚でとっていたらしい。
※ 先方の都合とこちら側のバスの都合もあり、すべての質問を聞くことはできなかった。非常に残念であるがご了承ください。
<1日の行程>
AM 8:15 九州大学六本松キャンパス集合
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AM 8:40頃 予定より遅れてバスが出発
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パーキングエリアで休憩(バスの中で寝ていたため、記憶が定かではない)
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AM10:50頃
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AM11:30頃
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AM12:00
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PM 1:15 上妻さんの家に到着
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それからの間は質問中
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PM 3:55 上妻さんの家を後にする
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PM 4:00前 コンビニエンス江崎に到着
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PM 4:20頃 バスが到着してバスに乗り込む
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PM 7:00前 バスが九州大学六本松キャンパスに到着
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そのまま解散
<感想>
今回のような現地に言って年配の方から昔の話を聞くような体験は私にとってはじめての体験であったし、これほどの長いレポートをかいたこともはじめてで何もかもが手探りの状態であった。先方に手紙を書いてお願いすることから始め、戸惑うことも多かった。先方から手紙の返事が来なくて、自分から電話をかけるときもとても不安だった。電話して無理にお願いして、忙しい中、時間を割いていただき、さらに二人の方を紹介していただき、都会の中では触れられない暖かさを感じる事もできた。
私は、今までは机の上の教科書や参考書、教室の中の授業で歴史を学ぶ機会がとても多かったが、今回のような現地調査やフィールドワークを通して学ぶことの大切さや面白さを実感した。
私自身、文学部には歴史や考古学を学びたいと思って、受験をし、入学したのでこれから先にも今回の経験を生かしていけるように努力していきたい。
中村 和博
最初に手紙を書いて返事がこなかったときは、自分たちでどうにかしなきゃと思っていたけど、電話をして無理に承諾してもらったときはほっとした。また、区長さんがあまり詳しくないということだったのでちょっと心配だったけど、詳しい方を二人も呼んでいただきとても安心し、また心強かった。
三人で昔のことを話しているときによく、「聞いてるか?」と言っていたが、昔の人は親や近所の人から伝え聞かされているんだなと思った。今ではほとんどそういうことはなくなってしまったので、寂しい気がする。これから僕たちもお年寄りの方に昔のことを聞いて、今度はそれを自分たちの子供に伝えていく必要があると思う。
話を聞き終えて帰るときにとても雨が強く、困っていたところ、車で送ってもらってとても助かった。こんなにやさしくしてもらえるとは思っていなかったのでびっくりした。
今回の現地調査で人の温かさを感じた。
坪根 良輔