三加和町板楠 西 レポート

            高橋 奈美子

                            滝尾 真理子

話者

 松尾 祐成さん昭和5年1130日生

    和子さん昭和9年5月3日生

 

一日の行動記録

 6月26日(土)  8:15 六本松集合

             40 六本松出発

          10:45 三加和町到着(バス下車)

          11:10 松尾様宅訪問

          15:50 松尾様宅退出・西光寺跡見学

          16:10 三加和町出発(バス乗車) 

          19:10 六本松到着・解散

 

板楠西地区の小字名一覧≫ 

  門出(モンデ) 棚田(タナダ) 上棚田(カミタナダ) 筒(ツヅミドウ)

長葉山(ナガハヤマ) 阿蘇面(アソメン) 小原前(コバルマエ)

  倉園前田(クラゾノマエダ) 丸太(マルタ) 中岳(ナカダケ)

  釜岡(カマオカ) 天神原(テンジンバル) 漆尾(ウルシオ)

  後倉(ウシログラ) 日向久保田(ヒナタクボタ) 柴中(シバナカ)            

・新しく教えて頂いた地名

  丸山(マルヤマ)                    (別紙地図参照) 

 

小字名の由来は

───「かなり昔からみんなこう呼んどりましたけん、ちょっとわからんですねぇ」

とのことでわからなかった。また「しこ名」もわからないとのことであった。

 

 

≪他に村で使われていた名≫

・圃場整備前の田

一つ一つの田に特に名前が付いているわけではなく、小字+番地+○○さんと住所のように呼んでいた。(例 丸太の5番地の田中さん)基盤整備後、小字は使われなくなり、基盤の○番地の○○さんと呼んでいる。また山の中の田には名はなかった。

・谷、滝、渕、川

   この辺りの山は中岳のみなので谷も少なく、川が小さいため滝もないそうだ。よって特に呼び名はなかった。しかし渕には「長渕(ナガブチ)」「へり渕(ヘリブチ)」という呼び名が、川にはその地域の小字にちなんで「有山川(アリヤマガワ)」「日向川(ヒナタガワ)」という呼び名がある。

・井手、用水

   「宇田井手(ウダイデ)」「車井手(クルマイデ)」という名の井手がある。また用水は河川工事が行われたために昔の用水はなくなり、それとともに名前も失われてしまったそうだ。

・池

   小原前の近くの池は有山川の近くにあることから「有山の堤(アリヤマノツツミ)」またの名を「上の宗(ジョウノムネ)」と呼ばれている。また、丸太の近くの大きな二つの池は「丸太の堤」またの名を「丸太のため池」と言う。丸山の近くにある二つの池は「丸山の堤」と呼ばれ、丸太と丸山の間にある池は「掛の堤(カケノツツミ)」と呼ばれている。

・橋

   特に名前は付いていなかった。

・小集落

   この地域では隣保組、隣組と言っていた。有山川周辺の地区では有山・小原・木下・倉園がある。中でも小原・木下・倉園という名は昔から使われており、年配の方の間では電話の時など「木下の松尾です。」と言えば分かるほどである。

・年行事 

   小原地区では世話役は3人いて、任期は3年である。

・屋号

   屋号はついていなかった。

・木、岩

   特に名前のあるものはなかった。

 

 

≪田について≫

・中山間地直接払い、永久減反政策

   山の斜面など急傾斜な場所にある田畑は永久減反政策により、ほとんどの農家が杉、柿、栗などを植えている。柿や栗については大半は個人消費用で、収穫量が多ければ販売しているそうだ。またこの減反政策に伴って、中山間地直接払いという政府からの補助金がH13〜17年までの5年間、田畑1反につき年間8000円ずつ支給されている。三加和町では8000円のうち6割の4800円が個人への振込みで、残りの4割3200円が組合でたい肥や農機具購入時の補助として使われている。松尾さんは

───「今農家はどこも大変ですばってんねぇ」

と少し寂しそうな顔をしていらっしゃった。

・田と水

   田への水は近くの堤から引いていて、有山は有山の堤から、丸太は丸太の堤からというように、堤の水はそれぞれ水を引く権利を有している所からしか引くことはできない。また、それら堤はそれぞれの地区で係を決め管理している。堤の水がなくなれば川から引くが、ほとんど堤の水で足りるそうだ。堤の水は昔はポンプを使って引いていたが、今ではモーターを使っている。この地域のお米がおいしいのは、山水を使っていることと、堤に生活排水が流れ込まないからだそうだ。

   昔この地区は雨が多くて水にはほとんど困らなかった。それ故に大雨の日には田畑の水量を常に気にかけねばならず、特にスイカは水に弱いためいつも苦労なさったそうだ。

───「大雨の翌朝には水浸しの畑にぷか〜ぷかてスイカが浮いとるとですよ(笑)」

と私達に笑いながらおっしゃっていたが、きっと当時は計り知れないご苦労があったんだろうと思った。

   また水ゲンカについては当時そういうこともあったというお話をうかがった。

───「水が足りん時に川からポンプで引くんですが、そん時隠れとってポンプの出口を自分の田んぼの方に変える悪かヤツがおったとですよ。で、ケンカになることもあったですねぇ。もうその時はずっと寝れんかったですもんね。今ではモーター使っとりますけん、そんなこともなかとですが。」

とおしゃっていた。この水ゲンカを防ぐためのルールもあったそうで、各地域で決められた当番が田を回り今日はここの田、明日はあっちの田というように平等に水引きをした。つまり、地域住民全員でその地域の田を管理していたのだ。 

・台風予防の神事

   特にこの地域では行われていなかったそうだ。

・田と生き物

   田の中の生き物はミジンコ、メダカ、オタマジャクシなどがいたが、最近はミジンコの数が減ってきてメダカも昔ほどではないという。しかし堤のメダカの数は変わらないと聞いて、三加和町の自然の豊かさに驚かされた。また用水にはフナ、ジャンボタニシがいて、特にここ2〜3年で激増したジャンボタニシには頭を悩ませているとのことだ。

───「これ(ジャンボタニシ)が小っちゃか時には田んぼん中入ってきて稲の幼稲を食べてしまうとです。せっかく植えた稲株が台無しになるとですよ。でも大っきくなったら雑草を食べてくれたりもするとですけどねぇ。」

とおっしゃっていた。また川にはドジョウが住んでいた。大雨の日などは道路でビチャビチャはねるくらい多かったそうだが、今では全く見かけなくなってしまった。魚の数も激減し、漁業組合が毎年アユやスッポン、ウナギの放流をするがなかなか増えないそうである。

・麦、一等田について  

   麦は作れる田と作れない田があったそうで、作れる田は水はけが良い田で、作れない田は水はけが悪く湿った田である。また一等田は「棚田」や「門出」のあたりであるそうだ。この辺りではむかし米は反当9俵ほどで、化学肥料導入後の現在では良くて10俵、悪くて7俵くらいが相場である。麦においては最近では作っていないが、昔は4俵が精一杯であったそうだ。蕎麦は作っていないとのことであった。

・直播

   この辺りでは直播は行っておらず、全て田植えによるものである。

・肥料

   昔は人糞や牛肥を使っていたが、昭和35年頃から機械化が始まり、牛がいなくなってからは窒素、リン酸、カリなどの化学肥料を使っている。灰は作っていなかったそうだ。

・稲の病気、害虫

   稲の病気には次のようなものがある。

    白葉がれい病:葉が白くなる

    イモチ病  :葉や茎が変色して、米が実らなくなる

    もんがれい病:葉に黒い紋ができる

  これらの病気は今では薬を使って防いでいる。

   また害虫には「うんが」と呼ばれる小さな虫がいて、昔はナタネ油を水田に張り、害虫が水上に浮き上がれないようにして駆除していた。終戦後すぐには「ツマグロヨコバイ」という虫を農薬で駆除していたが、その農薬が人体に有害であるとわかり、使用中止になるということもあったそうだ。

・共同作業 

   この辺りでは共同作業のことを「てまがえ」と呼んでいた。

───「戦争中は男ん人がみんな兵隊に行っとったでしょ。だから人手不足で女の人みんなで田植えしとったとよ。いやぁ〜これが大変やったぁ〜。」

とおっしゃっていた。昭和30年頃からは人を雇っていたそうで、「ひうと」「ひうとり」(日雇いが訛ったものと考えられる)と呼んでいた。「ひうと」のために農家の家ではご飯を用意したり、お土産にスイカを持たせたりと、翌年も来てもらうためにたいそうなもてなしをしたそうだ。

   また「早乙女」という呼び名はなかったが、近くの仲良し3〜4組で助け合って田植えをしていた。今日は○○さんの田で、明日は△△さんの田ねというように。

・田植えの後の打ち上げ

   「さなぼり」と呼んでいたそうで、おはぎやお団子などを持ち寄り2日間ほど行っていたそうだ。また田には欠かせない水への感謝の念を込めて、川にお神酒を流したりもしていた。みなさんは毎年この「さなぼり」をとても楽しみになさっていたそうだ。

・田植え歌

   田植えの時は歌などを歌う余裕はなかったそうで、田植え歌はないそうだ。またこの地域で古くから歌われている歌も思い当たらないとのことであった。しかしこの地域では古くから神楽が伝わっていて、秋の祭りでは恒例の行事になっており、近隣の市町村からも多くの人が見物に訪れるほどである。

 

 

≪牛・馬について≫

・農耕牛について

   牛は主に農耕用で全農家が飼っており、松尾さんのお宅でも牝牛を一頭飼っていたそうだ。戦後14〜15年ほどまでは牛を使って田畑を耕していたそうだ。今でもまだ2軒ほど牛を飼っているお宅がある。

・牛のエサと草きり場

   牛のエサは主に自分の田んぼのあぜ道から取ってきた草やワラで、朝ごはんの前にあぜに草取りに行って牛に与えるのが毎日の日課であった。牛というとたいそう大食らいと聞いていたので、

───「あぜの雑草くらいで足りるんですか?」

と尋ねたら、

───「昔の田んぼは田が小っちゃくて、あぜばっか大っきかったもんですから、それで足りとったとですよ。」

とおしゃっていた。それでもやはり牛は一日に60キロほどは食べていたらしく、刈り取った草を「ぶり」と呼ばれる手製の竹篭に入れて運ぶ作業は重労働だったらしい。また草切り場として地域ごとに管理している堤周辺があったが、毎年取り合いになっていたため、入札を行い一年間の利権を手に入れていた。この時の入札金は堤の係りの運営費に当てられた。

・牛の歩かせ方

   牛には2本の手綱が付けられていて、操作の仕方は次のようであった。

     前進:後ろから尻を叩いて、手綱を引く

     右折:「まいまい」と声をかけながら、右の手綱を引く

     左折:「さっさっ」と声をかけながら、左の手綱を引く

   さらにこの地域では牛をいかに上手に扱えるかの競技会が開かれていたそうで、見物客も多く大変賑わっていたそうだ。競技内容は田んぼに鋤を入れる速さや、それによってできる線の美しさなどで競われ、商品として鋤や鍬などの農耕具がもらえた。(余談だが、田植えにも競技会があり、いかに早く美しく稲を立てられるかというものだった。)

・雄牛と牝牛

   雄牛は「コッテ牛」と呼ばれ、牝牛は「メウシ」と呼ばれていた。雄牛は気性が荒く扱いきれないため、「ドギュウ」という種牛のみで、あとはどこの農家も大人しく扱いやすい牝牛を飼っていた。雄牛は力が強いため、主に杉や松を山から引き出すときに使われていたそうだ。

・馬について

   馬は主に馬車用として飼われており、馬車に直径30〜40センチくらいの木を積んで走っていた。このように馬車を使う人を「馬車引きさん」と呼び、今でも馬車をトラックに替えて運送業を営んでいらっしゃるそうだ。昔は一晩中馬を走らせて、三加和から大牟田まで行くこともあった。

   馬は蹄鉄をしており、川で毎日洗っていた。しかし牛は田植えの時期の夏にのみ川に連れて行き行水させていたという。洗い場は特に決まっていたわけではなく、川ならたいてい大丈夫だったらしい。三加和では馬も牛も近くの川に連れて行って水浴びをさせていた。

・病気

   松尾さんのお宅は馬を飼っていなかったので馬についてはよくわからないとのことだったが、牛については教えてくださった。

───「飼っとった牛が小屋から逃げ出してしもうて、勝手に麦をたらふく食べてしもうたとです。それが腹ん中で発酵ばして、お腹がぱんぱんになって死んでしもうたと。あれはかわいそうやったあ。」

と寂しそうにおっしゃっていた。

 

 

≪村での生活について≫

・ガスと薪

   ガスは昭和35年くらいに来たそうで、それ以前は自分の山林から薪を拾って使っていた。しかし中には自分の山を持っていない人もいて、そういった人は薪を買ったり、小枝を拾ってきたりと、かなり苦労があったようだ。また電気は松尾さんが生まれる前から通っていたそうで、その当時の話は聞いていないとのことであった。

・入り会い山

   村共有の山林はなっかたそうだ。

・炭焼き

   松尾さんのお宅では炭焼きを行っていたそうで、主に自分の家の分だけを生産していて、余った分は販売していた。村の中には炭窯を作って炭焼きで生計を立てている人もいて、収入は案外良かったとのことであった。

・山焼き、焼畑

   三加和では山焼きも焼畑も行われていなかった。田畑が十分だったために、山を焼いてまで作る必要はなかったからだそうだ。

・山菜、木の実

   「かご」は畑の土手にせき止めとして植えているのを採っていた。昔はよく採れていたが今はもうほとんど採れなくなったものに、山栗、カンネ、山ブドウ、山もも、木いちごなどがある。こういったものが採れなくなった背景には、山をみかん山や杉山に変えるため雑木林を伐採してしまったことにあるようだ。他の山菜にはふき、わらび、ぜんまい、タラの芽などがあり、毎年山に入って採っているそうだ。特にタラの芽は天ぷらにすると絶品らしく、松尾さんのお気に入りとおしゃっていた。また商品価値のあるものとしては「たけのこ」があり、収穫量が多いため、平均すると昔は50万、現在は30万くらい稼ぐそうだ。多い人では300万も稼ぐ人もいるとのことで、驚いた!

・川

   川にはフナがたくさんいた。そのフナを獲るために毒流しを行っていた人もいたそうだ。

───「川に毒を流して魚が浮かんできたとこを捕まえるとですね。でもこれはやったらいかんことですからねぇ‥‥見つかったら捕まりますばい。」

  とおっしゃっていた。

・干し柿、おかし

   干し柿の作り方は、まず渋柿の皮をむいてヘタをひもで結び、10個くらい連ねて軒下に吊るすそうだ。数え方は下がっている束ごとに「ひとさげ」「ふたさげ」とよんでいた。柿の周りに白い糖のかたまりがついてきだしたら食べごろで、硬くなりすぎたら焼酎、しょうゆ、砂糖に漬け込んで食べることもあったそうだ。他にお菓子は茹で栗切り餅のオカキ等を作っていたそうだ。

・米の保存

   米の保存方法は、昔はとたんで米入れを作り、直接5〜10俵を入れて保存していた。この方法でねずみ対策は完璧だったそうだ。現在は農協で販売している30キロ用の袋に入れて保存している。涼しくて風通しのよい場所ではこの袋で十分対応ができるが、日が差し込む場所では農協の最新式の袋を買って、それに入れて保存する。

   またこの地域では食用の米を「ひょうろうまい」と呼んでいた。

・米作りの楽しみと苦しみ

   楽しみは、田植え後や収穫後に行われる打ち上げや、家族が喜んでくれることだそうだ。

───「子供とか孫がおいしいおいしいって喜んでくれるのが一番嬉しかもんねぇ。」

と、とても嬉しそうに話されていたのが印象的だった。

しかし、昔は米作りをする中で苦しいことはその何倍もあったそうで、手間ひまをかけて作っているんだからもっと高くなってくれればと思うときもあったそうだ。

  ───「しんどいばっかりして作ってもねぇ。」

と和子さんはおっしゃっていた。

昔は朝早くから夜遅くまで働き、手首が腫れるほどだったが、現在は機械化が進み農家もだいぶ楽ができるようになった。もし今農業を始めようと思ったら農機具などすべてを揃えるために2000万ほどはかかるそうだ。リモコンで無人ヘリコプタを操縦し、農薬を散布する農家もあるくらいだ。しかし、高度成長期時代の農家は収入も良かったが、今では収入も落ち込み、農家のほとんどが兼業になっている。

・暖房

   昔の暖房は掘りごたつや火鉢だった。ここでも自家製の炭を利用していたそうだ。また松尾さんのお宅には立派なかまどもあって、その柱にタオルを巻きつけて乾かしていた。

───「いっつもタオルがぱりっぱりに乾いとるのが大好きやったぁ‥‥あのかまど壊さんでとっとっきゃ良かったって思いよるとよ。」

と、懐かしそうにおっしゃっていた。

・道

   車社会になる前の道は今とほぼ変わらなかったそうだ。ただ道が舗装されていなかったので、終戦後はタイヤがパンクばかりしていた。

・村の外との交流

   村には魚売りや鍋ソソクリ、箕ソソクリ(ミソソクリ)、行商人が来ていたそうだ。箕ソソクリ「み」という籠を修理する人のことである。また家の前に絵と物を交換してもらいに来た「こじき」や「かんじん」と呼ばれる人も来たそうだ。「ざとう」と呼ばれる人はいなかった。「薬売り」は富山から来ていてそれぞれの家を回り、泊まりつけの家もあったらしい。

・医者

   病気になった時は村の医者に診てもらっていた。ただし中にはヤブ医者もいたらしい。

・食事

   食事は米と麦を混ぜて食べていたそうだ。松尾さんのお宅では米の収穫高が多かったために米7:麦3ほどだったらしい。しかし他の農家では米5:麦5だったり、サツマイモを混ぜたり、ひどいところは麦がほとんどということもあった。

またおかずについては野菜、川魚、鶏肉、鶏卵などほとんどが自給自足できた。松尾さんは特に川魚が好きで、2〜3年前まではよく川に獲りに行っていた。しかし現在は川が汚れてしまったために、ほとんど獲りにいかないそうだ。

 

私たちは松尾さんのお宅でお昼ご飯をご馳走になったが、どれもこれも本当においしかった。米も家の田で取れたもので、今では珍しいとされる天日干しの米であった。他にも自家製のラッキョウや畑のきゅうり、トマトもいただき、普段食べているものとの味の違いにとても驚きました。ご馳走様でした。

自給できないものには、みそ、しょうゆなどの調味料、海魚、牛肉、豚肉、豆腐がある。

・村の若者

   結婚前の若者は公民館に集まってよく遊んでいたそうだ。17〜18間ほどの広い場所に、たいがいは男ばかり集まって酒を飲んだり、食べ物を持ち寄って騒いでいた。時には鶏を「りょうって食べようか」ということになり、自分たちでしめて食べることもあったそうだ。またむらの若者の間では上下関係はそれほどなく、イジメなどもなかった。ただ隣村同士のケンカはあったらしく、それぞれの村のボスを中心としてカシ棒を持ってケンカ場に集まったりもした。ケンカの原因は眼をつけたとか、好きな女にちょっかいを出したなどであったそうだ。

   「力石」はなかったが、度胸試しとしてへり渕の石から川に飛び込んだり、300メートルほど離れた火葬場に骨を取りに行ったり、高校の時には農学校につるしてある豚肉やスイカを取ったりしていたそうだ。また公民館の甘柿やスイカを盗んだという話も聞いたことがあるとのことだった。

   「よばい」も話を聞いたことがあるそうで、

───「好きな子んとこの柿の木に登って、相手の子がいるか、家のもんがおらんかとか確かめてから忍び込んだって言いよったもんねぇ(笑)」

  と笑いながらおっしゃっていた。

   また盆踊りは夏に催され、周辺の村々から人が集まってくるので、若者たちはみな心待ちにしていたそうだ。

   結婚については昔は見合い結婚がほとんどだったそうで、松尾さんご夫妻もそのうちの一組である。しかし三加和では恋愛結婚も多かったそうで、松雄さんの幼馴染みどうしでもかなり多くの人が結婚なさったそうだ。

・戦後の食糧難について

戦後の食糧難の折、犬をどこからか捕まえてきて食べていた人もいたそうだ。松尾さんは詳しい話はわからないとおっしゃっていたが、犬を食べると体が温まるということも聞いたことがあるそうで、今でも特定の人からちらほら話を聞くとのことである。

・「じょうもんさん」「まっぽり子」「もやい風呂」

「じょうもんさん」とは美人のことで、「まっぽり子」、「もやい風呂」は、話には聞いたことがあるそうだ。

・農地改革

農地改革前の小作制度で、小作人は1反につき3俵〜3俵半の米を庄屋さんに出していたそうだ。

農地改革前は、村内での貧富の格差はひどいものだったが、今はほとんど格差がないそうだ。

・神社の祭り

神社の祭りはかなり盛大に行われていて、春の祭り(昼神楽のみ)と秋祭り(夜の神楽があり盛大に行われる)とがあり、運営費は主に氏子や地域の大人から集めたり、おさい銭を使ったりしている。実行委員は出店を出すなど大忙しである。この地域の神楽の由来は伊勢神宮から来ていて、戦前からずっと受け継がれてきており、上中町、春富東と西をあわせ3つあり、今は「神楽保存会」を立ち上げて保存に力を入れている。祭りの前には1週間くらい稽古をするそうだ。

・戦争について

松尾さんが中学2年の時に終戦となったそうだ。この村には集団疎開してきた人はいなかったらしい。戦争の話といえば、第二次大戦中に花立山にB-29に追撃された日本の戦闘機が墜落したことを覚えているくらいで、農村は戦争の影響はあまり受けていないようだ。終戦後は、道路でタイヤがパンクばかりしていたそうだ。

戦争未亡人はこの部落(西区)には一人しかいないが、有山地区には2人いて、靖国の母と呼ばれる方は結構いるらしい。また、東区の人で手松尾さんの2コ上の人が、父親が戦死して祖父に連れられて東京の靖国神社に参ったことがある方の話も聞いた。他にも数人の方が靖国に参っているそうだ。

     村の変化

村の変化は、隣近所の付き合いが少し少なくなってきたかなというかんじで、他はあまり以前と変わらないそうだ。ただ、今の若者は自由にしすぎる感じがあるらしい。村の行事に関しても、盛り立てようと一生懸命な若者がいる反面、乗ってこない若者もいて、自分勝手な人が目立ってきているらしい。昔は共同作業の日にちが決まっており、9割近くの人が出てきていたが、今は村人に兼業農家が多いことから何でも日曜日に行われ、休む人も多くなっているそうだ。昔の方が地域の人との絆は固く、昔のほうがよかったと嘆く人も多いそうだ。村の大きな変化といえば、過疎化の影響で子供や若者の数が減ってきたということだろう。

 

 

≪考察≫

  三加和町の農村の変化については、戦争による影響は意外と少なく、昭和30年頃に始まった農耕機具の機械化や減反政策の影響によるものが大部分であった。また、少子化や過疎化、兼業農家の増加によって、村内の繋がりが少しずつ薄れてきているのは悲しい現状である。しかし、緑がいっぱいの大自然の中で暮らす人々の暖かさは昔と変わらず、元気に暮らす村人の生き生きとした話を聞けたことは大きな収穫であった。  

  今回のフィールドワークで我々は、初夏の緑溢れる農村風景に感動し、松尾さんご夫妻をはじめ多くの方の優しさに触れることができて、農村の生活や慣行、昔からの村の姿を知る以外に多くのことを学んだ。「教師は教壇の上、大学の中にだけいるのではない。」という服部教授の言葉を実感する。          

  

最後になりましたが、松尾さんご夫妻、三加和町の皆さん、お世話になった方々ほんとうにありがとうございました。稚拙な文章であるためにみなさんの貴重なお話をうまく書き残すことができなかったかもしれませんが、この文章によって少しでも後世に三加和町の歴史を残せたらと願ってやみません。

それでは三加和町の発展と、町民のみなさんのご多幸をお祈りして‥‥。