歩き、み、触れる歴史学フィールドワーク
文学部人文学科一年 松本彩
福元小百合
実施日 2004・6・26(時々雷がなるほどの大雨)
伺った方 高木和男さん(昭和17年8月11日生まれ 62歳)
今村慶喜(けいき)さん(昭和2年2月14日うまれ 78歳)
ご自宅ではなく、公民館でお聞きすることになった。
地名について (地図参照)
アカイケ(赤池)
イナイズミ(稲泉)
キリハタ(切畑)
サカイ(境)
チナミガワ(血涙川)
以上が、地図に無かったが、地元で使われている地名として聞き取ったものである。
聞き取りからの総括
地名:小字:小字よりちいさい単位での地名はあまりでなかった。ため池などについても、「(小字名)のため池」のような言い方をされていた。(ため池の必要性が低かったこともあるかもしれない)
「地名としての小字名」と「“あつまり”としての小字名」のような使い方がみられた。
東吉地の中では、永浦・境・稲泉・切畑が、「あつまりとしての小字名」として使われていた。
川の名前:佐々成政にちなんで、「アカイケ」「チナミガワ」などの名前がでた。
農業:田:直播の田はあまりみられず、田植えによるものがやはり多かった。行政などによって、田の整備が行われたのは平成二年くらい。整備がしてあるのは、半田六・彦田。現在半田六
で(よい田んぼ)からは八俵程とれる。昔は五俵くらい。戦時中肥料が配給制になって少なかったときは収穫もすくなかった。
現在では、減反が進み、圃場整備していない山の中の田んぼは荒れていっている。
田植えや収穫は、昔は共同で行っていたが(「てまがえ」といったそうだ)、今は機械。人手が必要な場合には日雇いのひとにたのむという。(「ひうと」とおっしゃっていた)
水争い:水争いの解決方法はやはり話し合い。時間を区切って「区長さんから」(おそらく有力者から)時間を区切って水を流した。雨水をためるため池を(水不足で危なくなりそうなところに田を持っている人は)はじめから持っていた。最近では、川からポンプでひいた方が効率が良いので、ため池は使わなくなっている。
雨乞いもおこなわれた。(詳しくは逐語録参照↓)
東吉地は山のなかなので、台風による田への被害はそうでもなく、台風よけの神事などはなかったそうだ。
また、田植えがおわると「かわまつ」をして、川に、一年水のお世話になることへの挨拶をし、水でこまらないよう祈ったそうだ。(そのとき使われた道具(想像図)、雨乞いの鐘は、イラストをつけている)
主要な川のコンクリート整備は20年くらい前からはじまった。整備が終わったのか、予算の都合でとぎれたのかは曖昧。
肥料:牛や馬の糞。最近は化学肥料。
牛:機械がなかったころは、耕作には牛をつかっていた。子供をうませて市場に売れる牝牛がほとんど。雄牛は「ゴッテ牛」とよばれたが、牝牛には特別ないいまわしはない。
えさとなる草を刈るための特別な草刈場の名称はなかった。川原や、各自の畑の畦道から刈ってきた。(川原では草をめぐって競争した) 詳しくは↓参照
その他農業について:今では、米だけでは生活できないので、ビニールハウスになすやイチゴを作っているところが多いそうだ。
下、インタビューの内容をそのまま記述する。
地名・地域の様子について
私たち(以下A):今回は、東吉地地区の地名のことなどをお聞きしたいと思ってまいりました。
こちらが、このあたりの地図になるのですが(ガサガサ)
高木さん(以下高):ああ、そうですね、この辺りが永浦部落ですね
A:地区のことは部落というんですか?名とかはいわないんですか?(←部落という言葉を使ってもいいのかと思ったので質問した。福元の実家では同和問題などは関係なく「地区」の意味でこの言葉を使うが、三加和町でも差別用語ではないらしい)
今村さん(以下今):そうですね、だいたい、この辺りは大字が東吉地で、その中で小字が永浦部 落ていうとですね。
A:それじゃあ、小学校で部落別に集まれとかいう時には、子供会とかでは永浦部落で集まるんですか?
今:そうですね、やっぱ永浦で集まると思います。
高:うんにゃ、東吉地であつまるたい、両方。
A:そうなんですか。今、小字はこういう感じですか?なくなっている地名や、この中にない地名はありますか?
今:東吉地は、小字の四つ集まって東吉地になっとですね。永浦(ナガウラ)部落、境(サカイ)、稲泉(イナイズミ)、切畑(キリハタ)・・・。
A:どの辺りですか?(地図に示してもらう)
(この後お話を伺うと、大字東吉地は、さらに四つの小字↑にわかれている。そのほかの地図上の小字は、住んでいる戸数が少ないので、そこに住んでいる人たちは四つのうちどれかに加わる。ので、半田六等の地図上の小字は、「地名」という意識だそうだ。
又、地図上では「境谷」とあるが、普段は「境(サカイ)」「切畑原(キリハタバル)」は「切畑
(キリハタ)」といい、「打越(ウチゴシ)」のあたりを「稲泉(イナイズミ)」というそうだ
「切畑原」というと、地名で、畑のある辺りになる。)
A:まだ、地図に書いていない小字の名前はありますか?
今:いや・・たいがいのっとごたっですね。
A:じゃあ。集まる時は、東吉地の中やったら、この四つで集まるんですか?
高:はいはい、半田六とかはもうほとんどたんぼですもんね。
A:回覧板もこの四つの中でまわすとですか?(このあたりから福元は実家の方言がでだす)
今:いやいや、そいは小部落の中ですね、打越なら打越・・。
A:集まりは永浦とかよっつで集まるとですか?東吉地全体であつまったりとかは・・
高:めったになかです。だいたい東吉地で93戸あっですもんね。そんだけはこの公民館には
はいらんですけん。年に一回か二回ですね東吉地であつまっとは。
来月・・・夏祭りのあっときは東吉地で集まりますけど。
A:夏祭りは何日くらいなんですか?
高:だいたい・・・七月の末ごろ、八月には「やまが灯篭祭」のあっけんですね、その関係で
七月・・。(このあと夏祭りについてうかがう。昔は自衛隊の楽隊などが来て演奏したりしていたが、最近は来なくなった・・とおっしゃっていた。←不景気の余波がこんなところに)
(ここで、中林の人たちが道に迷って公民館にやってきた。高木さんが彼女たちを送っていかれたので、この後しばらく今村さんからお話を伺う。今村さんは農業をされている)
A:今お持ちのたんぼはこの地図ではどのあたりになりますか?
今:だいたいこのあたり・・永浦部落で使うたんぼは、半田六・彦田・永浦・小永浦・小路・打越・・・で、うちでもっとっとは、半田六と小路と・・彦田ですね。
A:田んぼは段々じゃなくて・・もう整備してありますか?
今:半田六と彦田は圃場整備してあっけんようなっとです。小路とかはですね・・谷のいりくんどるけん、まだ段々ですね。二反で一枚、整備してあるところは三反くらいから二反五せ位で一枚になっとるです。
A:いい田んぼ、悪い田んぼでしたら、どっちがいいたんぼになりますか?
今:やっぱ半田六ですね。あと彦田、打越もですね、小路もちっとはいっとですっけね、整備しとる中に点々と山とか谷とか、できんところもある。
A:いつくらいに整備したんですか?
今:確か・・平成二年じゃったすかな。
A:ずいぶん最近なんですね!整備は、行政がはたきかけてしたんですか?
今:そうです、行政がよびかけて、政府とか国が負担金をほとんどだして農家は二割くらいしかだしとらんですね
A:いま、一反からどれくらいお米は取れるんですか?
今:昔に比べたらだいぶとれるごとなったですけど・・そうかな一反から八俵くらいとれるじゃなかですかね。
A:昔やったらどれくらいやったですか?
今:昔は・・・五俵くらいじゃなかったでしょか。たにやは、もっと少なかったかも知れんですけど半田六のよかとこでだいたい五俵。
A:中村さんが農業を始められたころは、五俵くらいでしたか?
今:そう・・ですね。でも、戦時中は畑に入れる肥料もすくなかったけんですね、配給ちゅうて、
A:戦争中はおいくつくらいだったんですか?
今:戦争中は・二十歳・・くらいだったですかね、二十歳になって徴兵されて、すぐ終戦やったです。三ヶ月くらいしか兵隊にはおらんかった(笑)。 終戦は熊本で訓練受けよったときやったですよ。
A:ご無事でよかったです・・・やはり、終戦のショックはおおきかったですか?
今:ああ〜、やっぱ熊本市は焼夷弾でやられたけんですね、そんときは(ショックが)
すごかったですね・・・。兵器が違うですもん。日本とアメリカじゃ。わいどんは
高台におったですけど、向こうも航空写真かなんかで偵察しとっとでしょうね、こう
(といいながら、机の上をとんとんと円状に示される)外から爆弾を落とすとですよ。
A:逃げられんごとですか?
今:そうです。そっすと中はもう火の海のごとなっとです。
A:盆地ですもんね・・(しばし絶句)
・・・・そのころは、熊本市からこのあたり(三加和町)まで買出しとかきましたか?
今:熊本市・・よりは、ここは大牟田のほうがちかかですけん、その辺りからきたっちゃないでしょうか、あすこらあたりはなんか・・闇ちゅとですか、あったみたいですね。
(やはり、実際に体験された方の話を聞くと、考えさせられる。すぐに質問に戻れず、すこし沈黙があった。なんとか田んぼの話に戻り、中村さんがお持ちの田んぼの詳しい場所と、河からの水を引く場所をうかがう、地図参照)
水争い・水による被害
A:昔は水争いとかはありましたか?
今:わいどんが子供のころはあったみたいですね(笑)
(ここで高木さんが戻ってこられた。中林の人たちを車で送ってくださったとのこと、感謝)
A:水争いがあった時には、話し合いとかで・・(解決したんですか?)
今:子供のころの話ですけど・・やっぱ話し合いですね。まず区長さんのところから・・って。
ばってん最後のほうは、もうなかごとなっけんですね、時間を区切ってするとです。
高:最近やったら、ホースをひっぱって、一時間いくらって金を取って。
A:料金をとるんですね(笑)ここ何年かで「今年は水の少なくて心配した」っていう年はありますか?
今:今年がだいたいすくなからしかですけど
高:前んごとはなかです。
今:ほとんどたらんごたっところは、たにやとかの人は自分でため池とかホースとかもっとなすけんね、昔程深刻じゃなかですけどね。
A:じゃあ、一番つらかった年はいつですか?
高:40年前・・・八月いっぱいふらんかったことがある。ああ、雨乞いもしよったですよ。
A:どんなかんじでするんですか?
今:ばんちょがさをかぶって・・
高:ばんちょがさっつーとは、博多どんたくでかぶる、あれです。あれをかぶって、そいて踊るとは女性です。男は・・ひょうたんってあっでしょが、あれをここ・・へそのあたりにつける(笑) 一同笑・・・想像すると面白い姿だ・・。ひょうたん・・・(笑)
今:そっで、太鼓たたいて鐘たたいて。鐘はそこにありますよ。
(廊下に鐘がおいてあったのをみせてもらう。かな盥の小さいもののような形)
高:太鼓も「みかわ太鼓」って、このあたりの太鼓を使って、あとは笛をふいて
夕方くらいからはじめて
A:雨乞いしたら降りましたか?
今:どやったでしょうかねぇ・・。降った時もあったですけど、そがんことでもしよらんと喧嘩になるけん、しよったじゃなかでしょかねぇ・・。
A:じゃ、雨乞い終わったら、みんなで酒を飲んで・・とか。
高:飲み呑み・・ですよ(笑)
A:あ、もうすでに酒が入った状態で(一同笑)みんなでがやがや。
今:そうそう、夕方くらいから、こんな道端にみんなでてきて。
A:寺や神社でやるんじゃないんですか?
高:いいや・・道端ですね。よっぱろうて・・。
A:ため池・・をもっとらす人は池に名前とかつけとらすですか?
今:いや、だいたいそこの小字の池っていいよるですね。
(ここで、近くのため池の場所を教えてもらう。地図参照。使わなくなったため池もある。
これは、ため池は雨水などをためておくもので、水の量がわずかしかない。ポンプなどが発達したいまは、直接川からひいたほうが早い。そこでため池は使わなくなった。
ため池には特別な名前はなく、〜(小字名)の池、といっていたそうだ)
A:台風よけの神事とかはありましたか?
高:いや・・それはなかったですね。このあたりは山ですけん、台風はそんななかですよ。この辺で被害のあるとはビニールハウスですね、なすといちごをつくっとるですけど。
A:じゃあ、道等で、ここらへんは大雨の降るとあぶないけん通るなという所はありますか?
高:だいたい今は基盤整備のすすんどるけん。前はひどかったです。
今:はい・・だいたいこのあたりは危険箇所にはなっとたです、50mくらい。
A:整備したのはどれくらい前ですか?
高:十年くらい・・じゃなかろうか、だいたい工事の終わったとは
A:その前は・・やっぱり大雨で危険なめに会う人はいらっしゃったんですか?
今:やっぱですね、ここ二軒(公民館の前に家が二軒たっていた)は、すぐ後ろが山でたっとるけん、雨のひどうなるとよう被害にあいよったです。
A:流された・・・とかはありますか?
高:この地域じゃなかばってんが、役場のあたりはあすこは・・四人しんどる。
今:あそこは崖くずれて流されたっちゃろ。
高:親父の流されて・・息子の泳げんけど助けようとして、結局。あとは嫁に行って、ちょう
ど結婚式の日で・・。母親と一緒に。そいけん葬式の時の衣装は嫁入り衣装やったです。
A:つらいですね・・。
高:母親は、流されていった先が、ちょうど自分のさとやったですよ。
(沈黙。丁度雨がひどい日だったので、災害の日が思われた。自然の力は恐ろしい)
今:今は河川整備もすすんどるけんそんななかですが
高:川も・・昔に比べたら3mか4mは深くなっとるですよ。
A:それは・・ほったんですか?
高:いや・・川の横をコンクリートで固めるけんですね、水の流れがはようなって底をほるとです。工事したわけじゃなか。
A:川の整備はいつ頃だったんですか?
今:ずっと・・(前ですね)いっかいで全部はせんけん、今年はここ・・次はって。
A:はじまったとはどいくらい前ですか?
今:20年くらいまえかな・・。
A:終わったとは?
高:まだ終わっとらんところもあるとですが、県も金のなくなったけん(笑)
昔の生活
A:その河川工事によって川の生き物がいなくなったとかはありますか?
今:ああ、へりましたね。魚とかはほんっとおらんごとなった。幾種類へったかな
A:たんぼのなかに魚のはいってきたりしましたか?捕まえて遊んだりとかは
高:あったあった・・。そこで卵産んで。つかまえて遊ぶだけやなくて食いよった。(笑)
今:卵でんなんでん踏みつらかして・・子どもでわからんけんですね。(笑)
高:なますのこんくらいのがおったですね。(10〜15cmくらい)
A:おいしいんですか?
高:うん。そのころはですね(笑)そんなよかもんくいよらんかったけん。
A:罠とかつくったりしましたか?どんなのですか?
高:ああ、つけ針・・しよったです。大き目の針に糸・・・たこ糸をゆわえて、餌はどじょうとか、たにし、みみずをつけて一晩川につけとくと、かかっとる。
A:どんなのがとれましたか?(田舎人福元・・・かなりこのお話しは楽しかった。
質問も楽しかったです・
今:うなぎ、なまず。うなぎは昔多かったけん、ようとれよった。
高:だいたい八月ごろ・・・夏休みに子どもがしよったですね。あとは「どんこ」「ぎゅうひ」。
A:どんこもいるんですか!ぎゅうひていうとは・・?
高:きんなか(汚い)うなぎのちいさかごたっやつです。
今:とげもっとっと。さすんですよ。
A:仕掛けとかはありましたか?私の実家では、ペットボトルに味噌をつけて仕掛けをつくるんですが・・
高:味噌は・・・はえとり。(家にある、蝿取りビン。水をいれて蝿を集める)はえとりにつけて
川に沈めよったです。
高:いまでこそ蝿はそがんおらんけど、昔は虫の多かったけんですね。
A:蛍とかはいますか?
高:蛍は今もいますよ。そこの川のところに。もう今年は時期がすぎたけど、この間まで。
A:このあたりの子供さんたちは、蛍を捕まえたりしますか?
高:そうですね・・。あと、「蛍見会」って、この公民館に集まって、焼肉してってしよるです。
蛍より焼肉のほうが楽しみごたっけど(笑)
今:去年か一昨年か。二三年くらい前からはじめたと。子どもも今はすくなくなって・・。
高:小学校の一学年、一クラスですね、今年は・・1年生の9名しかおらんかった。
三加和町について
高:小学校は校区ごとにひとつずつあって、中学校はひとつになってます。
なんで三加和か・・っていうと、緑(区)の「み」、の「か」、春富はこのへん和紙の盛んですけんその「わ」・・で「みかわ」になるとです。
A:三加和町になったのはいつですか?
高:だいたい・・40年くらい前ですね。その前は、村でした。それぞれ、みっつで。
牛や馬について。農業の方法
高:昔は虫の多かったですねぇ・・なんで多かったかというと、鶏、牛。今は機械になったけど、昔は牛に耕作させよったけん。
A:牛はいつ頃までかっとったですかね?
高:昭和37年くらいじゃなかかね。それくらいまでうちも農業しよったけん。(高木さんは、二年前に退職されるまで瓦屋さんをなさっていた)
A:機械化によって、牛がいらない・・・というときには、牛たちはどうしていたんですか?
今:自然と・・売ったりとかしよった。そして牛は、農作業にも使いよったけど、
子供を産ませてその子を市場にうったりして収入源にしよったですね。
A:牛の糞とかは肥料にして・・・。牛に食べさせる草はどうしよったんですか?
今:だいたいこのへん・・畑から刈ってきて。それと、稲の藁をたべさせよったですね。
A:そしたら、特別に、ここは草刈場・・というところはなかったんですか?
今:はいはい。畑とか、たんぼの畦で。
高:あとは、川原とかは自由によかけん。競争で刈りに行きよったですね。
今:きまっとらんでしょが、そいけん堤防のあたりは、「明日あのあたり刈りにいこう」とおもっとると、次の日自分よりはようきとっとですよ(他の人が)
高:今はもう、田んぼは整備して、畑は・・今はもう畑は荒らかしとるけど、その牛を飼いよった頃は畑でんなんでん草一本なかったです。牛のえさにするとで。
A:このあたりは牛を飼いよったところが多いんですか?馬はいなかったですか?
高:何軒か・・永浦に34軒あっですけど、その中で二軒でしたね。
A:どっちがいいとかあったんですか?馬のほうがかっこいいとか。
今:そら馬がかっこよかっけど、飼いにっか。犬と一緒で散歩もしてやらにゃいかんし、世話も
大変ですね。病気にならんごとしてやらんといかん。馬のほうが、歩き方のはやかけん、耕作さすっとにはよかとばってん。能率のあがってですね。
高:馬は・・・子持たせのわるかですよ。牛なら、子供を持たせて売って収入源にできたけど。
A:雄牛のことは、ゴッテ牛といっていましたか?牝牛はウノ牛とかは
高:ゴッテ牛はいいよったですね。牝牛はそんまま「牝牛」やったけど。
(一般農家で飼われていたのは主に牝牛で、数が多かったので特別な言い方をしなかったが、
雄牛は種付けの時に使われる少ないものだったので、特別な言い方が残ったのではないだろうか)
A:牛のふんとかは肥料にしたんですか?
今:はい、糞に藁とかいれてですね、たいひちゅて。
A:今は科学肥料ですか?
今:今は・・・ですね、農協でいま牛を多く飼っているところから糞をもってきてたいひを作ってうりよるですけど、だいたいはもう化学肥料ですね。
A:ほとんど今は田植えですか?直播をしよったところはありましたか?
今:それはなかですね。
高:だいたい田植えで。田植えの時の手伝いは「てまがえ」ていいます。
今:親戚とか、近くの家で何軒か集まって。区長さんの家を最初にしたら次はわいえ・・。て。
A:今はもう機械ですか、整備していないところも。
今:そうですね、田植えはもうだいたい機械で。機械のはいらんごたっとこだけ手植えです。
A:刈り入れの時も集まらないですか?
今:そっちも機械のあっですけんね。うちは・・年取ってからは、ひとにたのみよっです。
高:「ひうと」・・日雇いですね。一日いくらで頼んでしてもらうとです。
そいで田植えの終わったら「かわまつ」をする。
今:その年の春にはえてきたわっか竹をきってですね、杯をつくって、酒ば入れて川にさすとです。今年一年水のお世話になります・・て。
A:川の毒流しはありましたか?
今:毒流して、魚を殺すやつですか。何年か前・・なんか流れたかなんかして小学校あたりで問題になったことのあったごたっですね。
高:人間には害のなかとけど。そいで魚はとってたべよったし。「げらん」っていいよったですね。
今:蔓のつるを取ってきて、たたいて、その汁を川に流すとですけど。そいは、魚に毒あるけど、人間もかぶれよったですね。ある程度時間をおいたら、川やっけん流れてしまうし。
高:魚を捕まえるとやったら昔は家庭から電気をひいてきて感電させてとりよった。
A:電気ですか!
高:30mくらい効果のあるとですよ、そいけん、向こうにおる・・てわかったら、こう、
いれて。けど、なれとらんころは自分も感電してですね、びりびりしよった。あの。車のバッテリーを使いよったです。
A:ばれたら怒られましたか?
高:いや、ばれんごとするとです(笑)あとは、ため池は、昔はたんぼに水を入れた時はからっぽになっでしょが、すっと、うなぎとかののこっとると。
しかもおおきかとが。
A:ええ!食べてましたか?そういうのは全部(笑)
今:そりゃあ、楽しみやったですけんね、んなばってん、おおきかとは逆にうまくなか。
A:どういうふうに料理するんですか?
高:このへんには「どじょうじる」つっとがあって。どじょうばなすびでつぶして、形のなかごと。そいで、ごぼう・なすび・いもがら、そうめんをいれて、味噌であじつけばしてつくるとけど。なかなかうまかっですよ。あと、どじょうは、米の花をたべたとがうまかっです(米の花は風が吹かない日の午前中にしかささないので、そういうどじょうは貴重だそうだ)
今:女の人でも好きな人は好きやね。おいしかよう(笑)
A:食べてみたいです・・・。
(ここで、食べ物の話に刺激されて、昼食&小休止)
天候(この日は天候が悪く、食事中はずっと雷がなっていた。)
高:うったちが(私達が)あなたたちくらいんときは、毎日雷の鳴り寄ったね。
今:どこやったか、たんぼにおちて、しめ縄さんはっとったけど、稲の赤うなってしまったことのあったね。
A:毎日ですか?!怖かったですか?(笑)
高:うん毎日。しかもきまって二時ごろ。その頃は、川で泳ぎよったけん。(学校のプールの授業も川だったらしい)こまか時はやっぱえすかったよ〜。
A:雷のおちたたんぼは、実りのようなるってことはありましたか?
今:ああ、そやねぇ、その年は、さっきゆったごと、稲の赤うなってしまったけど、そのあと二、三年くらいはようなったらしかね。
三加和町の特産品から、再び地名へ(和仁城下の「あかいけ」)
A:昔は、楮ってとりにいってましたか?
高:昔・・畑にはずっとあったよ。二軒耕作しよらした。
今:そいも農家の収入源やったけんね、畑のあぜんとこには色々つくりよった。
和紙はみかわの特産品で、卒業証書は和紙ですよ。今でも。
高:二年前、国体(インターハイ)のあったでしょが、熊本で。あんときは、賞状にみかわの和紙がつかわれとっとです。
A:和紙を作る時の水は、川の水ですか?川とか、滝で特別な地名はありますか?
高:滝はなかばってん、川ならあるよ。「あかいけ」て。
A:それは、池じゃなくて、川であか「いけ」なんですか?
高:うん・・・その、川のたまりのところさね。みかわには「和仁城」・「田中城」ってあって。
今:今、県か国の文化財になっとですよ。そいて三加和町では毎年「戦国祭り」ってする。
高:どっからつれてくるか馬とかも使って、甲冑ばきて、合戦の再現をする。
二月の十一日にね。
A:地図では、どのあたりですか(地図参照)
今:このあたりかな。ここで、あの・・豊臣秀吉の時に佐々成正のきたって。そいで武士たちの死んだ人の血がちょうど流れて、川も「ちなみがわ」ていう。(漢字では「血涙川」)
高:川に血の流れて、そいで丁度よどみを「あかいけ」ていうとですよ。
A:その、あかいけのあたりは、怪談とかありますか?
今:あかいけは・・・・火の玉のでるっていいよったね。こどもんときはえすかった(笑)
みたていう人も結構おるけん、まんざら嘘でもなからしか。
A:じゃあ、肝試しとかで、「あかいけ行って来い」とかありましたか?
高:あかいけもあったけど、肝試しつったら、青年会に入とったときにお宮さんに夜中にいくとがあったね。結局誰もいききらんかったけど(笑)今と違って電灯のなかけん、暗くてね。
A:あかいけの他にも川に名前がついてるところはありますか?
高:あとは、「いがわしら」てあるね。(地図参照)(三加和町からは、オリンピックの水泳選手がふたりもでたそうだ。やはり川で泳ぐと鍛えられるのか。肝試しの話は、高木さんたちも楽しげに話しておられた。)
そういえば、戦時中には、ここの欄干も供出してしもうて、橋ばわたるとのえすかったね。
今:そうそう。なんでん出してしもうて。弁当箱も出したよ。アルミ箱そいけど、あの鐘(雨乞い用の鐘をさして)は、しまいこんどったけん、あることもわすれとったとやろうけど無事やった。
青年会について そして夜這い。
(肝試しの話から、高木さんが若い頃の話になった)
A:若い頃は青年会ってありましたか?
高:あったね。そこのお宮さんにわっか男は集まって、寝泊りしよった。青年会にはいっとるもんは消防団にもはいとって、いろいろしよったなぁ・・。夜警(夜の見回り)のときに、ひとんちの干し柿ばとってくったりとかね(笑)、あとは・・・そう、夜這いってこん手紙にあったけど(にやり)
A:したんですか!!(興味津々)
高:いや、自分ではね、しとらんけど、年上の人たちが、失敗談をいいよったね。
昔は、こう、鍵とかないけん、棒でしめとくとけど、外からそいばどけて、で中にはいっててしよったら、横にたてかけとった雨戸ば全部倒してしまって。「ばたーん」って音のして。(笑)
A:失敗しちゃったんですね(笑)やっぱり、きれいな女の子はすかれましたか?
今:いやぁ・・そいは好みもあったしね。性格のよか・・・女らしか子が自分はすきやったけど。ただ、あんまり細か、奇麗か人は、農家に嫁ぐと、「あんひとは、きゃん(すごく)きれかったけど、やつれっしもうて・・」てなってね。そいけん、明るくて元気な、健康な子がだいたいすかれよったと思うよ。
高:あんま奇麗か人は、性格のようなか・・つうともあってね。
A:隣村の子にはてをだすな、とか、女の子をめぐって喧嘩とかはありましたか?
高:それは、なかったね。
今:むしろ、同じ村やったら、すぐわかるったいね、どこどこの息子が、どこのこと仲良うなったって。そいけん、同じ村よりは、隣村までいくほうがよかって時もあった。やっぱ、ちょっとはずかしかけん。
地元よりもよそさんいきよった。
A:お年頃ですね・・。若い人の中では力比べとかありましたか?
高:したねぇ、そのお宮さんに石あるよ。わっか男は青年会にはいって、わっか娘さんは「しょじょかい」っていいよった。
A:「しょじょかい」・・・それは漢字はやっぱり「処女会」ですかね?
高:どうやろねぇ・・・集まりのことやなくて、娘さんを「しょじょかい」っていいよったけんねぇ。
(かなりのって話していただいた。笑いが絶えない受け答えだった。
「夜のお勤め」のときに、箪笥の金具ががたがたならないように結わえていた・・というお話もきいた)
減っていった行事
A:昔にくらべて、行事はへりましたか?どんなのがありました?
高:ああ、減ったねぇ。春には「彼岸まつり」てあって、「ひがんごもち」ばつくったりとか。
今:四月と十月に「せんぞまつり」ってしよったね、親戚連中であつまってから、
A:それは、お墓でするとですか?お墓はどこにあっですか?家の近くに?
高:昔は土葬で、近くにあったけど、今は納骨堂に集めてしもうとる。せんぞまつりは墓でしよたけど。
きちんとすっとこはお坊さんよんですっとこもあったけどね。
今:昔は、酒をのむちゅうたら、祭りんときだけやったけんね、家で、一人でのむってことはなかったねぇ。そいだけ生活のきびしかったやろうね。
A:お酒はどんなのをのんでいたんですか?どぶろくはつくりましたか?
高:ああ〜つくりよったよ。けど、どぶろくは強かけん、すぐ効いて。あと、焼酎は「つるは」とかね、
合成酒・・・酒と焼酎のあわさったとかね。どぶろくは、税務署のうるさくて。(笑)
A:のみ比べとかはしました?
高:しよったしよった。たてんごとなるまで飲んだりとかね。前は一升とか、ビールなら10本とか。飲みよったね。賭けばして。のめるかどうか。
今:どぶろくは、甘酒のつくりかけからつくったとがうまかったね。そいえば、行事とはちっと違うけど、なんか祝い事のあっと、芝居をよんでね、祝いよった。
高:先祖まつりっていえば、墓の移し変えのときの大変やったなぁ。墓ばほりかえすったいね、したら、骨のでてきて。最初ン時は、恐ろしかったっけど、だんだん、しゃれこうべをみながら、「ああ、こん人はいきとった時は別嬪やった」とかいいはじめるごとなって。
昔と今を比べて
高木さんは敗戦時まだ3歳、中村さんは20歳だったそうだ。高木さんのお父さんは戦争でなくなられ、お母さんは戦争未亡人になられた。父親がいない生活は大変なものだったという。戦後すぐの食料がない時代、魚屋が自転車で魚をうりにきた時には、魚をもたせるための氷をもらって、生臭さを川で洗って取ってたべたそうだ。「うばがい」というあさりより少し小さい位の貝や「たいらぎ」をよく売りにきていたらしく、おいしかったとおっしゃっていた。
高木さんのお家は三人の兄弟がいらっしゃったそうだが、戦後の農地改革の時、子供が他のところに比べて少なかったため、もらえる農地も少なく、その点でも苦労されたという。
今:そいでいったら、今の子供は、やっぱ苦労を知らんね。
高:別に苦労をせろていうわけじゃなく、しっとけ。と。そう思う。
今:やっぱ、おもいやりのあった。人間性をいうたら、昔はよかったと思う。
高:せんば仕方なかった面もあっとやろけど、だいか(誰か)が病気になったら、村総出で手伝いよった。今は、見舞いにはいくけど・・・なんつうか、帳面けしたいね。心からじゃなか。
しんみになっよった。昔は。
(書き起こすと、「昔は」という言葉が多いようだが、実際に聞いていると、「しっかりしないと」という気持ちになる、お話しだった。)
このほかに、現在の町の運営の難しさ(協力することがすくなくなったこと)や、昔に比べてm先生がよわくなったこと(父兄がすぐ口をだすこと)などを語ってくださった。
(このあたりで三時半になり、四時に集合だったので、きりあげねばならなくなった。
高木さんが、せっかく来たのだからということで、ラーメン屋さんにつれていってくださった。
(おいしかったです。ありがとうございます))
以上、六月二十六日の東吉地の高木さん、今村さんからうかがったお話の逐語記録。
文中、地名に関する中で重要と思われるところに赤線、農業についてオレンジ線、村の歴史等について緑線、その他で重要なところに黄緑線をひいている。(メールでおくる分については線はなし。また、ワードの大きなお世話で、方言部分には妙な色線が入っているがご容赦を)