鎮西町馬渡島 野中・ニタ松
調査者 国中真理子 夏芸芸
12月18日(土曜日)に馬渡島の野中・ニタ松地区の町長を訪ねた。当日、馬渡島の港に着き、船から降りると、すでにニタ松地区町長の牧山和人さんが車で迎えに来てくれていた。野中・二タ松地区を当初は別々に調査する予定だったが、二つの地区に風習や文化などの違いはあまりないということで、二つの地区の調査を合同ですることになる。
ニタ松地区の町長は、牧山和人さんで、野中地区の町長は牧山菊夫さんと、二人はいとこ同士だった。牧山和人さんの話し方はほとんど標準語で聞き取りやすかったが、牧山菊男さんの話し方は、方言が大部分で、何と言っているかがよく分からないところもあったが、とても親しみを感じる話し方だった。牧山和人さんは、若い頃に島を出て、熱心に外国語や神学を勉強していたことがあり、とても知的な人だった。牧山菊夫さんも、島のことにはとても詳しく、またユーモアがあって、二人とも質問に丁寧に答えてくれた。
港から車で5分ほど山の方へ登って行ったところに牧山菊夫さんの家があったが、家に行く前に、家のすぐ近くにある教会を見せてもらう。木造建築で100年ほど経つ教会だと言うが、外から見てもとても立派で、中には靴を脱いで入らなければならず、教会だが日本風であることを実感する。中は広くて、とても厳かな雰囲気が漂っていた。すべて木造でできている教会のなかでは九州で最も古いものだそうだ。教会の中で立ちながら、馬渡島のキリスト教についての質問を開始する。以下、質問した内容に対する牧山和人さんの説明を「和」、牧山菊夫さんの説明を「菊」と表示する。
「キリスト教はいつ伝わったのですか。」
―和「キリスト教徒(カトリック)は1860年頃弾圧を逃れてきたんですね。この島においても弾圧があって、密かに信仰を守っていたんですが、禁教令が解かれてからは潜んでいる人、つまり隠れキリシタンはこの島にはいないですね。」
「教会ではどういうことをするのですか。」
―和「礼拝は毎日あります。日曜日には島の信者はミサをします。」
「(仏教徒とカトリック教徒と)分かれているのですね。」
―和「自然と住みわけになっていますね。」
「じゃあ、下の人(仏教徒)たちとは喧嘩とかするのですか。」
―和「そんなのはないですね。ただ以前は上の部落と下の部落で仲が悪いというのがあったようです。」
「今はどうですか。」
―和「今でもひと時意見が合わないということがありますね。でもそんなには・・・。」と今では信教の違いによる対立というのは、あまりない様子。
質問を終えたところで教会を出ると、出たところに大きな石の碑がある。教会とは似つかわしくない日本風の碑で、不思議に思って質問してみる。
「これは何ですか。」
―和「忠魂碑です。」
「これも教会と関係があるんですか。」
―和「いや、これは関係はないです。戦争で亡くなった人を慰めるというものです。
そのすぐ近くに、墓場がある。一般的な石作りの日本式の墓だが、半分ぐらいの墓の上に十字架がのせられていて、日本風と西欧風の組み合わせにとても不思議な感覚を覚える。
「墓の上に十字架がのせられていないものは、カトリック教徒の墓ではないのですか。」
―和「いえ、墓の上にのせられていないのは下の方に十字架が描かれています。ここにあるのはすべてカトリック教徒の墓です。」墓に牧山という名前が非常に多く刻まれている。
「牧山さんが多いですね。」
―和「カトリックの信者の中では8割方牧山です。」との答えに皆驚く。
一つの場所に教会、忠魂碑、墓、と日本と西欧のものが組み合わさっていて、とても不思議な光景だった。
教会を去り、歩いてすぐ近くの牧山さんの家に行く。家には牧山菊夫さんがいて、温かく歓迎してくれる。昼から教会でクリスマスの準備があるらしく、急いで質問をしてくれ、と言いながらも、一つ一つの質問に対して丁寧に答えてくれる。早速、馬渡島についての質問を開始する。
「地名ですが、皆さんが使っていた岩の名前、崖の名前、瀬の名前、浜の名前を教えてください。」
―菊「あんたこんな小さな島でも、書ききれないくらいいっぱいある。何箇所くらいいったらいいと? 岩の名前からいこうか。宮ノ本(港に近い部落)のほうも(調査に行った別のグループの人に)言うだろうから上の方(野中・ニタ松)だけ言おうか。」と言いながらも島中の情報を教えてくれた。
―菊「島いっぱい言いて回ろうか?そのほうが早かろ。こんな取材して勉強の足しにすると?何の勉強しとると?民俗学?地図一枚かさんと。一枚に印ばしとこ。」
―和「岩の名前はそうない。」「タカバナ―出っ張ったところは鼻と言うでしょ。高さがあるからタカバナ。トシャク(海岸の名前)やろ、クジラゼ、ミズタル―滝のように水がたれていて流れ出ている。ホトケザキ―岩が仏様に似たところがある。コンカワ―穴がある、洞窟、侵食された岩がある。コシオギ、オオシオギ―小と書いてコシオギ、大と書いてオオシオギ。」
「ウノクソバナ―‘うんこ’がなまったものよ。」との説明に皆どっと笑う。「ガメンク―大きな岩の中に亀みたいなものがある。‘かめの子’がなまったもの。」
「オオナガサキバナ」という呼び方に対して、「長崎に近いからオオナガサキバナという呼び方をするのですか。」と聞いてみると、「何でそう名前をつたのかは分からない。」と答える。「クウラ、ドンクウゼ―ドンクウ’は‘かえる’。カエルゼということ。」「カワジリ、タカセ、オツゼ、コツゼ―オツゼの大に対しコツゼの小。ナガゼ―ちょっとした瀬。ナンジョウバナ」とナンジョウバナまで地図上で紹介したあとに、「ああ、これ全然違う!」と場所を勘違いしていたらしく、カワジリからナガゼまで位置を書き直す。島の人でも場所を勘違いすることがあるのか、と驚いた。「タジリノハマ、マツゼ―松瀬、松の木がはえている。」
たくさんの名前を覚えていることに対し、「すごい、よく分かりますね。」と言うと、「何度も通っておるからね。」とあたりまえのように言う。昔から島中の土地に行き、慣れ親しんでいる様子がうかがえた。
「海中に名前のついているところはありましたか(瀬?根?水中の岩・暗礁。)その名前がついた「いわれ」があれば教えてください。」
―和「根はソネのことを言うのかいな。」
―菊「この地図に書き込んでいくと?沈んでいるから分からんよ。」
和「おおよその場所くらいなら検討がつきます。大体の場所を教えとこう。」「オオソネ(馬渡弁でウウソネ)。タカセの沖。結構広い。」
「山立てでやる。」と言われ、私たちがキョトンとすると、笑いながら「具体的なことはわからんでよか。大体の場所をおしえてあげるよ」「イッサキゾネ、ヨコゾネ、ブンゴロウ」
―和「名前は何でブンゴロウになったかよく知らん。」
―菊「昔の人は見つけた人の名前ばつけよったけんね。」
「ブンゴロウさんが見つけたんですか?」
―菊「多分そうだと思うがね。昔、台風が吹いたらさ、台風を把握した人間の名前を付けた。そういうのと同じ。」
「夜、海に出ることはありましたか。」
―和「ありますよ、今も昔も。」「夜、海に行く場合の危険はどんなものが。」
―和「やはり、風、波ですね。流木なんかあっても困るな。」「網をかける場所はどこですか。定置網の場合と、それ以外。」
―和「定置網はないですね。」菊「カシアミ(正式名称イソタテアミ)を晩に沈めよってさ、そして晩に魚がかかったやつを、朝から引き上げる。(だいたい4時5時ぐらいから行って)場所はね、島いっぱい。」
「風は一年でどう変わりますか、呼び方は?」
―和「夏だったら南よりの風、冬だったら北より、秋は北風で、真冬は北西の風、呼び方は、お盆口から吹き出すボンギタ。東の場合はコチカゼと言うねやっぱり、コチフカバのコチやね。南はハエのカゼ、ハエドマリとかなんか言うでしょ地名で。アナゼは北西のことね。南と西の間から来る風のことを、下がり西と言うよ、南と西の間から吹く風、北西と対称的な風のことよ。そういう風な言い方をしています。」
「主な潮流にはどのようなものがあって季節によってどう変わりましたか。」
―和「満ちてくる過程あるいは満ちてから流れが変わるもんね、それを満ち潮と言う。それから下がってしまって流れる潮を下げ潮と言う、西の方に行く潮やね。」
「海の中の権利にはどういうものがありますか。」
―菊「チサク権だけ、海岸線から700メーターは島のものという縄張り。その範囲では特別な漁はよその人は禁止されている。昔からある。昔はまだ距離はあった。お互いに200海里問題がでてからさ、全部漁業圏内も縮小されてしまったさ。慣習法的なお互いの暗黙の取り決めみたいな形になっている。うちも、詳しいことは分からんけんよ。回船が回って来てさ、どこまでが佐賀県で長崎県か言って来ないもんね。はっきりと聞いたらさ長崎県とイザコザが出てくる。『うち達が回るところは佐賀県の海と思っておいて。』というぐらいで、はっきりとしたことを言って来ない。あらましの線は引いて、けどさ、はっきりとしたことは言ってない。」
「操業区域、禁止区域はありますか。」
―菊「漁の種類で、県の領域としたところがきびしくはなっている。はっきりとした線引きというのは境あたりははっきりしない。規制はきびしくなりつつある。区域は漁の種類で違うですよ。区域まで来るのは、一本釣り。網とかはされんわけ。」
「海の中の境界はどうやって決めるのですか。」
―菊「海岸線は長崎県の土地・地域がありますでしょ、佐賀県の土地・地域がありますでしょ。それが元になっとるですよ。それからどうやって線引きするかですよ。長崎県と佐賀県の境になるところがあるわけ。そこと壱岐に向けてつなぐ。その中で、壱岐のどこのハナにつなぐかで、問題になり区域に何マイルという差があるわけさ、ややこしいことになっている。どっちから線を引くか、陸地のね。どっちに引くか、水掛け論のようになっているわけ。はっきりとしたことはウチ達も分からん。」
「自分であみ出すのですか?教えてもらうのですか。」
―和「教えてもらうのではなく、あみ出す。山立ての仕方が違うけん、山の立て方がそれぞれ違う。どこの山で立てるのか分からん。聞いてもなかなか分からんですよ。機械ではGPSで完璧に行きますよ。でも山立てはなかなか面白いですよ。」と山立ての話は非常に熱心にしてくれる。話しているときは、少年のようにとてもワクワクしているような口調だった。
「部落から海岸にいたる道はどれですか。」
―和「車でいける所は、タジリノハマ、シオヤノウラ、コンカワの三ヶ所。徒歩でもそう多くないですよ。コツゼ、ナガゼ、ホトケザキ、ヒラセ、獣道みたいな細い道を通って、歩いてもいけないところは、海から小舟で行きます。」
―菊「どんどん行こう!時間がないぞ!」と、クリスマスの教会の飾り付けをする時間が迫っているらしく、カトリック教徒としての熱心さがうかがえる。しかし、その後も丁寧に質問に答えてくれる。
「海難事故はいつどこでどんな風にありましたか。」
―和「この頃は、衝突事故が多い。陸の方に居眠り運転で衝突したり、自分で崖・岩に衝突するのが多い。船同士の衝突もあるとはあるですけど自分で衝突するのが主です。この島の周りの事故だったら、人身事故はないですよ。」
「海の子供の遊び場はどこですか。」
―和「昔は島全体が遊び場。どこにでも行きよった。全部あぜ道ばかりやったけん、あぜ道を歩いて、ロッククライミングしないといけないようなところまで行きよったですよ。サザエ・アワビとか取って来よったよですよ。今はもう30分の1もいないかな。」
―菊「いや100分の1や。見つけるのに苦労する。」
菊「今は海水浴には行かないな。プールがあるけん。海水浴は親がいないと子供は一人では行けないが、プールは逃げも隠れもできんもんね、親がいなくてもできるから。」
―和「あとは魚釣りは防波堤が主ですね。」
「浜での作業にはどのようなものがありましたか。」
―和「ひじき切りとかさ、ウニ取りは一般の島民がする。個別にはね、色んな磯物を取る。貝とか海藻とか。」
「昔はどんな作業がありましたか。」
―和「昔は大規模な網をやっていた時代があるんですよ。その網の仕事とか、イワシが結構取れていたので、エボシ作りを製造の小屋を作ってやっていた。あと、船で漁に行って帰ってきたときにちょこちょこした仕事はありますけどね。」
「船の修理はどこでしましたか。」
―菊「病気のときにどこへ行きますか?という質問と同じじゃない。」と笑顔で言い、皆大笑い。「船の修理は造船所、機械・エンジンが壊れたときは鉄工所。島には造船所も鉄工所もない。ただ、ちょっとした修理が出来る人はいる。昔は一つところの造船所・鉄工所じゃなくて、色々な所から造ってきたもんですね。衝突事故があった場合には、その造船所・鉄工所に持って行きましたね。壱岐・呼子の2ヶ所が主。昔は島に一人だけ舟大工がいました。(簡単な修理で)間にあうのはその人のところに行っていたですね。」
「木造船にのったことは。」
―和「今の船は強化プラスチックでできているが、それを使う前は木造だったんですよ。」
―菊「漁に使う船は、大きくても19トンもない。12・13トンくらい。昔は朝鮮行きの荷物船があって、150-300トンあった。あんたらトン数言うてもピンとこんもんね」と言われ、「12トンよりは大きいな」という我々の答えに大笑い。
「木造船は自分たちで作ることができますか。あるいはどこで買うのですか。」
―菊「木造船は自分たちでは作れん。壱岐から買っとった。」
「自分たちで修理することができますか。」
―菊「できん。船を作る大工は家は建てれるけど、家を作る大工は船は作れん。」
和「木造船は、板を一枚一枚接いでいく。水が入らないように板を曲げていかないといけず大変ですよ。(それに対して)家はまっすぐな板を使うからね。」と木造船を作る難しさを強調していた。
「魚の群れや鯨を見つける方法は。見つけた場合はどうやって連絡しましたか。」
―菊「鯨は潮をふくのを見る。馬渡にも江戸時代からけむり(のろし)をあげる小屋が、おいたちが小さいころまであった。」
和「普通の魚の群れは今は魚群探知機で見つける。昔は魚群探知機がなくても結構な魚の群れは見つけることができたですね。船の上からでもワチャワチャとわくのが肉眼で見えましたよ。それか、海鳥が飛んでいるか、向かっているか。普通の魚の場合は見つけても連絡をし合って、取るということはしないで、それぞれの漁師が取っていました。あとは、動かない魚だったら、山立てをしていたりね。」
「海藻はどんな風に利用しましたか。」
―和「食用、肥料(たい肥)-いい肥料になる。手間はかからないですよ、海岸に打ち上げられているのを、持って来て畑にまいて埋める。畑にはジャガイモをうえていたですね。他の肥料と混ぜて使うこともあったが、ほとんどはそのままでした。まあ、今は使わないですね。化学肥料が店に売っているから、手っ取り早く買ってくる。」
「漂流物にはどんなものがありますか。」
―和「何でもある。韓国製のペットボトル。あんなのはいくらでもある。発泡スチロールなどのプラスチック関係のゴミなんかですね。一年に一回掃除するが掃除してもすぐたまる。」と聞いて「へーすごい!」と福岡市内に暮らす私たちは興味津々だったが、二人はあまりうれしくない様子。おそらく日常的に漂流物は流れてきて、ゴミとして海岸にたまってしまって逆に困っているのだろう。
「ゴミ以外の漂流物はありますか。」との問いに、菊「まだ、金を拾ったものはおらん。」と答え、皆大爆笑。
「人間が漂着したと言う話や伝説は聞いたことがありますか。」
―和「伝説じゃなくて実際にあったことですね。死体が漂着したというのはもう何回もあります。生きてて漂着したという話は、密入国(密航者)はある。」
「その人たちはどうなったんですか?」
―和「その人たちは強制送還されました。伝説はあるのかな?イカツチの話はどうね。」
―菊「ああ、あれは嘘や。」と即答し皆大笑い。
―和「昔、元の時代にこの島に漂着したと言う話はいっぱい聞きますね。元寇の時に10万位の兵が来て、タカシマは今も当時の船が沈没していて、すごい海中遺跡があるそうです。馬渡にはあんまりないな。伝説は本当かどうか分からんがあるんでしょうね。チラッとそういう話を聞いたことはあります。」
「伝説の島」と呼子港の看板に書いてあったことを伝えると、和「何の伝説?」とびっくりした様子。しばらく考えて、和「洞窟に入って出てこんかったという色々な話はある。詳しく知らないから話としてつながっていかないから、僕らは話しきれない。断片的に聞く話はいっぱいある。」と、私たちは伝説を聞きたがったが、詳しくは分からないということで、具体的に話してもらえなかった。
「島の民族について‘ズーシーブルミャー’(子供が生まれた時のお祝い)は行われていますか。」
―和「ズーシーは、味噌汁の汁にご飯を入れて食べるような感じの食べ物ね。僕らが小さい時には,ズーシーと言っていた。ゾウスイのなまりでしょうね。特別なお祝いに食べるということではないですね。普通に一般に食べますよ。子供が生まれたときのお祝いは、その家庭で一杯するぐらいで、この島独特な伝統行事は今にいたるまでしない。」
「その他の祭りはありましたか。」
―和「上の部落の野中・二タ松の人は、カトリック信者なので仏教・神道の人たちがするような祭りはしないですね。カトリック教会の祝い・大祝日(クリスマス・イースター復活)があるので、それらは普通にする。この地についた土着の祭りはカトリックではしない。宮ノ本はする。それは宮ノ本の人たちに聞いてくるでしょう。」
一般的に、地方の島といえば、島民は皆で集まってのお祭りや、伝統行事を大切にしていて、それらの行事によって島のまとまりを深めていく、とのが普通であろうが、牧山さんの話を聞いてみると、馬渡島は普通の島のイメージと大きく違っていて、私にとっては非常に興味深かった。
「海岸の粗大ゴミ(バイク、自動車を含む)はどのように処理していましたか。」
―和「粗大ゴミの収集日が島にもある。バイク・廃車が以前は残っていたのを、町が予算を組んで、一掃したんですよ。あとは、個人で放置しないようにとしてます。今も何台か残っているが、以前ほどはないですね。」
「田はありましたか。」
―和「二ヶ所ですよ。下の部落で一ヶ所、ここらあたりで一ヶ所。田んぼは二件しか作ってないですよ。」
「昔はどうでしたか。」
―和「はい、もう水がある所はみんな田んぼしてましたよ。棚田で、広い面積は取れないから、狭く細長く。」
「川から水を引くんですか。」
―和「川もありますし、池もあります。湧き水も使いよったですよ。ため池よりは湧き水を使う確率のほうが多かった。ため池は三ヶ所しかなかった。西の池と、オイケ(大池)。その池が一番小さくて名前だけは大きい。もう一つ小さいのが宮の元のほうにもあります。」
「水を分ける上でのルールはありますか。」
―菊「ルールはあるとさ。一番上の人が一番権利を持って、湧き水が出るところを一番上と見なさないけんさ、そしたら、余った水を下に分けてやる。そしたら色々あっとよ。水ゲンカ。晩に来てさ、水をドーッと田んぼに落として、水ゲンカしとるっとよ。どこでも水ゲンカはおったよ。」
水の所有権をめぐる争いの話は、歴史を学べばよく出てくる話だが、直接に話を聞いてみて、机の上で学ぶとき以上に、それがより生活の中で現実的に感じられて、非常に興味深かった。
「小集落の名前は。」
―和「小集落というのは小さく小さく小さくかたまっている所の意味合いかな。そしたらえーと、野中・二タ松でいうとタジリ、ノナカ。二タ松でいうとハチノウ、フユマキと言う風に小分けできると思います。」
「家に屋号はついていましたか。」
―和「あまりついていないですね。」
「大木や古木に付いた名前、ふるい道や峠に名前は付いていましたか。」
―和「大木・古木に付いた名前というのはことさらないみたいですね。古い道・峠についた名前というのもことさらないみたいですね。要するに、目的地にいたる道だから、例えばコンカワに出る道だったらコンカワ道とか、そういう風な言い方はしてましたけども。塩屋の浦のことをナチの浜と言いますけども、そこに行く道は、ナチの道とか、そういう風な呼び方ですね。峠という言い方をするところはないですね。」
「ガスが入ったのはいつですか。」
―和「ガスはそんなに古くはないよな。電気が入ってからそう長くせんうちにはいったですよ。」
「水道が入ったのはいつですか。」
―和「水道はですね、宮ノ本は結構早かったんですよ。上の方(野中・ニタ松)は遅かったね。(できたのは)何年ぐらいかな。」とガス・水道のことははっきりと覚えていない様子。それだけ、ガス・水道より電気の供給の方が生活する上でより重要だったようだ。
「電気が入る前は暖房はどうしたんですか。」
―菊「暖房はホリゴタツよ。木炭・レンタン(を使用して)、(下の方に)穴をあけて、足ば全部(下の方に)下げられるようにして、コタツ布団をしいて。」
和「その前はイロリでした。」
「レンタンとは何ですか。」との質問に、菊「あんた達は、ホンマ現代人やなー。」と苦笑い。「レンタンをシチリンみたいなのに入れて火をつけたら長持ちするよ。火をつけてある程度ほこってから、シチリンの中に入れてホリゴタツの中のくぼみに入れる。」
「煙たくなかったんですか。」
―和「うん、だから、よくおこして入れた。いや本当に頭がポッとなる人もおったんですよ。中毒で。猫なんか入るでしょ、そうすると猫なんかがポッとなって。そういう話はしょっちゅうしていました。だからある程度、シチリンなら煙が出ないように、ガスが出ないように,外でよくおこしてから入れる。」
ポッとなった、という話に皆大笑い。私たちは、ホリゴタツを使った経験がないので、昔話を聞くような懐かしさを感じながら、ワクワクしながら聞いていた。
「薪はどこから取ってきたのですか。」
―和「薪はそこらへんの山から。」
「普通に適当に持ってきたのですか。」
―和「自分の山があるけんね。自分の山を持たない人は、共有地とかですね。その山から持ってきたり、あるいは近くの人からもらったりと。たいがい家の周りに木がありますからね。燃料にするぐらいのは、結構近くで間に合わせていたんですよ。」
「共有の山はどこか分かりますか。」
―和「今は少なくなってしもうたね。今は町で払い下げになって、個人でもらうところはもらっとる。」「薪は冬場は生のやつを切りよった。生木を切ってそれを枯らして、途中できちんと枯れていないのまで燃やして、冬場はそういうたきぎ切りには結構行ったですよ。」
馬渡島のキリスト教についての質問を開始する。最初に教会で聞いた内容も再び熱心に答えてくれた。
「キリシタンの島と言われるわけを教えてください。」
―菊「正式に言ったらさ、キリシタンの島じゃないとよ。」―「でも、看板に書いてありましたよ。」と言うと、
―和「昔からキリシタンの島と言いとるのはさ、きちんとした区別した認識がなくて、だいたいこの上の部落の宗教はカトリックと言う宗教じゃから、キリシタンというのはさ、誰が書いたか知らんけど、キリストが主体やけん、まあクリスチャンのなまりでしょうね。今はキリスト教でも色々ありますから、みんなそれをひっくるめてキリシタンと言う。要するにキリシタンという名詞を使う場合にはニュアンスとしては、禁教令があって、それに公に信仰できないから潜伏したり隠れたりして、信仰を守っていた人たちを総称してキリシタンというニュアンスが強いと思います。ただそれを、キリスト教全体を指して言っているのか、そこらへんは分かりませんので、これは正式にはカトリックはカトリック、同じキリスト教でもですね、プロテスタントはプロテスタントと色々分かれてますから、はっきり言う為にはそこらへんまで区別しなきゃいけないんですけど、一般に使う場合にはそこらへんの区別はしてないので、ここの場合はいちおう皆カトリックということです。キリシタンと言われた時代は禁教令が解除されるまでですので、キリシタンという言葉は多分江戸時代の言葉だと思います。だから今はちゃんとした言い方であればカトリック教会、カトリック信者というような言い方で言わないと一般にキリシタンといっても、総称のようなものですから、きちんとは当てはまりません。ここらへんでは、カトリック教会、カトリック信者と意識して呼んでもらったほうがいいと思います。」
「カトリックはいつ入ってきたんですか。」
―和「一番最初は、1860年です。天保6年だと思います。禁教令がしかれて迫害があって、信仰がおおっぴらにできなかったですね。そういう時の総称がキリシタンと言われてるのでしょうね。それが解かれて信仰もちゃんとできて、隠れているような信仰ではなくなったので、今は島に隠れキリシタンはいません。」
「禁教令のときは普通に信仰をしていたのですか。」
―和「いや、禁教令の時は普通にはできなかったですよ。」
「ちょっと抑えて?」
―和「そうでなくて、非常に抑えていたはずですよ。踏絵なんかも実際に役場・役人さんのところに呼び出されて行われていたようです。やはり厳しかったみたいですよ。」
「カトリック信者で誰が初めにこの島に来たのですか。」
―和「最初ここに来た人が牧山アリエモンです。長崎県から逃れてきて島に来る途中でお寺の坊さんの娘さんと仲が良くなって結婚して島に隠れとったわけですよ。奥さんには、うすうす感じとったようですけど、死ぬまでカトリックということをいわずに死んどるですよ。」
―菊「息子にカンベイという人がいたが、信仰だけは息子に伝えとるとさ。」
「そのカンベイさんからカトリックは島に広まったんですか。」
―菊「いや、それからまた5人ぐらい、島に来とるとよ。アリエモンノと親戚関係だったですよ。長崎の平戸の方から来てコンカワてあったろ。そこから島にあがっとるとさ。そいで、そのへんからずっと上がって来て、この辺(野中・二タ松)までずっと来とるわけ。そやけん、上の部落はほとんど牧山になっとるとよ。」と、島のカトリックについての話を非常に詳しくしてくれた。
これから教会の飾り付けに行かないといけないということで、質問はこれで終了した。二人とも島のことについては非常に詳しく知っていて、どの質問にも丁寧に答えてくれた。今回の調査を通して、馬渡島の、特に野中・ニタ松地区の特徴は、なんと言ってもカトリック信仰だと感じた。カトリックゆえの一般の地方にはない点、例えば島全体での祭りや、伝統行事がない点、また、禁教令が出されていた時における隠れキリシタンの話など、私が以前持っていた地方の島のイメージ——伝統的な行事が数多くあり、島民が祭りなどで一体化して暮らしている——とは違っていて、調査をしながら非常に興味をそそられた。もちろん、生活などは一般の地方の島とあまり変わらなくて、さまざまな面での島の歴史の話を聞くことができたのはとても良かった。今回は、カトリックの野中・ニタ松だけの調査だったが、馬渡島は一つの島の中に、仏教徒も共に住んでおり、カトリックとの風習の違いなどもあるようなので、島全体としての歴史を調査すればもっと面白いと思った。
今回は実際に現地に行って聞き取り調査をするという、今までしたことのない経験をすることができた。自分で足を運び実際に生活のなかでの歴史を自分の目で見て、自分の耳で聞き取っていくという体験は、普段机の上で本を開いて歴史を学ぶこととはまったく違っていて、歴史を体験することができる貴重な経験をさせてもらった。