鳥海

1AG98115E 竹岡 賢二  1AG98119W 嶽道 明

情報提供者 草場 謙次氏;大正5年生まれ
紹介者 草場 強氏
<農業関係>
しこ名は現在の小字とほぼ変わらないが、“宮の前”、“轟木”、“五庵田”、元享庵“ 以上4つの小字名は圃場整備を機に廃止された。それぞれ、隣接していた小字に吸収 され、圃場整備後にできた整然とした道をその境としている。(地図参照)
水利に関しては、8つの溜め池と鳥海川から7つのポンプで取水している。なお 草場さんは自身測量をなさり、溜め池の測量は草場さんによるものである。
実際に見た堤原池は、鳥海川と山のむこうの堤からひいているものと2筋の水源を 確保しており、その貯水量は5000立方メートルにも及び、その場から見えた 田のすべての水をまかなっている。
揚水機施設維持基金の実態(実情)
、上駄地井堰楊水機施設
年度:昭和49年度
事業主体:県営圃場整備事業
事業資金:地元負担・補助金(国、県、町)
、六反田井堰楊水機施設
年度:昭和49年度
事業主体:県営圃場整備事業
事業資金:地元負担・補助金(国、県、町)
3?A長の坪井堰楊水機施設
年度:昭和49年度
事業主体:県営圃場整備事業
事業資金:地元負担・補助金(国、県、町)
、原田井堰楊水機施設
年度:昭和48年度
事業主体:県営圃場整備事業
事業資金:地元負担・補助金(国、県、町)
、早谷川字百合草野井堰楊水機施設
年度:昭和60年度
事業主体:佐賀県土木部
事業資金:県土木部(地元負担なし)
、鳥海川字堀内、ファリーダム井堰楊水機施設
年度:昭和48―49年度
事業主体:佐賀県土木部
事業資金:県土木部(地元負担なし)
地元に楊水機維持基金として約250万円交付を受ける
、三間坂川、岩井手井堰楊水機施設
年度:昭和49年度
事業主体:佐賀県土木部
事業資金:県土木部(地元負担なし)
地元に楊水機維持基金として約150万円交付を受ける
耕地としては、特に良田、悪田の差はなく、10アール当たり八升から九升の米が 収穫できた。また裏作として冬には麦を作付けしていた。そして小麦は製粉し、裸麦は 米と一緒に混ぜ、麦飯としていた。
米の保存は、三升、五升、七、八升入りのそれぞれの甕に入れており、蓋の下に紙を はさむことで湿気と害虫(ネズミ等)から米を守っていた。なおこの地方では、家族で 食べる飯米を「保有米」と言う。
また米の売買に関しては、現在は農協がすべてを取り仕切っているが、農協の活動が 盛んになったのは昭和10年頃からであり、それ以前は一般商人が、米の流通のほぼ すべてを担っていた。
家畜については、各戸雌牛を一頭ずつ飼うことが多かった。雄牛だとやはり暴れて扱い づらく、また雌牛は仔を産むからである。
最後に「博労」(ばくりゅう)について説明するが、これは家畜の売買における仲買で その中間マージンおよび賄賂を得ていた。お金を渡すときや値段の交渉の際は、すべて 博労の手の中で行われた。(指を立ててその指を博労に握らせる。)

<村の発達>
鳥海が区としてわかれたのは明治22年でそれまでは「鳥海村」と呼ばれていた。
またその頃から26町歩ある鳥海の入り会い山林の組合も発足した。
鳥海に電気が通ったのは大正10年頃で、それまでは石油ランプを使っていた。
鳥海部落の宅地、普通水田(土地改良田含む)天水水田、畑
(昭和61年12月現在)
宅地 普通水田 天水水田 畑
鳥海区民 102,778 594,178 45,905 156,492
鳥海区外者 108,472 63,205 13,496 4,192
計(平方m) 211,250 657,383 59,401 160,684
*土地改良水田 633,498 未改良水田 83,286 (平方メートル)
鳥海部落の戸数、人口(昭和62年2月1日現在)
南上 南中 南下 北上 北中 北下 計
戸数 28 43 34 23 34 40 202
男 60 83 74 47 76 85 425
女 68 97 85 45 80 106 481
計 128 180 159 92 156 191 906

<遊びについて>
子どもは 「ねん棒」(ねんぽう)や魚釣りをよくしていた。
“ねん棒”……田んぼの中で行われることが多かった。まず互いに竹の棒(後には五寸釘) を持ち、順に地面に投げて突き刺す。このとき相手の棒を倒し、なおかつ自分の棒が倒れなかったら勝ちで、倒した棒がもらえるという遊び。

魚釣りは、鳥海川で小学校の高学年からはこぞってしていた。釣れる魚は主に鮒で、竹ぐしに刺し連ねてわらの上で干し、味噌汁の具に用いることが多かった。
川では他にも水泳をしており、七コース分程の幅がとれた。なお、町で最初にできた プールは、山内東小学校のもので昭和45年にできた。
女性は縄跳びや手まりで遊んでいた。

<昔の若者について>
若者達には夕食のあとによく集まる場所があり、そこを青年クラブと呼んでいた。
近くに力石があり、実際持ち上げようとしたが、二人がかりでもまったく持ち上げられなかった。昔は頭の上まで持ち上げられる人が多数いたらしい。
夏祭などの行事は青年クラブが主体になっていたが、現在は進学関係等で若者がへり事実上解散状態にある。

<祭りについて>
1月1日 元旦祭例祭
2月25日 春祭例祭
6月末日 田祈祷例祭
7月24日 夏祭例祭 浮立奉納
9月末日 彼岸こもり例祭 荒踊奉納
11月24日 秋祭前夜祭例祭 ・五目飯の奉納
お火焚き
江戸時代:武雄鍋島家、参代の使者派遣せらる
明治・大正・昭和初期:中通村・村社 中通校、小学生(現山内東小)児童、生徒
祭典参列、 部落民(氏子)牛蒡飯焚き奉賛
11月25日 秋祭例祭
12月31日 煤払い、年越祭例祭
随時:五穀豊穣等、部落民(氏子)の安奉に関わる諸祈願祭
願成就の祭典等
毎月: 氏子中は輪番により参拝するとともに、天満宮、御神城内の1日、15日
清掃奉仕
鳥海天満宮で行われる夏祭について
地区ごとに伝統継承している内容
犬走地区 ・奴 ・宮城野 ・江戸 ・鉦
笛 ・地囃子 ・大黒 ・銭太鼓
鳥海地区 ・恵比須 ・道行綾 ・地囃子
道綾 ・鉦 ・笛
船の原地区 ・綾踊 ・銭太鼓 ・鉦
笛 ・地囃子 ・江戸
立野川内地区 ・道綾 ・二本綾 ・江戸
笛 ・地囃子 ・鉦
鳥海荒踊並びに舞浮立の起こり
荒踊りの起こりについては諸説があるらしいが16世紀の初め頃の起源らしい。
鳥海がいつ頃より始めたかはまったくの不明であります。舞浮立については、武雄領主茂明の時代からの起こりらしいといわれ西暦1810年頃ではないかと思われます。
鳥海、荒踊、舞浮立の伝承
そもそも荒踊りは武雄領だけで伝わった勇壮活発な武士の踊りで、西川登町の高瀬は有名で、重要無形民俗文化財に指定されております。山内町においてはただいま三間坂部落に 活発に伝承されております。三間坂に武雄領の平戸押しの役目を持つ屯田兵村があり、兵士三隊75名(一隊25名)が置かれ、勤務の傍ら荒踊りの稽古練習をしていた。それが現在三間坂に残り伝承されているのではないだろうか。(屯田兵の一隊は、後武雄の花島に移されており、花島には今も荒踊りが継承されている) 鳥海では、後に三間坂より師匠を招願し練習されたのではないかと推定される。
浮立には舞浮立、面浮立、鐘浮立、太鼓浮立がありますが鳥海の浮立は舞浮立であります。舞浮立の起源に関してははっきりしないそうでありますが第26代武雄領主茂明が江戸参勤のとき、三州岡崎で見た浮立が気に入り帰国後家来をやって伝授させたという説が一応の定説になっているそうです。舞浮立の曲目は、藩政時代は33種目あったそうですが、永い年月のうちには師匠も変わるとともに自然に郷土化し鳥海に保存している巻き物には50種目ありますが、一種目でも多く永遠に保存、維持、伝承せねばならないと思います。筆者(草場さん)は浮立はできるわけではありませんが、子どもの頃より、なんべんとなく、 見ているし、聞いてもおります。部落の田植えがすみ、一休み頃になりますと、天満宮夏祭の奉納浮立の練習が始まり浮立の笛、太鼓、鐘の響きが聞こえてくると何か「ジーン」と迫ってくるものであります。この感じは少年のときも、青年のときも、老人になっても、今に変わらないのであります。これが郷愁というものだろうか。今は青少年問題が厳しい状態におかれております。(この文章は、草場さん自身の書「鳥海の歩み」から引用したものです)
鳥海青年団の郷土芸能の実績
昭和47年10月10日 全国青年祭出場 曲目銭太鼓 優秀賞
昭和52年11月12日 全国青年祭出場 曲目恵比須浮立 努力賞
昭和58年11月 6日 全国青年祭出場 曲目浮立―本綾 優秀賞

<戦争について>
話をお聞きした草場謙次さんは昭和11年に中国へ渡っておられ、1年で日本に帰国 する予定が、支那事変の為帰国はかなわず、北支から南支へ転戦することになりました。
草場さんが徴兵を受けたのは、大阪の工科の大学に行っておられた頃で、当時草場さんは 体格がよく、ラグビーをやっておられたとのこと。(そのころは同志社が強く、京都は弱かったらしい。)
昭和16年(1941)12月8日、海軍が真珠湾を攻撃するのと時を同じくして、陸軍 にいた草場さんはシンガポールにいる英国軍との戦闘に参加しました。
その上陸作戦の際に、背中(距離が離れていたため傷は比較的浅く、「ちかっ」としたらしい)と左大腿部に2発の銃弾を受け(2発とも弾は貫通)、意識が戻ったのは数日後 だったそうです。
昭和20年に帰国し、延べ9年間の歳月を戦争にとられた草場さんは僕等に「君らは生まれた時代がよかったぞ」と言っておられた。
何でも明るく明るく話す草場さんの話し方には不思議な魅力を感じた。
鳥海の歴史
鳥海の名の起こり
 鳥海において歴史上初めて鳥海に関係ある名が出たのが飛鳥時代(646年)聖徳太子の大化の改新の政治において条里性をしかれたときである。この制度を行うため、耕地の区画を整理する必要があり、全国に条里村が作られた。その中に「椿里」の名称が列記されています。
また、南北朝時代(1338年〜1391年)で山内町史より引用しますと、次のことが述べられています。
足利尊氏一族が西下す。当地方、九州は南朝方と北朝方の争乱が続いていました。足利尊氏の重臣今川了俊が松浦党と契約を結び、杵島へ打入り、白木塞に陣す。12月21日(1373年)「椿村」へ移る。同27日、後藤兵庫允光明が塚崎の庄である武雄などの二城を攻め合戦す。
よってこの時代までは鳥海は「椿村」といったと考えられます。
また鳥海は山間部にありながら海の名がついています。このことについて草場謙次さんは次のようなことを推測しています。
鳥海と同じく、武内町にも海正原という地名があります。海正原、鳥海の双方を推測するに、地理的状況はほぼ一致しています。水は高いところから低いところへ、また流れやすいところへと流れて自然に河川ができあがってくるでしょう。現在の河川は幾たびの改良によって出来上がったことと思われるところで、昔には洪水の場合は、海正原、鳥海は一面に海と化していたと考えられます。
また、鳥海には字地名として広林、轟木の地名があります。この地は鳥海平野のほぼ中央に位置していますが、これらは昔から呼んだ名がそのまま残っていると思われます。まだ開田をする前のことと思いますが、そのころにはこの地には数多くの獣や鳥がいたと思われます。これらのことが鳥海という名前に関係しているのではないでしょうか。
小字名の起こり
富海には現在次に挙げる47の小字名があります。
駄地山 宿田 亀ノ甲 小谷川内山 小谷川内 祭手山
小越 百合草野 古場田 上原 川良川内 前田
上駄地 下駄地 垣副 宮ノ後 黒土原 九郎原
大谷 栗林 館 辻 堀内 荒牧
樋の谷 寺ノ前 悟心庵 中原 小川内 鬼木田
片手山 笹ノ尾 大石 牛古場 猿古場 堤原
古子 明泉寺 大曲 引池 北田 坂口
七蓮和 広林 椿原 原田 原ノ前
(昭和47年、48年の圃場整備事業に伴い水田の小字名、宮ノ前、轟木、五庵田、元享庵は消滅した。)
 1687年(貞定4年)の文献の調査資料によりますと、鳥海に次の11の小字名が記せられています。
北村 駄地 黒土原 宿田 橋口川 小越
小川内 古子 椿原 館山 中原
現在と1687年を比較対照すると、現在の小字名の中に9つの小字名が入っております。
鎌倉時代の武士と百姓と題して山内町史に次のように述べられています。
当時の武士は農村で生活していた。武士は地頭や荘官として職につき、武士の館は村全体を見下ろせる高台、または重要な道路のある平地に設けられ、貧しい民家とは違い、広大な敷地とその周囲に、堀、土塁、垣根などと呼ばれていた、との記事があります。鳥海に館、堀内、垣副(根)という小字名がありますが、そのなごりではないかと思われます。
1577年 天正 5年:八幡宮の勧請
   唐津大川野城主因幡守鶴田信勝は知行領地全部を後藤貴明の養子家信(龍造 信の三男)に召し抱えられ家臣平山筑後守家近と共に天正5年武雄に来る。最知 180歩因幡守鶴田信勝は武神(応神天皇)である八幡宮を勧請す。
1584年 天正12年:天満宮の勧請
   平山兵部小輔克興(筑後守家近の子)が学問の神(菅公)である天満宮を尊敬 していたので菅原道真を祭神として八幡宮に合祈し天満宮と改め崇拝す。
1621年 元和 7年:天満宮を天神森より遷座
平山九郎左ヱ門常房(平山兵部の孫)は社殿を現在地の舘8430番地に造り天満 宮を遷座す。
1717年 享保 2年:寺院庵の荒廃
寺院庵は部落を挙げての進行の場であり、部落民の心の拠り所でまた教育・行 政の中心的役割の存在であって多くの寺院が建てられたと思われる。しかし長 い歳月のうちには荒廃を繰り返し、この時代鳥海部落には次に列記する寺院が 存在していたらしい。
長福寺、悟心庵、妙仙寺、瑞雲寺、元亨庵、明泉寺
1717年 享保 2年:悟心庵の開創
1771年 明和 8年:武雄領主の天満宮への献納
武雄領主鍋島十左ヱ門茂順公は知行 3石を与えられ家紋の使用を許され天満 宮社殿の登り口鴨居には鍋島家家紋の「抱き銀杏」が透かし彫りされている (1840 年献納)
武雄領内で武雄鍋島公家家紋の献納神社は武雄神社、黒髪神社、鳥海天満宮の 三社であります。
1790年 寛政 2年:筑後守の天満宮への献納
筑後守九郎左門は手水盆一台を献納す 現存
1801年 寛政13年:八天狗宮の勧請
鳥海村中より村一望に見える字前田9230−3番地に八天狗宮を奉斎す。南地区民 をもって奉斎管理し鳥海村中の五穀豊穣を祈願す。
1803年 享和 3年:加々良半兵衛が天満宮第二鳥居の献納
天満宮第二鳥居は30石を領とする加々良半兵衛が献納する。よって百石鳥居、30 石鳥居と伝えてきた。
1816年 文化13年:天満宮第一鳥居の献納
鶴田典善美欽は第一鳥居を献納す。その額字は能登守鍋島十郎左ヱ門茂明の 親書である。時の宮司は龍行院快順なり。
1831年 天保 2年:椿原で銃陣演練実施せらる
山内町史には次のように述べられている。
天保 2年(1831年)の秋、武雄領の演習場であった、山内町椿原で我が国はじめ て洋式銃陣の演習が行われた。その模様を見物しようと領内の全域から集まった観 衆は椿原の周辺を埋め尽くし、人垣で身動きもできなかったといわれている。
1837年 天保 8年:天満宮火災にかかる
天満宮火災にかかり、宝物並びに旧記録全部消滅したり。
1840年 天保11年:天満宮の再建新築
天保11年秋、御宝殿並びに拝殿落成す。
1.武雄領主従四位男爵鍋島十左エ門茂昌公は後紋章献納せらる(天満宮入口鴨居の「抱き銀杏」透かし彫り)
2.鶴田家より御内陳用として和蘭羅沙に鶴田家の紋章入幕一張を献納さる 現存
3.氏子中より白龍斎成治筆の大扁額を献納
1841年 天保12年:天満宮背後、鳥海川に飛び石の設置
敬神崇祖の念厚き篤志家、下四郎太夫は武内村、桃川、大川野方面より天満宮参拝 者の便を図るために神社北側の鳥海川に約13間にわたる飛び石を設置す。
注:天満宮の背後の町道は大正6年に完成し、これまでは、三間坂−相知線の 県道に出るには、天満宮背後の鳥海川の飛び石を渡り、水神社の西方の天 神森を通り、字北田、字坂口、字椿原に出て、水田武宅東側を通り三間坂 −相知線に出ていたのである。
昔は武内村、相知村に通ずる主要街道で昭和47年土地改良事業がなされる前まで はそのなごりが残っていたが、今はその跡形がなくなりました。
鳥海川の飛石はすぐ下流に散在し、見ることができる。
1844年 弘化 4年:鳥海に塾ひらく
馬場宝太夫は鳥海に塾を開くとの記録があるが、武士子弟の教育塾なるものか、百 姓、町人子弟の教育塾なるか、また場所はどこであったか不明である。
江戸時代、武雄領においての教育は、武士の子弟は身教館や私宅、百姓、町人の子 弟は、寺子屋、教師宅(医師や僧侶)
1858年 安政 5年:天満宮に狛犬の献納
三間坂村の下辰之助は、村内の赤痢病蔓延を押さえるに天満宮の神助にあずかった 礼として狛犬一対を献納す。最初は宝殿内に納められていたが、昭和15年天満宮 の改築に伴い、拝殿の外前に納められる。 現存
1868年 慶応 4年:奥羽戦争起こる 出陣者12名
1869年 明治 2年:鳥海原田井堰の大修繕
1870年 明治 3年:鳥海に江口俊二が塾を開く
江口俊二は鳥海出身、住居は字栗林8296番地(村岡熊次旧宅地)で鳥海村の開 業医者、はじめは私宅で百姓、町人の子弟の教育をしていたであろうが、鳥海庵校 舎の開校(明治9年)により初代の教師ではなかったかと思われる。
昭和18年頃まで鳥海の宿で開業医者であった江口良二の父なり。江口俊二は明治 31年1月20日、行年59歳で没す。
墓地は栗林にあり、子孫は在東京。
1871年 明治 4年:廃藩置県戸籍法制定
この時代武雄領は48ヶ村と唱えられたが、中通村は犬走村、踊瀬村、永尾村、鳥 海村、三間坂村、東梅野村の6村に分かれる。
1873年 明治 6年:県内を36大区に分かち、中通村は第22番大区6小区 に編入
1874年 明治 7年:大小区の区分変更
中通村の6村は第37大区6小区に編入せらる。
1874年 明治 7年:佐賀の乱起こる
山内町史によりますと、長崎に上陸した官軍が、三間坂村、鳥海村を通過する 際、村総代平山又一は炊き出しや宿割りの指揮を執るの記録あり。
1876年 明治 9年:鳥海庵校舎開校
鳥海村と犬走村が永尾と合併して鳥海校舎を開校す。
1877年 明治10年:鳥海校舎の火災
1878年 明治11年:鳥海小学校新築開校
区、在蔵の古書類によりますと、古長平山又一は、明治12年12月10日付をもっ て鳥海小学校焼失より再建料を村中より寄付をもらうための許可願書を時の群長坂 本に提出しております。
1883年 明治16年:長崎県より分離、佐賀県誕生

1889年 明治22年:大日本憲法公布、市町村制施行
鳥海村、犬走村、三間坂村(東梅野村を含む)3村合併
中通村誕生 3村は大字として残る。同時に鳥海区誕生
1891年 明治24年:天満宮へ備品献納
模写大扁額
天満宮境内全部の模写大扁額を氏子中より献納す。
1892年 明治25年:天満宮の昇格
明治25年12月23日村社としてさらに資格認可
1894年 明治27年:三鳥鳥海校合併、中通尋常小学校開校
1894年 明治27年:日清戦争始まる(27年〜28年)
鳥海従軍者6人
1895年 明治28年:水神社の建立
場所 字大曲鳥海川堤防
明治初年ころまでは農村の虫追い行事が行われていた。害虫によって稲の被害を受 けるのは、その背後に悪霊がいたからと考えられていた。それを追い出す行事であ った。
天満宮に勢揃いした区民の人たちは思い思いに竹や木で作った松明をもって小鐘の 「チッカンカン」という合図で「なむまいだ」と唱えながら行列を作って村内を歩 き回っていた。
その折に三間坂村民と喧嘩になり大騒動となった。当時の指揮者草場十兵工は警察 沙汰となり、これを受けて村中の責任をとって今の水神社横の鳥海川に入水自殺さ れた。村民はこれを痛み、村中をもって水神社を建立したのである。
1897年 明治30年:武雄−早岐寛の鉄道開通
前田八天狗山の下に駅ができる予定のところを、鳥海の者は、「駅ができれば泥棒 や浮浪者が増え、鳥海の者は遊びに出て仕事に手がつかぬ。」などと反対したそう です。今になって後悔先に立たずであります。
1900年 明治33年:天満宮の改築
菅公一千年の記念事業として、宝殿の修繕並びに拝殿の改築をなされる。古堂は前 の拝殿で移動したものです。
1904年 明治37年:椿原で中通小学校の運動会はじまる
年中2回の大運動会のうち、春の運動会はここで実施せらる。
山内町史には次のように述べられています。
武雄藩は全国各地に先んじて軍備の洋式化を図り、天保2年オランダより輸入した 火うち銃をもって蘭人教師の指導の下に発火訓練、洋式練兵を行った。
それ以来、明治初年まで歩砲連合の練習場として兵事訓練に使用され、練兵場とし ての機能を果たした明治の学制発布により各小学校が開校し、武雄地区小学校の運 動会が開催されるやこの地がその会場となり、大正の末年まで継続された馴染み深 い地なり、また大東亜戦争時は滑空訓練場にもなった。
云々と述べられております。
また、椿原は鳥海として戦後の食糧難の折の食料生産基地として欠かせない存在で もあった。
1904年 明治37年:日露戦争起こる(明治37年〜38年)
鳥海従軍者17名
1909年 明治42年:広滝発電所設置される。字鳥海9090番地
(八天狗山西側、堤鉄工所)
1912年 大正元年:鳥海入合林を一部町有林に編入
1914年 大正3年:日独戦争起こる(大正3〜4年)
鳥海従軍者12名
1914年 大正3年:鳥海夜学所を新築
1915年 大正 4年:広滝配電所踊瀬に移転
1917年 大正 4年:天満宮の背後町道創設
          手押し消防ポンプ購入
1920年 大正9年:鳥海に電灯ともる
1925年 大正14年:宿田眼鏡橋竣工
1926年 大正15年:字明泉寺堰の大修繕
1927年 昭和 2年:天満宮参道の拡張工事、桜の木植樹
1929年 昭和 4年:天神橋の竣工
1932年 昭和 7年:駄地橋の竣工
1933年 昭和 8年:鳥海第一次河川改良工事
1934年 昭和 9年:三間坂−相知線の県道、鳥海地区の改良工事
1937年 昭和12年:支那事変はじまる
1938年 昭和13年:天満宮背後の町道に通じる階段工事竣工
1940年 昭和15年:紀元2600年の記念事業として天満宮の改築
1941年 昭和16年:大東亜戦争突入
1944年 昭和19年:椿原滑空練習場建設はじまる
1945年 昭和20年:大東亜戦争終戦
1946年 昭和21年:戦後の食糧難で椿原原野開墾、食料増産
1946年 昭和21年:農地改革、小作料全納となる
1948年 昭和23年:大洪水起こる。山崩れ、地滑り、田畑埋没す。
1950年 昭和25年:天神橋水害により中央の「ピンヤ」破損のため大修繕
1952年 昭和27年:動力農業機械出現しかかる
1953年 昭和28年:大洪水おこる
1954年 昭和29年:山内村初代村長、鳥海出身、草場実雄就任
1957年 昭和32年:村内に有線放送設備ができる
1963年 昭和38年:鳥海に野外放送設備をなす
1964年 昭和39年:鳥海児童館の建設
1969年 昭和44年:椿原の区有原野売却
1970年 昭和45年:牛農耕より「トラクター」農耕に変わり始める
1970年 昭和45年:清本鉄工所椿原に進出す
1972年 昭和47年:入合林野整備事業、鳥海生産森林組合設立
(12月14日)
1972年 昭和47年:牛古場溜め池補修工事(昭和47年−50年)
1972年 昭和47年:鳥海全域圃場整備事業(昭和47年−48年)
北地区と南地区と天満宮背後の町道を境界とし2分して2ヶ月に 亘り施行
従前地面積 換地面積
北地区 348981u 322724u
南地区 299826u 274032u
1972年 昭和47年:鳥海全域圃場整備施行により下記の箇所の水田への揚 水ポンプ施設ができる
原田井堰、長の坪井堰、六反田井堰、上駄地井堰
1973年 昭和48年:分収林契約 昭和48年2月19日
場所 駄地9269−1番地 面積9.64ha
1973年 昭和48年:鳥海第2次河川改修工事
長の坪−垣副−宿田−堀内−明泉寺新井堰にファーリーダムの建 設、水田揚水施設
1974年 昭和49年:三間坂川、河川改良工事
岩井手−宮の後、岩井手水田揚水施設
1975年 昭和50年:分収林契約
昭和50年12月26日契約を昭和53年7月27日付変更締結
場所 字駄地の4筆、9271−4、9275−1、9275−2、9269−2 字小谷川内の1筆 9333−1
1976年 昭和51年:宿田橋、長の坪橋竣工
1977年 昭和52年:垣副橋竣工
1978年 昭和53年:上駄地橋竣工
1981年 昭和56年:鳥海運動広場完成、第一回区民運動会
1984年 昭和59年:消防小型ポンプ車の更新
1985年 昭和60年:四方殿開発事業、鳥海地区農免道路完成
1985年 昭和60年:早谷地区の圃場整備事業施行完了
従前地面積 44611u 換地面積 36742u
配分率 約82%
1985年 昭和60年:早谷川河川改良工事
字前田桑の原−字百合草野
井堰数4箇所ところ1箇所を取り除き百合草野井堰に水田揚水施 設をなす
1986年 昭和61年:八天狗宮の原野の開発
地形関係で植林不可能な原野で荒廃のため環境美化村作りのため 区民奉仕をもって桜の木とつつじを植樹す
1986年 昭和61年:山内バイパス鳥海地区完成、開通
1986年 昭和61年:鳥海のこの時代の戸数、人口、耕地面積
鳥海部落の姓別の戸数調査 (昭和60年3月1日、鳥海197戸)
草場35戸 山口34戸 木須13戸 平山13戸 下平12戸
稲田 8戸 松尾 8戸 大宅 5戸 水田 4戸 前田 4戸
福田 3戸 岩永 3戸 上田 3戸 田渕 3戸 富岡 3戸
野田 2戸 姓一戸の数44戸

現地調査当日の日程 (おおよその時間です)
午前9時30分 自転車で博多駅へ向かう
午前10時 博多駅から特急で出発
午前10時30分 鳥栖駅へ到着
午前11時10分 鳥栖駅を出発
午前11時45分 肥前山口駅へ到着
午前11時50分 昼食をとる
午後 0時20分 肥前山口駅を出発
午後 0時45分 三間坂駅へ到着
午後 0時50分 徒歩で草場 強さん宅へ向かう
午後 1時15分 草場さん宅へ到着
午後 1時50分 草場 謙次さん宅へ到着、昔の話を聞く
午後 4時20分 草場 強さんの車に乗り、ため池や鳥海天満宮などを現地調査する
午後 5時10分 車で三間坂駅まで送ってもらう
午後 5時40分 三間坂駅を出発
午後 8時 博多駅へ到着