〇村の水利 水田にかかる水は樋ノ谷(ヒノタニ)池、後山(アトヤマ)池から引水していた。また、 山からの出水でも用水を賄うことができた。ため池の数は豊富であり、至る所に存在するので、それぞれの部落にそれぞれの用水があり、水のことでけんかになることはなかったそうだ。ため池の水は川下へ流れていき、たくさんの水田に分配されるそうだ。 しかし、明治時代の頃は水田が段々であったため、高い所に水田を持つ者が水を溜め、下の水田に順番に水を流していた。そのために、平等に水がそれぞれの水田に行き渡るように目を光らせる水番と呼ばれるものがいたそうだ。それでも、旱魃があったときには、夜中にこっそり自分の水田にだけ水を引く輩がおり、そのような者が他の家の人と運悪くはちあわせると、水げんかとなっていたそうである。 1994年の大旱魃の時は、7月いっぱい、水があったので、その水でなんとかまにあったそうである。しかし、畑作は全滅だったそうである。生活用水は、一日に4時間ほど水道の水が使えたらしく、それを溜めて使っていたそうである。山かげあたりの水田では、旱魃のときでも豊作であるようだ。 昔は旱魃のときは川底を掘って水を取り出して賄っていたそうだ。ちなみに、旱魃のひどい年を干年(ヒドシ)と呼ぶそうだ。 昭和23年の時、木の伐採のし過ぎが原因で水害がひどかったらしい。それで植林したそうだ。水害は水田をぐちゃぐちゃにし、堤防を破壊したそうだ。 現在、川は矯正されて真っ直ぐになているが、昔はくねくね曲がった川が多く、増水したときなどによく川が氾濫し、住宅地がよく水浸しになっていたようだ。しかし、火事のときは、水流の悪さのために川に水が溜まるため、防火用水として役立った。 現在、ポンプを使って水を水田に引き上げているそうだが、ポンプに使われる電気代は3ヶ月だけで60万もかかるそうだ。その代金は区費を集めて賄っているそうだ。高度経済成長期につくられたらしい。 地図上に堀内(ホレウチ)という地名があるが、ここは水の引きやすい場所であり、昔はこの場所で、どの家も一緒に、苗をつくっていた。 〇村の範囲 鳥海川によって鳥海北と鳥海南が分けられている。 〇村の耕地 川周辺の水田が特によく米が収穫できたそうだ。もっとも、ほとんどの水田が川沿いに位置しているのだが。また、収穫できる米の量によって、各家は収穫量のランク分けがあったようだ。 戦前は、動物(牛、馬)の糞を発酵させたたい肥をつくって肥料として撒いていたそうだ。あるいは人糞を発酵させた肥料を畑に撒いてつかっていたらしい。人糞を畑に撒く際は、その臭いがひどいため、他人に迷惑がかからないように他人がまだ寝静まっている早朝(午前4時あるいは5時頃)に起きて撒いていたらしい。それがルールだったようだ。 化学肥料が導入された後では、品種改良も手伝って、収穫量は導入前の倍は増えたそうだ。 農業試験場からのお達しで、苗をばら撒いて植える方法をとっていた時期が2年ほどあったそうだ。この方法では、苗が均一ではなくランダムにあちこち好き勝手に根ずくため、収穫のときにひどく労力がかかって効率が悪いので中止になったようだ。 〇村の発達 明治時代の後半くらいにはもう電気はとおっていたそうだ。プロパンガスはだいたい昭和39年ぐらい(下平さんははっきりとは思い出せないようだった)に導入されたそうだ。それ以前は、言うまでもなく薪をつかっていた。また、おが屑をつかって、いったん起こした火を保っていたそうだ。 戦後はとてつもなくひどい生活だったようで、周知のとおり食べるものが殆どなく、毎日食うや食わずで、腹が減っている状態が通常の状態だったようだ。特に、ノブエ夫人が幼い頃は、兄弟が多かったので、兄弟の末のほうは食べ物にありつくことが困難で、いつも泣いていたそうだ。しかしそのような状態も、わずか5,6年ほどで盛り返して、みんな誰もが飯にありつける時がきたようだ。 〇村の生活に必要な土地 共有林に関しては、鳥海部落の区有林と山内町の町有林があり、ため池(後山池、早谷池、小谷(コタンゴ)池、布田(ノンダ)池など)の周辺に、ちらほらと区有林あるいは町有林が存在する。植林が行われた当時は、住人たちは無報酬で、造林のための雑草刈りに駆り出されたそうだ。 〇米の保存 現在、米は必ずしも農協に出す必要はないようだ。しかし、個人で米を売るよりも、農協に出したほうがよく米がはけるらしく、今でも農協に米を出しているそうだ。 さて、米を農協に出す以前の時代は、青田売りというのはなく米商売人という人がいて、小作人→地主→米商売人 というルートで米は取り引きされ、米商売人は自分で勝手に米の値段を決めることが出来たらしく、当時はかなり儲かっていたらしい。現在は政府が米の値段を決めているようだ。また、戦後直後は政府が米を買い取っていたそうだ。 家族で食べる飯米は保有米と呼ばれていた。保有米以外の米は政府に売っていたそうだ。当時(保有米という呼び名が使われていた当時)は一人当たり一年に一俵の米を食べていたそうだ。 保存方法に関しては、米やその他の雑穀をかめに入れて保存していたそうだ。種籾の保存方法は、ワラで編んだ俵(カマギと呼ばれた)に種籾を入れて、ねずみに食われないように上から吊るし上げて保存していたそうだ。 今は苗を専門に作っている会社があるらしい。 50年前:食事における米・麦の割合は、麦が殆どで米は僅かだったそうだ。当時の一般的な考え方として、米の使い方は、その大半を売ってお金に替え、それを貯え、食べる分は粗食にするというのが当たり前だった。貯えたお金は、魚や塩鯨、その他大きな買い物をするときに使われたそうだ。ちなみに当時の男と女に関する一般的な考え方について話すと、男はこつこつ働いて家を作るものであり、女は子供を作るものであるというものがあったそうだ。 〇村の動物 牛が家畜として飼われていた。この辺(鳥海)に馬はいなかった。各家に一頭牛がいて、雄を買うか雌を飼うかは家によってまちまちだった。雄を買うか雌を飼うかは、その家の人の性格に依存していたようだ。つまり、性格の荒い人が多い家庭では気性の荒い雄牛を飼いならし、比較的温厚な人が多い家庭では雌牛を飼ったみたいだ。牛は主に労働力として使うために、あるいはたい肥の供給源として飼われていたが、雌牛は子供生むため、その子供を売って生計を立てる生産業としても使えた。 博労(バクリョウ、バクリュウ)はいた。別に口が上手いというわけではなかったようだ。それよりも調教師としての性格のほうが色濃かったようだ。彼らの仕事は、もちろん牛や馬の取引の仲介もやっていたが、牛や馬が農作業に使い物になるように子供のときから調教することだったそうだ。 〇村の道 大きな道(国道)をオオカンと呼んでいた以外は、道に特別な呼び名はなっかったようだ。日本人は、元来、諸外国に比べると、道に対する関心が薄い。 古い道は、荷物や薪が車力(シャリキ;木と鉄で出来ている)やリアカーなどで運ばれてきていた。 伊万里から行商人が、徒歩か自転車に乗って、一年に二回、五日市または供日(クンチ)と呼ばれる市場が開かれるときにやって来ていた。彼らの殆どが徒歩で4,5時間かけてやって来て、塩サバ、塩鰯、いりこ、塩鯨などを売っていたそうだ。 当時、魚は現在の値よりも安価であったそうだが、買う以外に、川魚をよく捕まえて食べていたそうだ。 国道は昔から存在したらしいが、もともとその周辺に家は5件ほどしかなかったそうだ。 〇村の祭り 鳥海天満宮で夏祭が行われていた。また、お米がたくさん収穫できれば、11月にニワアゲと呼ばれる祭りがあった。祭りには部落全体で参加して、飲んだり食べたりしていたそうだ。 田植えの後に今でもさぶりな祭りと呼ばれる祭りが行われている。もっとも今の祭りの目的は、商業目的のようだが...。 〇昔の若者 昔の若者はやはり働いてばっかりだったそうだ。娯楽と言えば、祭りのときに踊りやその他の芸を練習して披露することだったそうだ。また、よその部落の祭りに行ったりして楽しんでいたそうだ。よその部落の祭りへ行くのにはもう一つ別の目的があって、それは好きな人、つまり結婚相手を見つけることだったみたいだ。しかし当時は、今のようには恋愛に自由がなく、ごく少数のものしか恋愛結婚は出来なかった。しかも、もし恋愛結婚が出来たとしても、それは世間一般に認められたものではなく、殆ど駆け落ち同然で、男が女を強引に連れ去っていくようなものだったそうだ。結婚は殆ど親同士で勝手に決められていた。 夜は、鉄工所に勤めている少数のものを除いては、男子は比較的自由だったみたいだ。しかし、青年男子は結婚するまでは、自分の家で床を構えて寝ることは出来ず、鉄工所で働いているもの以外は全員青年倶楽部という場所に集まって、青年団の夜学で遊んでいた。そこでみんなは結婚するまで、パンツ一丁で一緒にござ寝していた。青年倶楽部は、いわば精神修行をするようなところで、先輩後輩の上下関係があり、そこで一種の社会勉強をしていたようだ。そこで性教育も行われていた。当時は勿論エロ本などなかったので、先輩たちからいろいろ教えてもらっていたようだ。 祭りのときによその村の若者が酒(焼酎)を持って来ることもあったそうだ。ところで、当時は月に2,3回しか酒が飲めなかったので、酒を飲むとなると大量に飲んでいたそうだ。殆どの人がとても酒癖が悪く、よくけんかをしていたみたいだ。 〇村のこれから 兼業農家ばかりなので発展の見込みはなさそうであるとのことだ。過疎化の一途を辿っているようだ。 〇しこ名、その他 しこ名ははなく、小字でそのまま呼び合っていたそうだ。池の名もすべて地図上のものと同一(但し読み方が多少異なるが)。 宮の前と宮の後の間に八幡(ハチマン)という神社があったらしい。 圃場整備前は、まっすぐな道は少なく、殆どの道はぐにゃぐにゃしていた。川も昔はぐにゃぐにゃしていたが、今は矯正されて真っ直ぐになっている。 圃場整備によって、水田は几帳面に均等の大きさに、あぜ道によって分割されている。 昔はいいときで米の値段が60キログラム2万円ぐらいだったが、今は年々価格が減少している。 訪問させていただいたお宅: 下平 国瑞さん 昭和10年9月16日生まれ 下平 ノブエさん 昭和9年4月14日生まれ |