船ノ原下におけるしこ名、及びその他の調査結果
平成11年度前期 水曜4限 「歴史の認識」 1999.7.20
調査場所 佐賀県きしま杵島郡山内町大字とのみ鳥海字ふねのはら船ノ原船ノ原下
調査日 1999年7月11日
調査員
小牧陽子 1md98034
本村良知 1md98091
森 桂 1md98092
調査に協力してくださった方々
橋口茂行さん 樋渡貞夫さん 樋渡富雄さん
調査行程
9:30 六本松出発 バスで佐賀へ
11:05 三間坂駅周辺でバス下車
11:20 橋口茂行さんのお宅を訪問
11:45 樋渡貞夫さんのお宅を訪問
樋渡富雄さんのお話をうかがったり、「かんこ踊り」のビデオを見せてもらった
14:00 調査終了
16:25 バス乗車 福岡へ
山内町について
佐賀県の南西部、杵島郡の最西端にあり、武雄市を挟んで飛地をなす.。南西部の一部はじんろく神六
山(447m)を境に長崎県の東そのぎ彼杵郡はさみ波佐見町に接する。町の80%は標高100m以上の高地で周
囲は神六山のほかせいら青螺山(592m)、黒髪山(518m)などの山々に囲まれた盆地である。山内の地名も、その地勢から起こったものである。農耕地の割合は総面積の30%に過ぎない。40%が山林と原野である。 一帯は松浦川の最上部にあたり、黒髪山に源を発する網ノ内川、神六山に源を
発するかりたて狩立川、みまさか三間坂川、鳥海川などが武雄市武内町で合流して松浦川となり玄海灘に注ぐ。地質的には第三紀層に属し、かつて海面下に没したこともあるといわれ、海成陸成の砂岩や頁岩
からなる地層が堆積しており、北西及び南東部の一部に玄武岩を見ることができる。
1889年(明治22)4月1日、町村制の施行により中通村(現山内町いぬばしり犬走、鳥海、三間坂)
と住吉村(現山内町宮野・大野)が成立。1954年(昭和29)4月1日、中通村と住吉村が合併
して山内町が誕生した。1955年武雄市武内町うすのこうち臼川内部落を編入。1960年9月1日、町制を
施行した。総面積は40.76平方km、1982年末の人口は初めて1万人を突破し1万40人な
った。世帯数も2368に増加。町の基幹産業は農業で米のほかみかん・茶・しょうが栽培などの
複合経営が行われており、特にしょうがの出荷額は米に次いで第二位である。南部の神六山頂
の上戸は第二時大戦後、農家の開拓事業によって茶園が造成され、嬉野町に次いで茶の特産地
となっている。また鳥海川流域の永尾・鳥海盆地は米作の中心地である。隣接の有田町の重要な
労働力供給地でもあり、西部一帯には、有田焼の陶磁器工場や個人経営による窯元が幾つか立
地し、相当数が焼き物関係に就労している。
・杵島郡山内町 行政区画変遷、石高一覧
宮 野 村 514・270 立野川内村 274・360 大 野 村 300・351 下黒髪村 144・169 三間坂村 469・593 鳥 海 村 374・497 船 原 村 367・098 犬 走 村 448・274 永 尾 村 251・275 肥前国佐嘉領村々目録 (一七八七) 町村名 石高
宮 野 村 514・270 立野川内村 420・500 大 野 村 440・906 下黒髪村 237・779 三間坂村 740・086 鳥 海 村 580・658 船 原 村 542・164 犬 走 村 665・512 永 尾 村 408・957 天保郷帳 (一八三四) 町村名 石高
犬 走 村 鳥 海 村 三間坂村 大 野 村 宮 野 村 地方行政区画便覧 (一八八六) 町村名
中 通 村 武 内 村 住 吉 村 市町村制施行 による町村名 (一八八九
山 内 町 現在 (一九八〇) 町名ないし字名
宮 野 大 野 三間坂 鳥 海 犬 走
石高を見ると,船原村は,小規模な村だったことがわかる。現山内町の村村も,他の肥前国の村に比べると,小さい。(他では千石を越える村が幾つもあった)
船ノ原について
現山内町の南西部、神六山の西の中腹から麓にかけて緩傾斜一帯に位置する。地名の由来は地形が船形に似ていることから起こったものと思われる。弘安4年(1281)8月10日付の肥前国守護北条時定書下(松浦山代文書)に合戦参加御家人6名の名があり、「船原三郎」の名が、永徳4年(1384)2月23日付松浦党一揆契諾状に「ふねのはら長門守茂」の名が見える。(松浦山代文書)船原三郎は松浦党一族で船ノ原村を領していたらしい。かれらは、玄海灘湾沿いにある福島を足場に、大陸との交易を行っていたと,樋渡富雄さんが話してくださった。
この村の神六山の北面は頂上近くまで山地棚田に開墾されている。この開田が行われたのはいつ頃か不明であるが、平安時代は長島庄に所属。この庄園は平安時代に蓮華王院領として成立したもので,庄域は広く、照応5年(1292)の「惣田数注文」(河上神社文書)によれば「1517丁」で,佐賀県内では神埼庄に次いで2番目の広さである。蓮華王院は後白河上皇の発願によって平清盛が造営しており、同院のできたのは長寛2年(1164)12月であるからこの時代に成立したものかと考えられる。蓮華王院領であった当時は長島庄には荘官として惣執行職が置かれた。惣地頭に嘉禎3年(1237)に鎌倉幕府が任命した荘地頭は橘薩摩工業であった。
室町時代初めには塚崎庄に加えられていた。この荘園は,長島庄「つかざき墓崎村」の小地頭後藤氏が,長島庄の荘地頭橘薩摩氏の衰退によって勢力を伸張し,、鎌倉時代の末期に成立した荘園である。初代章明は前九年の役(1051~62)の功労により,肥前国「塚崎庄」を賜ったが,内舎人に昇進したため塚崎に来ることができず、二代資茂が仁平年間(1151~54)来着したという。後藤氏というのは藤原家の子孫という話をうかがった。肥後の「後」と藤原の「藤」が,「後藤」という名につながっている。また大字の「トノミ」という名は,平泉にもあるという。
「駅前通の南は京都の寺社が、北は侍が支配」と話されていたが,この寺社が蓮華王院のことを指し、侍というのが後藤氏を指していたのだろう。侍の話で,上士の「オオタドウカン」なる名が出てきたが、詳細まで理解できなかった。
江戸時代には佐賀藩武雄領で,水田識に対しても年貢を納めさせている。船ノ原下には「前田」という小字、しこ名があったが、この村が武雄藩,大村藩との境にあるため関所が設けられ、「関所の前の田」という意味でつけられた,と話された。
寺院には真言宗黒髪山大智院密寺の末寺理智院・宝重寺・東福寺がある。この寺院は弘法大師が大陸に渡るとき,安全を祈願したことが真言宗の起因らしい。従って船ノ原下の方々は真言宗が多いと話されていた。神社には船ノ原鎮守神社がある。この神社では毎年秋祭りには,「かんこ踊り」と「浮立」が奉納される。
小字・しこ名
小字:前田
しこ名(カタカナ) (漢字)
田 タッチュウ 立中
コウバタ 河端
トオリヤマ 通り山
トウハラ 唐原
クルマヤ 車屋 水車小屋の跡があった
山 サルボウ/サーボウ 猿坊
クビノコエ 首の越
シマメグリ 島巡り
谷 ジゴクダニ 地獄谷
ギナンダニ 銀杏谷
ハンベダニ
川 ミマサカガワ 三間坂川 神六山に源流を持ち,豊富に水がある。神六山は 四海山とも言われ、玄海灘,有明湾,大村湾,伊万 里湾へ神六山からの水が流れる。
コボウズイデ 小坊主井出
道 ハサミミチ 波佐見道 長崎県波佐見山へ続く道
ウドノサカ
チョウケアミチ
橋 ゲンシンイデ 源シン井出
コウバタバシ 河端橋 昔は眼鏡橋と呼ばれた。眼鏡橋は波佐見道の先に もう一つある。
社 チッサン 鎮守神社
テンジンサン 天神さん
前田以外
しこ名(カタカタ) (漢字)
田 サンタダ
ヤーコウ 矢倉
ノバヤシ 野林
ニシノマ
ツツミダ
ウシロガワチ
クロボウ
ナガタ
タイタン
「かんこ(神子)踊り」について
船ノ原には,無形民俗文化財「かんこ踊り」が存在する。日形・月形紋様のある烏帽子をつけ袖長の短い絵衣服を着用し、足袋わらじ、脚絆がけで腰には小刀を差して男子が数人で踊る。非常にゆっくりした踊りであった。起源は,壇ノ浦の合戦で破れた平氏の残党,平維盛の子,六之助をはじめとする一団が入り込み、時の塚崎領主後藤常明が,久間村(現藤津郡塩田町)に知行地を与えたという伝承がある。この平家の落ち人が船ノ原地方に隠れ、京都を忍びつつ徒然なるままに平家家風の手踊りを踊られたのが「かんこ踊り」である。今では毎年土地の鎮守の神に、雨乞い祈願、豊作祈願や予祝に奉納され,代々若者に伝えられている。
1~8番があるが,ここに1番と6番を載せる。
1.(言葉) あなたの垣の ひょくり ひょんないろ
こなたの垣の ひょくり ひょんないろ 瓢箪ぶい
「ホイ」(腰をたたいて歌い出す。)
(歌) 明日はこん田の いで草そろえ 三日月なりの かもがも二つ
君諸共に草を刈る へや草を刈る へやかんこかんこ こうかんこ
ちょーちょーからから うんどう しゃっきりしゃ えんええんのえ
6. (言葉) 京から下る小山法師 さーえ 肩に唐傘 お手に数珠
腰に法螺貝 袂に鯉の玉ずさ 御客僧受け給う
「ホイ」
(歌) 柴垣ごしに物語しょ
「立中さん」について
村人が「立中(塔頭)さん」と呼ぶ大小二基の五輪塔が田圃の中にある。大きな方は「天正18年(1580),銀室妙金大姉」の刻字がある。銀室妙金大姉は塚崎領主18代後藤純明の室で、島原(大村藩)の有馬晴純の妹である。天文22年(1553)夫純明が死去したのち,この地に庵を建てて住み、仏道三昧の生活を送っていたが、天正18年(1590)死去。遺体は純明の墓地に葬られたが、庵のあった所に供養のため五輪塔を建てたもので,小さい方の五輪塔は侍女の供養塔である。
塚崎後藤氏と島原の有馬氏は互いに勢力を争っていたが、その後和を結び、純明は晴純の妹を50人の家来と共に妻に迎えたという。
昔の生活 その他について
周りを山々に囲まれた盆地だからだかろうか、船ノ原での言葉は佐賀、武雄、長崎(大村藩)とは全く違うらしい。またこの山々を利用して草切り場を作り、早くから酪農に取り組み始めた。これらは個人の土地であった。共同の地は、奥の山にあったという。切り野(焼畑)は根付かなかった。
塩や魚は伊万里,平戸から運ばれてきた。電気は昭和?年に永尾の駅に変電所が取り付けられた。
16歳ぐらいになると若者は汽車で有田まで出稼ぎにいっていた。戦時中は特に盛んだったという。
また若者は,青年仲間,クラブのような集まりがあり、一つ所に皆で泊まり部落の作法を学んでいた。
祭りについて
田祈祷の祭りが1年に4回(春夏秋冬)あったが,現在夏祭りと秋祭りが青年団によって行われている。夏祭りには「ふりゅう浮立」踊りが行われる。これは武雄鍋島藩の参勤交代の帰途踊られたものらしい。秋祭りには「かんこ踊り」が行われる。冬祭りでは,相撲の神様に対して祭りをしていたという。
参考文献:佐賀県の地名(平凡社)
佐賀県大百科事典佐賀新聞社(佐賀新聞社)
角川日本地名大辞典・佐賀県(角川)
http://www2.saganet.ne.jp/jlvmskoi (樋渡貞夫さんのホームページ)