歴史の認識 現地調査レポート 農学部 S2−27 1AG98232W 森田 裕資 農学部 S2−27 1AG98251Y 余村 泰樹 調査年月日 1999年 7月 11日 調査地 佐賀県杵島郡山内町立野川内(タテノカワチ) 山下地区 今回の現地調査では、二人の年配の方に話しを聞くことができた。シコ名については、御二人とも覚えていることが少なく、まとまった情報は得られなかったが、昔の現地の生活についてなど興味深い話しを聞くことができたのでそれらを中心にレポートする。 ○ 田代 マツエ さん 明治41年 6月 5日 生まれ 91歳 のお話から 水について 立野川内を流れるカリタテ川(狩立川)は、松浦川の上流にあたり、昔はこの水を主に、 風呂水、農作業などに使っていた。それぞれの家は、庭に井戸を掘り井戸水を生活用水として使っていた。五年前の大干ばつの際は、その井戸水も枯れるほどであったが、それ以外は枯れたことがないほど、水の豊かなところであるらしい。そのため、田畑の水をめぐる争いは、小さいものはあったものの、大きなものはなく、飲み水に関しての争いも、なかったらしい。 現在は町水が普及している。町水は、十年以上前に、イヌバシリ(犬走)、ミズオ(水尾)などの、町の所有のダムから配管されている。 農耕について 山下地区を含め、立野川内一帯は山間部のため、棚田が多く、水田が数多く見られた。 話によると、稲の品種は変わったものの、以前からも水田が多かったという。 戦争の前は馬を使って耕したりしていたそうだが、戦争が始まると、農作業の中心が女性に変わったことから、牛に変わり、馬を使うことが多くなったそうだ。牛は、一軒に一頭というのが普通で、メス牛が多かったらしい。 米の保存について 米の保存は季節によって異なる。夏はモミ蔵に保存し、冬は缶に入れて保存する。夏は米の上にモミガラをかぶせて保存するそうだ。この保存方法を、このあたりの方言でスイノカと言うらしい。また、猫を飼うなどしてねずみにも対処した。 山の所有について このあたりの山は個人の所有が多いらしい。昔は、風呂焚きなどに山の薪をつかっていたらしく、山を持っていない人は、所有者と相談することで山に入り薪をもらい、また、山の所有者は、山の中の掃除になるので薪を取りに山へ入ることを許したという。余った薪は馬で有田まで売りに行った。有田では焼き物のため煙のよく出る松の木が高く売れ、その外の雑木は炭にしたらしい。 祭りについて 祭りはすぐ近くの観音堂で行われる。昔は青年団が踊りや狂言などをやったそうだが、現在は青年団がなくなって祭りの回数も少なくなったという。また、近くの八幡神社でも、田植えの後、収穫の後などに祭りが行われるそうだ。 昔の生活について 昔は近くに、松浦、小城、多久などといった、炭坑があったため、そこで使うような草履やわらじを作って、家計の支えにしていた。男性は有田まで歩いて焼き物の仕事をしに行ったりもした。有田までは昔から今の国道が大きな通りとしてあったためそれらが主に荷物の運送用としても使われた。 食生活に関しては麦ご飯が多く、ごぼうめしや、寿司といったものはごちそうであった。 肉はほとんど食べることはなく、魚も川で釣ってきた魚などで海のものはたまにではあるが、 鯨を売りにくることがあったそうだ。 電気について 電気が田代さんの家に来たのは田代さんがまだ、学生のときのことで、大正時代の終わり頃だそうだ。電気が田代さんの家に来る日は、うれしくて学校から飛ぶようにして帰ったと話してくれた。 ○田代 酉馬(トリマ) さん 大正8年 3月 15日 生まれ 81歳 のお話から 酉馬さんは若いころシコナについて調べてまわったがそのころですらすでにわからないことが多かったそうだ。酉馬さんの話からは、若いころから農業試験場の技術員として働いていたため、農業の話を多く聞くことができた。 この地域は、兼業農家がほとんどで、主に米を主力としているそうだ。これは、試験場でいろいろ試した結果あまり園芸関係の向かないことがわかったためだという。この地方の農業は気温の低さから平野部よりも10日以上生育が遅れる。そのため、酉馬さんは、かつて裏の山でやっていたみかんの栽培を(昭和34年頃〜55年頃まで)その気温の低さによる霜に悩まされた結果やめてしまったそうだ。 平野部の農業が大規模なのに対し、山間部の農業はさほど大きくなく、平野部ならポンプを使って水をくみ上げるが、この地域は、トウシコ(通し溝)、イデといったものを使って田んぼに水を引き込んでいたようだ。そのような状況のため大きな機械を非違と角の羽化で持つといったことがなかったらしく、共同でモミすり機をもっていたそうだ。 シコ名について シコ名については酉馬さんからいくつか聞く事ができた。 立野川内 小字 シラタケ(白岳) ツジ(辻)、コバタ(小畑) ヤマシタ(山下) ヒエダ(稗田)、ヤマシタ(山下) ホリノウチ(堀ノ内) オオノ(大野) オオマガリ(大曲)、ヤマテ(山手) ヘンダ(辺田) ミヤノモト(宮ノ元)、オトミヤ(乙宮) タテハタ(立畑) ※このうち乙宮の範囲ははっきりしていなく、酉馬さんの話では天満宮の南から立野川内分校のあたりまでを乙宮といったらしい。 井手について 井手についてはその名前はよく分からないが、井手の水の及ぶ範囲を少し聞く事ができた。 井手の位置 水の及ぶ範囲 分校の前あたり 山下、堀ノ内一帯 蛇神橋と乙宮橋の間 乙宮一帯(狩立川の南側) 横畠橋付近 立畑、乙宮、宮ノ元 横畠橋の井手はイッショウイデ(一行井手)と呼ばれていたらしい。 今回の調査を終えて 以上が今回の実地調査のまとめである。今回のところは、話を聞く事ができたマツエさんや酉馬さんですら、シコナを知らないという事が多かったが昔の話についてはたくさん興味深い事を聞く事ができたのでそれはとても良い収穫であったと思う。 レポート作成者 農学部 S2−27 1AG98232W 森田 裕資 農学部 S2−27 1AG98251Y 余村 泰樹 田代喜孝様 マツエ様 先日は私どもの調査にご協力していただき、ありがとうございました。先日聞かせていただいたお話をもとにようやくレポートを書き上げる事ができましたので同封いたします。皆様にお見せできるような立派なものではありませんが、よろしかったらご一読下さい。 九州大学農学部2年 森田 裕資 |