山口

        コア教養科目 歴史の認識(水曜4限 服部教官) 現地調査レポート

 調査日時:平成11年7月11日  調査地:佐賀県山内町立野川内山口
 調査した学生:吉岡 愛 (1LA98263M)
永田 依里 (1AG98161S)
行動計画:12:30-15:00 都知木さん宅にて、都知木さん、大宅さんに話を聞く。
15:00-15:30 森さん宅にて話を聞く。

 
 調査にご協力いただいた方のお名前:大宅 千万亀さん(大正9年10月24日生)
                  森 一夫さん(大正12年生)
 
 *しこ名一覧*
  村名  場の種類   小字           しこ名        
      
  山口    田  山口    ナカオ(中尾) イデ(井手) トチギ(都知木) ヒサベ(久
                   部) イグチ(井口) ミヤザキ(宮崎) ナカヤマ(中山)
                   ナカハラ(中原) ヨシオカ(吉岡) ナガタ(永田) マツオ
                  (松尾)
        畑    横畑    タシロ(田代) ミヤザキ(宮崎) ナカハラ(中原) ノガタ
                  (野方) イデ(井手) ナカヤマ(中山) クサバ(草場)
                   ナガタ(永田) ヤマグチ(山口) マツオ(松尾) サカイ
                  (坂井)
             立畑    ヤマグチ(山口) ナカヤマ(中山) ナガタ(永田) サカイ
                  (坂井)
       しいど(水路)     イデノカワ(井手ノ川の水路) ジャガミスイロ(蛇神水路)
       
        橋          ジャガミバシ(蛇神橋)

  その他   田    館     フクシマ(福島) イデ(井手) モリヤマ(森山) ナカオ
                  (中尾) ヤマグチ(山口) カワグチ(川口) マツオ(松尾)

 *村の水利*
  使用している用水名:井手ノ川の水路 蛇神水路(自然の流れを重視している)
  用水源:木登池 日峯池(トンネルでつなげている。実用化はもう少し先だろう、とのこと)
  昔の配水の慣行、約束事:特にこれといった約束事は無かったが、何か問題が起こったときにそのつど
              お互いの話し合いで解決した。
  昔の水争いの有無:旱魃などの場合には争いがあることもあったようだが、ほとんどの場合話し合いで
           解決した。
  特別水利に強い村の有無:特に水利に強い村は無かった。水については、なるべく皆に平等に回るよう
              に溜池に村の人達が交代で番をして(番人)、水の量を調整していた。
  川について:農業用水の多くを川の水でまかなっており、特に旱魃の年は使う量の方が多くて、昼間の
        うちに川が枯れてしまう。夜に他の溜池などから水が流れ込んできて、翌朝には川の方に
        も少し溜まっている、という繰り返しであった。

 *5年前(1994年)の大旱魃について
  どのような方法で水をまかなったか:[生活] 生活用水(飲料水等)は自衛隊からの給水があり、それを
                   利用した。
                   [農業] 雨が降らないため川の水が急激に減り、農業用水にも限
                   界が出てきた。そこで田を優先して水をひいたため、枯渇してし
                   まう畑もあった。田にひく水は話し合いによって皆平等に分配し
                   た。川の水だけでは足りないような場合には、井戸のある家から
                   井戸水をわけてもらったりした。田に優先的に水をひいたが、ど
                   うしても水路、川から遠い田には水が届かず、だめになった田も
                   あった。川の近くの田を持つ人達は、何とか自力で水をひこうと
                   した。この旱魃をきっかけとして、ダム建設計画が持ち上がり、
                   現在建設中である。このダム建設計画はこの旱魃があったから実
                   行に移されたのであり、今だったら実行に移されていなかっただ
                   ろう。
  水対策:上でも述べたように、飲料水等の生活用水は自衛隊からの給水でまかなった。それでも水の量
      が少ないために、風呂の残り湯で洗濯をするなどの水の節約に努めた。(洗車するなどもって
      のほかだった。)
  時間給水について:そのまま時間給水と呼ばれていた。時間帯は皆が家にいる夕方で2時間程度だった。
           その時間帯で水を溜め、一日の生活用水にした。
  もし、50年前に同じようなことが起こっていたら:今のように水路や河川がきちんと整備されているわ
                         けではなかったから(基盤整備がなされていなかっ
                         たから)、被害は更に大きなものになっていたと考
                         えられる。 
 *村について*
  圃場整備以来、米がよくとれる又はあまりとれない田の有無とその理由:
    以前は川から遠く水があまりこない場所であまりとれなかった。また川の整備がなされていなかっ
   たために、堤防の低い所は大雨の時に洪水で苗や稲が流されるなどの被害もあった。他には、土質の
   違いも米の出来を左右した。現在は堤防をかさ上げするなど川の整備がなされているため、大雨のた
   め水害を被ることは少なくなった。また、土質が悪い所には他から質の良い土を持ってくるなどして
   土壌を整えているので、全体で平均して米がとれるようになった。
  化学肥料が入る前:米の出来が田によって差があった。
  化学肥料が入ったあと:普及事務所の指導で化学肥料が使われるようになった。土作りのための元肥、
             その後追加して与える追肥など、その時期に応じて肥料を与える。米の量は化
             学肥料を使っていなかった頃と比べて増加している。また肥料は農協に予約し
             て買うことになっているが、その種類は様々で、田によって異なる。
  戦前の肥料:まず第一に戦前の肥料としてあげられるのが山肥(山の草)である。これは、村共有の山
        から刈り取ってきた草を、田畑を耕す場合に土の中にすきこんでいくものである。またこ
        の場合、機械ではなく牛を利用した。次にあげられるのが人のし尿である。これは家々を
        まわり集めた。そして、田ごとに設置されている大きな桶に入れて保存されていた。子供
        がそれに石を投げて遊んだりしていたようだ。
  電気、プロパンがきた時期:電気の普及は早く、戦前からあったようだが、それに比べてガスの普及は
               遅く、昭和34−35年くらいだったようだ。
  電気、プロパンがくる前の生活:電気がくる前の生活は聞くことができなかった。
                 プロパンガスが普及する以前は薪を使用していた。その薪を手に入れ
                 るために家族総出で山に入り、一年分の薪を取ってきて薪置き場に保
                 存していた。最後の方の薪は、虫に食われているものもあった。
                 また、炊飯器の普及以前には米はおかまで炊かれていた。(写真)
                 現在のように、スイッチをいれれば炊くことも保温もできる、という
                 わけではなかったため、女性は朝早くから起きてご飯を炊いていた。
                 また、炊いたご飯を保存するのには、竹で編んだかごが使用されてい
                 た。竹は殺菌効果があったため、保存にはよかったらしい。
  村の共有林の有無:村の共有林というわけではなく、立野川内区共有の森林はあった。ここから生活に
           必要な薪をとったり、肥料となる草を刈り取ったりした。また、村の人たちの個人
           所有の山林の総計は約170haである。これらの山林を伐採し、薪として売ったお
           金で公民館などの公共の建物を作ってきた。ちなみに、木材を買い取る業者は昔は
           自分で山に赴き、牛馬で運送していたが、現在は諸費がかかるせいもあり、木材の
           市場へ行って買うようになっている。
  農協がない頃の米を売る方法:農協がない頃にも、その前進として早くから産業組合という組合があり
                そこを通じて米を売っていた。
  青田売りの有無:無かった。
  家族で食べる米の名前、保存方法、ネズミ対策:
     家族で食べる米は保有米と呼ばれていた。保有米は、金属製の容器(ふた有)の中に保存されて
    いたため、ネズミの被害にあうことは無かった。ただし、コクゾウ虫という黒い虫が米につく場合
    もあったので、その場合は人体に無害な殺虫薬を米に混ぜていた。
  種籾の保存方法、ネズミ対策:昔は、自分の所で作った種籾を籾倉と呼ばれる倉又は缶の中に保存して
                いた。ところが現在は、消費者が米をその品種で選ぶようになってきた
                ことから、品種ごとの種籾を農協から分けてもらったり、また自宅で育
                てる余裕がない人は農協から苗を買うようになってきた。
  50年前の食事での米、麦の割合:米と麦を混ぜて食べてはいたが、その割合は家によって異なった。
                 自分の家で食べる分の麦はぺちゃんこにしてから米と混ぜて炊いた。
                 この麦も自分の家で作ったものである。その他にもお茶や菜種(菜種
                 油にする)も自分達で作っており、自給自足の生活であった。
  稗・粟が主食となることはあったか:食べることはあったが、凶作の年でも保有米分は確保できた。
                   (売る分まではとれない)[
  牛・馬は各家に何頭いたか:普通、牛・馬は家に一頭ずついたようだが、多い所では二頭いる所もあっ
               た。性別は家によって異なっていた。牛・馬の他にもヤギ・豚を飼ってい
               る家もあった。なお牛は肉牛で、乳牛ではない。
  博労(ばくろう)はいたか。どんな人だったか:
     博労とは、牛・馬の売買における仲介人のようなものである。子牛(子馬)を育てるのを専門と
    している人と取引をし、そこで育てられた牛・馬をそれまで農家で働いていた成牛(成馬)と交換
    する形で取引をする。博労は一つの村に二,三人おり、定期的(だいたい三年ごと)に農家を訪れ
    話し合いをする。あまり長く働かせすぎると、年をとりすぎて食用肉としての品質がおちてしまう
    ので、その前に引き取りにくるのである。ただし、もし牛・馬がケガ・病気等で働けなくなった場
    合には、博労と連絡をとると、ちょうど働ける時期の牛・馬を持ってきてくれる。
  「−・・ノウテ」と呼ばれる道はあったか:[小作道] 田や畑を仕切っている畦道を示す。田や畑を通
                      る時の通り道であった。
  塩・魚の入手ルート:農家では米だけでなく野菜も作っており、それを有田の野菜専門の売人に渡し、
            現金もしくは塩・魚等と交換していた。魚は塩つけの鯨が多く、一年分まとめて
            買ったりしていた。農家では肉を食べないので鯨が主体であった。中には野菜専
            門の売人にではなく、自分で直接有田まで売りに行く人もいた。有田とは繋がり
            が強く、出稼ぎも有田への依存が大きかった。
  村の神様、祭りの形態など:「八幡さん」=八幡神社  昔は季節ごとに村全体で花見や祭りなどをし
               ていた。田植えが終わると、稲が虫に食べられないように、と田祈祷をし
               てお札をもらい、それぞれの田にさしていた。また、村でぼたもちを作り
               皆で食べたりしていた。つまり、村の結びつきが強かった。
                今でも田祈祷はあるが、その他に村全体で行う行事は、お盆前の掃除と
               草ぬきくらいになった。現在では村の結びつきはあまり強くはなく、近所
               にも無関心。

 *その他*
  映画もテレビもない時代に何をして過ごしていたか:
    [夜にする仕事] 裁縫(女性)
    [昼間遊ぶ] 五目並べ(男性) まりつき お手玉 あやとり(女性)
    [夜遊ぶ] 五目並べ 将棋 酒を飲む 話をする(男性) 裁縫 お手玉 あやとり(女性)
    [天気の悪いとき] 売るためのわら細工(むしろ:梱包に使われる)を家族全員で作っていた。子供
            がわらをうち、お年寄りがむしろを編む。
  力石の有無:力石は無かったが、腕相撲や相撲大会(12月16日の八幡さんのお祭りの中で)はあった。
  若者たち:「くらぶ」に集まっていた。他の村の若者とも交流があり、酒を飲んだり話したりしていた
       結婚する場合には、相手は親が決めるため、自分の意思ではなく親の言う通りにした。

 *村のこれから・・・村の姿の変わり方と今後
    村の姿として、以前は村の団結が強かったが、現在は隣近所にあまり関心がないなど、団結力はそ
   れほど強くはなくなってきているということは、前にも述べたとおりである。また、村よりも小さな
   集団である家族の中でも、以前は家族が協力して農業をやっていたのに、現在では親は農業をしてい
   るが子は他の職場に働きに出ており、休みの日にも手伝うことは少ない、などのケースが多くみられ
   る。このことから、現在農業を営んでいる人達の中には「先祖からの土地を守りたい」という意識
   を持っているものの「自分の代で終わるかもしれない」という危機感を抱いている人も少なくない。
   実際、村から見えるところでも棚田が減少し、基盤整備されたところが使われているくらいである。
   一度放棄田となってしまうと再び整地して田に戻すのは、経済的・労働力の問題からもほとんど不可
   能であるのが現状である。
    なぜ農業を捨て、他の職業に就く人が増えているのだろうか。その理由として考えられるのが、農
   業のみによる利益の少なさである。最近の減反政策によって大幅に減反された田に、いくら新しい機
   械を導入しても、得られる米だけではあまり利益にならず割に合わないため、他の仕事をして働いた
   方が利益になると考えられているからである。
   また、農協から農業普及委員(=流通指導員)が来て、研究所の土壌調査の結果をもとに農家に指導
   しても、田によってその土壌性質が異なるため画一的な教え方になってしまい、良い結果に結びつか
   ない。農家自身で研究することが最善の方法なのかもしれないが、実際にそれを行っているのは山口
   村の農家154件のうち、ほんの14件ほどである。これは、現在、目の前にある利益を追ってしまいがち
   な若者には、気の遠くなるような話なのかもしれない。
    農業とも切り離せないところで問題となっているのが、村の高齢化・少子化の問題である。村の人
   口分布表によると、村の全人口1646人の内、生産人口と呼ばれる15歳ー60歳の人口は1047人となって
   いるが、その大部分を占めるのは今まで頑張ってこられて生産人口から出ようとなさっている方々で
   ある。また、これから生産人口に加わってくる0-14歳の人口は、325人と全人口に占める割合が低く、
   暗い見通しとなっている。
    以上のことから、村が今後取り組んでいかなければならないのは、村の高齢化・少子化に対する対
   策を考え実行におこすことと、農業の難しさを知った上で拡大が必要な農業用地の確保である。

 *今後の日本の農業への展望*
    減反政策、輸入の拡大など、今後の日本の農業は厳しい状況におかれるようだ。生産業・畜産業だ
   けを中心に、暮らしを営んでいくことは難しいだろう。
    だが、そういう状況にただ流されるのではなく、機械類や農作物の輸出を増やすなどして、適応で
   きるように対策を練っていかなければならない。