立野川内

7月11日 山内町聞き取り
場所:佐賀県杵島郡山内町立野川内
調査者
岡田 直 1LA98051W
斉藤 真 1AG98083R

聞き取り者:多久島 守行 (昭和6年生まれ)
当初は、別の人にお話を聞く予定だったが、その方の都合が悪く、その方に
多久島さんを紹介していただき、別の班と一緒にお話を聞くことになった。

1、 多久島性の由来について
この地区には多久島性の方がとても多く、最初にそのことについて聞いた。

長崎県の度島(タクシマ)から、先祖がこの辺りに移ってきて、一帯に部落を作った。
唐津、佐賀辺りにもこの名字は多いが、それはこの辺り一帯の出身者である。

2、 しこ名3、 について
主に耕作していた場所は、地図中央右寄りの松浦川の周辺のみで、その辺りのしこ名などについて教えていただいた。

小字 川良野(コウラノ)のなかの田畑のしこ名
1、ミゾノウエ(溝ノ上)
この辺りの田は現在も溝ノ上と呼ばれているが、昔は田んぼも
多く、溝というものはなかったらしい。
2、チョイノシタ(チョイノ下)
チョイノシタというのは、昭和初期の同和問題からきていて、
現在もこの呼び名は使われている。この他に、カバー、ハダイ
デなどがあるが、これらもそのような由来ではないかとのこと。
しかし、そう呼んでいるだけであって、差別するという意識は
ない。
3、テージンサンマエ(天神さん前)
4、テージンモイ(天神森)
5、テージンサンノシタ(天神さんの下)
これらの「天神」というのは、テージンモイのなかに「天神森」
という、小高い所があったことに由来する。しかし、圃場整備
のあとに、なくなってしまった。そのため、今ではもう使われ
ていない。現在は川良野(コウラノ)で呼び名を統一している。
天神森には、テンジンサマがまつってあった。
6、サヨサンノシタ(三夜さんの下)
三夜山という丘になった小さな山がすぐ南にあることに由来す
る。現在も田をこのように呼んでいる。
7、ヨイイアータ(寄り合田)
その地区の皆が協同で米を作っていた田んぼ。祭りなどの公共
な時に使う米を作っていた。誰かが米を持ってくるといったこ
とはしなかったらしい。

水路などに関する呼び名
1、 チョイノシタイセキ(チョイノシタ井堰)
2、 ミゾノウエスイロ(溝ノ上水路)
3、 コウラノスイロ(川良野水路)
4、 従溝
従溝は圃場整備後になくなった。
5、 小溝
6、 ガブロ
水の溜まり場(飲用ではなく田へのもの)。
人がおぼれて死んだこともあるらしい。
7、 車屋
水車を回して石料を作っていた。
8、 キンジョオトシ
水泳の場所だった。名前の意味はよくわからない。

その他のものの呼び名
1、 タブノキサン
洗濯場の呼び名。タブの木があったことからこの呼び名がついたらしい。しかし、昔この場所で戦争が起こり、1000人程が亡くなった。そのときの死者の耳たぶが埋められているからこのような名がついたという説もある。

小字 大野原のなかの呼び名
1、 カバー井堰
2、 ハダイデ井堰
前述のように同和問題に由来があるらしい。

小字 蜂ノ巣のなかの呼び名
1、 ミゾノウエイセキ(溝ノ上井堰)
2、 ハチノスガワ(蜂の巣川)
現在は水尾川と呼ばれているが、年配の人達は蜂の巣川と呼んでいる。

小字 徳蔵のなかの呼び名
1、 シンツツミ(新堤)
最近は車でも通れるが、以前は舗装されていなかったため、行きにくかった。ここでもおぼれて死んだ人がいるので、この地域の人はあまり近づかなかった。

小字 陣ノ尾のなかの呼び名
1、 ジン(陣)
山城があったといわれる。内容についてはよくわからないらしい。

小字 琵琶ノ首のなかの呼び名
1、 サヨサン(三夜山)
前述のように、丘になった小さな山。うずをまいている。
2、 トリゴエ・トイゴエ(トリ越え)
抜け道になっている。呼び名は、そこからか?
3、 マイデガワ(馬出川)
馬車で有田焼を運んだときなどに、馬を休ませて洗ったり、水を飲ませたりした。
4、 ハシツメ(橋爪)
水が流れてきたところ。
5、 ビワクビ・ビワンクビ
水を引いていたらしい。


6、真土手
泥で水害を防ぐための堤防の役割をするものを作っていた。今は、圃場整備でなくなった。漢字は正式なものかどうかわからない。

小字 上原のなかの呼び名
1、 マルヤマ(丸山)
採石場。世界一小さい死火山らしい。凧上げなんかをしたらしい。

その他このことに関して聞いたこと
琵琶ノ首にある久保田橋は、昔はなかった。
蜂ノ巣橋の辺りも昔は通るのは困難だった。圃場整備後に橋などができた。


・水の分配について
水番を決めている。
6月の第1日曜日に水路などをきれいにする。
三夜山のあたりで酒を飲みながら取り決めをする。
今は、8月の第1日曜日に取り決める。
徳蔵と渕ノ上とは常に協同で取り決めを行う。
基本的には水番に管理してもらう。
水はドロボウ的なことはできない。

・1994年の干ばつについて
田んぼの方は、水が足りなくなったということはなかった。
生活用水が足りなくなったので、井戸や他のところから持ってきたりした。
干ばつ中でも、お盆までは水があったので田の方はそんなに問題なかった。

・昔の干ばつについて
昭和13年に水がなかった。
車屋の辺りの川の中に、井戸を掘って水を取り出し、バケツ(桶)で運んでいた。
昭和42年に、大水害の後干ばつになった。
大水害で田はボロボロ。収穫はほとんどなかった。
2年後に復旧。その後圃場整備があった。

・塩・魚について
伊万里の方から自転車で運んでいた。
終戦後は、伊万里まで塩がまをやりに行っていた。

・電気について
小さい頃は、電気は2つ。炊事場と小屋のみ。
終戦後24,5年まで勉強部屋に電気がつくということはなかった。
テレビの普及は、1964年のオリンピックのとき。
力道山のころは、テレビがある人の家に押しかけていっていた。
30年初めくらいまで、土葬だった。
その後火葬になっていった。
火葬場まで、薪などをのせて、リアカーで運んでいた。

・娯楽について
武雄の遊郭まで行っていた。
長浜では、給料が8000円の時代に、泊りが1500円だった。
33年に売春禁止法が成立した。

相撲大会など、いろいろな集まりがあった。
「青年くらぶ」というのがあり、毎晩のように遊んでいた。

恋は、夏祭の時にできた。
くんち、ぎおんなど1ヶ月くらい祭りは続く。
金がかかる。酒の量はとにかく多い。
公民館なんかでする。

・家畜について
40年ごろには、どの家にも1頭くらい牛がいた。
機械化が進み、牛は徐々にいなくなっていった。
ばくろうは、すこし遠くの宮野の方にいた。
今は、あまりいない。
馬を飼っていた人は、有田の方に荷物を運んでいた。
青田売りというのは、なかった。
農協・JAの前は、農会というものだった。やっていることはあまり変わらない。


米の保存について
ごひょうかん(300Kg)にいれていた。
わらのときは、ねずみ対策が必要。
杉の葉を混ぜておくと、葉の刺でちくちくするため、ねずみがこない。
いくらかは効果があったが、それでもしょうがなかった。
竹の籠に保存する場合、風邪通しの良い場所につるすことで、カビを防げた。

・下水道について
ここ何年かで下水道工事をするので、川がきれいになるかも。
生活排水が問題。

・宗教について
真言宗がほとんど。
浄土真宗・禅宗が少し。

・酒について
終戦後22,3年までどぶろくを作っていた。
祭りの当番になった人が作っていた。
日常飲んでいたということはない。

・雨が降ったときについて
わらじ作りなどの仕事をしていた。
夜に暇なときも。
篠栗なんかに送っていた。

・子供の時について
ビー玉・コマ・メンコ(ペチャ)・竹馬・凧などで遊んでいた。

・祭りについて
どのような祭りがあったのか
正月祭り → 4〜5月 花見 → 夏祭 → 10月〜 くんち
→ 11月 おひ祭り(太陽をまつる)→ 年越し祭り




感想
今回の調査をしたことによって地方の独特の呼び名などについて改めて意識するよ
うになった。今までそのようなことを深く考えたこともなかったため、このことは
自分にとってとても新鮮で勉強になったと思う。地方の一村をたずねて、こういう 昔の村の歴史や生活様式を調べることは自分の見分を広げることもできるし、将来
の人達にとっても、とても大事なことだと思う。これから専門に上がって農学につ
いて学ぶが、今回の田の歴史などが少しでも生かせれば良いと考えている。
( S2−24 1AG98083R 斉藤 真 )

今回の調査によって、歴史を学ぶ楽しさというものを改めて感じた。また、今回の
ような調査はこれまでしたことがなく、とても良い体験でもあった。昔の生活や、
文化の一端にふれることができたのではないかと思う。この経験は今後、きっと役
に立つものになるだろう。
( L2−5 1LA98051W 岡田 直 )