<調査者>
前原 加奈子 1AG98212E
山内 幸代 1AG98237R

<聞き取りした古老の名前、生年>
樋渡 春男 さん : 大正 9年
中尾 昌幸 さん : 大正12年
中村 信江 さん : 大正15年

<7月11日(日)の行動記録>

9:00 六本松本館前集合
9:25 出発
11:00 山内町 館 到着
↓ 昼食
12:00
↓ 館周辺を散策
13:00
↓ 樋渡 春男さんにお話を聞く
14:00
↓ 中村 昌幸さんにお話を聞き、窯を見学、コーヒーをいただく
15:30
↓ 田代 忠士さんにお話を聞く
15:45
↓ 中村 信江さんにお話を聞く
15:55
↓ 中尾 正治さんを訪ねるが、不在
16:15 バスに乗り込み帰路につく
18:00 六本松に到着、解散


<しこ名>

・田
小字:館 ――― タチ(館)

・川
小字:平野 ―― ヒラノガワ・オゴウチガワ(平野川・小川内川)

・道
小字:平野 ―― サトミチ・リドウ(里道)

・目印
小字:館 ――― ロクンゾウ(六地蔵)

・シュウジ
小字:館 ――― ロクンゾウ(六地蔵)

※ 館 周辺

・田
小字:館 ――― タチ・ヒラノ(館・平野)
乙宮 ―― オトミヤ(乙宮)

・川
小字:乙宮 ―― カッタチガワ(狩立川)

・道
小字:堂原 ―― マチミチ(町道)

・橋
小字:館 ――― ロクンゾウバシ(六地蔵橋)
原 ――― ホリノウチバシ(堀ノ内橋)
乙宮 ―― オトミヤバシ(乙宮橋)

・ショウジ
小字:館 ――― メクラオトシ


自分の家の田は番地(番号)で呼んだりし、「あそこ」「ここ」で通じることが ほとんどなので、田1枚ずつのしこ名は特に必要がない。また、しいど、井樋、 堤防もそんなにたくさんあるわけではなく田のまとまりに1つずつくらいなので、 特にしこ名で呼ぶ必要はない。


<村の水利>

@ 使用している用水の名前 : 特になし
用水源 : 小川内川
共有している他の村 : なし
昔の配水の慣行・約束事 : 特になし
昔の水争い : なし

A 使用している用水の名前 : 特になし
用水源 : 狩立川
共有している他の村 : なし
昔の配水の慣行・約束事 : 特になし
昔の水争い : なし


<1994年の大旱魃>

・水のまかない方
ポンプで川からくみ上げた

・特別な水対策
ポンプでくみ上げた分で何とか水が足りたので、特になし
この年は豊作だった

・もし、これが50年前だったら…
実際に60年ほど前に大旱魃があった。その時はポンプなどはもちろんなく、 川の流れにまかせるしかなかった。水不足により、その当時普通は1反あたり 5俵(300kg)とれていたのが、その年は2俵弱(100kg)しかとれ なかった。


<村>
館の部落は昔は2つに分かれていて北が六地蔵、南が館と呼ばれていたが その後1つに統合されて館になった。

・圃場整備以前の米のとれる所ととれない所
館地域は、バイパスが通って宅地候補に挙げられたために、圃場整備が行われ なかった。水田ごとの米のとれ方の差はあまりなく、どこも比較的よくとれた。
・化学肥料が入ってくる前後の米のとれ方(1反あたり)
湿田はなく、乾田ばかりだった
前 : 5俵(300kg)
後 : 8俵(480kg)

・良い田と悪い田の差
ほとんどなし

・戦前の肥料
下肥(人糞・牛糞)
人糞は今でも畑の肥料として使っている

・昔の村の現金収入
窯の火入れや土木作業の手伝いをして現金を得ていた

・村に電気・プロパンが来た時期、来る前の生活
電気 : 70年前
プロパン : 4、5年前
来る前はランプ、薪を使っていた

・薪の入手方法
山から勝手に拾ってくる
・農協がなかったころの米の売買
高利貸しがいた
米は個人で売っていた(100年ほど前)

・青田売り
なかった

・家族で食べる飯米
作米(さくまい)

・米の保存方法
米 : ブリキの缶に入れる
種籾 : かめに入れる
虫はいたが、ネズミはふたをすれば入らなかった

・50年前の食事における米、麦の割合
米と麦が半分ずつ
米は値段が高いのでどうしても売る方にまわさなければ食べていけなかった
稗・粟を主食にすることはなかったが、粟餅は食べていた

・牛、馬
9年前まで、堆肥をとるために雄の牛を1匹を飼っていた

・博労(牛馬商)
いた。口がうまくて商売上手だった。

・昔の隣りの村に行く道
特になし

・「〜ノウテ」と呼ばれる道
なし

・古い道を通って運ばれてきたもの
ほぼ自給自足をしていたので、特に何もなし

・村の神様、祭り
八幡神社で8月20日に祭りが行われる。区が主催し、ほぼ全員参加。
昔は芝居なども行われていた。


<その他>

・テレビも映画もなかったころに、夜、若者がしていたこと
遊んでいた。村の娘の家に行っていた。親も認めていた。
力石はなかったが、相撲はよくしていた。

・若者たちが夕飯の後に集まる場所
部落ごとに小さな社に5、6人が集まって夜通し話したりしていた。
青年倶楽部と呼ばれ、60年ほど前まであった。

・よその村の若者
よその村の若者の進入を防ぐために、夜中の2時ごろまで村の若者が見張りを していた。酒を持って来たりすることなどなかった。

・若者の恋
兵隊に行く前まで生きて帰ってこれるとも思えず、娘の家に通うのは恋という より楽しみだった。

・村の姿
昔→今 家が3倍近くになり、道も増え、その分田畑が減った
今→将来 もっと家が増えていくだろう

・今後の日本農業の展望
今は村の若者が減り、家を継いで農業をする人も少なくなってきているが、何 とかがんばっていくしかない。


<現地調査を行っての感想>

今までに現地調査を行った経験などなく、アポイントもなかなかきちんと取るこ とができなくて、現地に向かう間中不安で緊張していました。しかし、実際にお家 に訪ねて行ってみると、どの方も快く質問に答えて下さって、とても楽しかったで す。私たちが調査した地域は田んぼがあまりなく、しこ名も少ししか集めることが できませんでしたが、昔の話をいろいろと聞けて、とてもためになりました。教室 で講義を受けているだけではとても知ることができないようなことを数多く知るこ とができて、実際に現地の人々と触れ合って話を聞くことの大切さがよく分かりま した。お聞きした話の中にもありましたが、現在は農家の後継者がいないことが深 刻な問題となっていて、農家の数も減ってきています。農業は国を支えるとても大 切な仕事です。このまま日本の農業がどんどん廃れていかないように、私達国民ひ とりひとりが農業について真剣に考えていかなければならないと思います。