砂古

1AG98220E 松永恵美子  1AG98217P  松尾久美子

<一日の行動>
   9:00 六本松に集合
   9:24 出発
   11:00 到着
     お昼、現在地の確認など
   12:30 浦川義秋さん宅
   13:15 中尾歳夫さん宅
        (一時間以上お話をしてくださった)
15:30 八幡神社に行き写真を取る
   16:20 バスに乗車
   18:00 六本松に到着

 <お話をしてくださった方>
    中尾歳夫さん  大正九年 一月一日生まれ

 <しこ名について>
   しこ名について聞いたものの、砂古には田が少なく中尾さんも以前   は舘のほうにすんでいたらしく砂古地区のしこ名はわからなかった。
  下に書いたものは砂古以外のところのものである。
 
  しこ名
  ハッタンダ(八反田)、ハチマンチャビャ(八幡チャビャ)、   ジャガメ(蛇頭)、フジンタニ、ジュウノクビ

    ハッタンダ……8反ほどの田んぼがあったのでこう呼ばれる。
    フジンタニ、ジュウノクビ……池

<村の水利について>
田の用水路(井手)
川を利用していた。(川の近郊)
  ・・・・・・単独で使えた。ルールはなかった。
  ため池を利用(川から離れたところ)
  ・・・・・・水番というものがいて、水の量を調節。

  水争いはなかった。話し合いですべてまとめていた。
  (水ゲンカという言葉があるので、   いくらかはあったのかもしれない。)

 <1994年の大旱魃について>
  水には困らなかった。川の近くでつくっているため、ときどき 水が田に入り込むことがあったが、この年は入り込むことがなく   山間部では例年より増収であった。
  又、給水制限はあったが、飲み水などは井戸に頼っていたので   困らなかった。

 ―50年前だったらどうだったか―
   非常に苦しんでいたのでは。(中尾さん説)
   雨乞いのために、黒髪山に祈願に行っていた。
  伊万里から塩水をとっくりや竹筒に汲んできて神様の岩に         かけていたらしい。 
   (中尾さんの考えでは、この行為で神様がのどが渇くから           雨を降らしてくれさるだろう、ということらしい。)
 
  <村について>
   ・村の範囲わからず(何度聞いても、おしえてくれなかった。)
   
  ・圃場整備以前……大きくても一枚の田の広さは5a(五畝)
           牛にすきをひかせて土をおこしていた。
   ・圃場整備以後……一枚の田の広さは15〜20a(一反五畝〜二反)
   
   ・化学肥料の使用以前
       ……収穫量に地域差があった。
         (例)小川内 …… 一反につき十俵
            谷田  …… 一反につき五〜六俵
          ―何故地域差があったのか―
            土壌の質
             小川内 …… 黒い粘土質の土壌
             谷田  …… 砂質土      のため。
化学肥料の代わりのものは、あぜくさや堆肥。
    
   ・化学肥料の使用以後
       ……収穫量の差が縮んだのでは。
    
   ・村には現金収入があったのか?
     あった。有田の陶芸会社に行っていた人々、また大きな地主。
     平野部(神崎)に田植え妊婦として出稼ぎに行っていた。
      (これは山間部では平野部よりもはやくに稲を植えるため。
                  山間部は田んぼの水温が低いため。)

   ・電気やプロパンガスは?
     電気     …… 大正9年(中尾さんが生まれた年)
     プロパンガス …… 昭和25〜30年頃
        プロパンガスがないときはすべて薪を使っていた。 
        プロパンガスが来た当時は補給がままならなかった。
      
      ―薪はどうやって手に入れたのか―
       個人で雑木林を持っていてそのうり葉(小さな枝、葉)が        家庭用の薪だった。
       立派な薪(丸太を割ったもの)は有田の方に売っていた。

・農協について
    中尾さんが勤めるころ(16歳)には、もう存在していた。
    いつできたのかはわからない。
     ―米の保存〜農協では―
      蔵に保存していた。
      その蔵のつくりは3段構造になっていて、竹で組んだ壁の        上に土壁を塗り、その上に粘土を塗る。
       そして最後に白すきを塗る。
      これは冷房装置の役割を担っている。
       ネズミにやられたところは他の農家から分けてもらっていた。
 
・青田売りは?
    砂古(山間部)ではなかった。平野部ではあったのでは。

・道について
    「〜ノウテ」と言われる道は(山間部では)聞いたことがない。
    平野部にはあるのでは。
    ―古い道は何が運ばれていたか?―
      運ばれてくるものはなかった。かわりに運んでいた。
     山林の薪をよく運んでいた。

・村の人の生活
    ―食事について―
      主食はハダカ(麦)。
        米と麦は50%ずつ。
      冬になると里芋が主。サツマイモもたまにはあったが、       山間部では有田に売りに出ていた。
         (中尾さんは里芋よりサツマイモが良かったらしい)
      稗は作っていなかった。粟は粟もちにして食べていた。
      米はカメに(玄米の状態で)保存していたので、 カメニ(玄米の状態で)といっていた。
塩は農協から買っていた。
      (終戦後は伊万里からし塩水をくんで                  それを乾燥させて作っていた。)
      海産物は伊万里からきていた。
    
    ―家畜について―
          目的 数
     牛|雌…農耕用,雄…肉食 |10頭
       ―――――――――――――――――
       馬|            |3頭

     博労さんはいた。口がうまい人だった。
              
    ―まつり―
     近くでは…八幡さま 
     遠くでは…黒髪山(10月29日)流鏑馬などがある。
          氏子というものがあって、地域の代表者がなる。
          区長さんがしめもとを作って 屋根に飾ってお祝いをしていた。
       どちらとも全員参加できる。  
   
   ・昔の若者について
    青年倶楽部というものがあり、そこでいろいろな遊びをしていた。
    例えば、囲碁や将棋、夏にはそうめんを食べたりしていた。
    まつりの時の笛や太鼓の稽古もしていた。

<中尾さん曰く>
   ―教育について―
   教育は小人数がいい。すべての子供に目が行き届く。実際中尾さんが 通っていた学校(分校)は人数が少なかった。少ないために先生が    すべての子供に目が行き届くため、高等学校(今で言う中学)に    合格した人が多かった。
   ―農業について―
   農業も経済と同じように世界規模になってきている。例えば、 南半球で作られたかぼちゃが冬に日本にやってくる。こうなると    日本の農業はもうだめだろう。
   こうならないためには、将来を担う若い人と農家の人たちと    話し合う必要があるだろう。

<感想>
   この現地調査を終えて残念に思うことは、砂古地区のしこ名が    ひとつも聞けなかったことと、また、一人の方にしかお話が    聞けなかったことです。どうして一人の方にしかお話が聞けなかった    といいますと、バスから下ろされた地点から訪ねる家までの道のりが    長いということです。(片道30分はかかりました)このハンデが    なかったらいろんな人にお話が聞けたのですが……
   実際、お話を聞いてみて思ったのですが古老の方が元気なこと、 それに考えがしっかりしていることです。このような方にいろいろと お話が聞けてとてもうれしいです。今度このような機会があったら ぜひ参加したいと思います。