平野

歴史の認識レポート
1SC98239M 小山 元洋
1SC98267Y 半崎 尊哉
樋渡 勝麿;大正13年生まれ
中尾 章 ;大正14年生まれ
中尾 俊昭;昭和19年生まれ
私たちが調査したのは平野地区でしたが、お話を聞きましたところ、平野地区のしこ名はご存じなく、その代わりに周辺地区のしこ名をお話してくださったことを、始めにお知らせします。

村の名前 しこ名
館(タチ) ロクンゾウ(六地蔵)
六地蔵・・・いぼの神様で、なすびのへたで、いぼをこすってお供えするといぼが取れるという言い伝えがある。お話をして下さった樋渡さんは、試しており実際にいぼが取れたそうだ。現在永田さんという方が管理をしているらしい。

大谷(おおたに) ササバア(笹原)
現在“サアバア”と呼ばれる場所には九州酪農講習所がある。講習所は昭和17、18年頃農兵隊が開墾し作り上げた、畜産試験場の名称が変わったものである。
開墾される以前に馬の牧場があり、今その場所には畜魂碑があり、昔その場所には馬頭観音と石碑が立っていた。
畜産試験場を作る際、馬の牧場や馬頭観音や石碑は当然崩されその土地をならして作られたわけだがそこで飼育されていた牛が炭素病という、伝染病にかかり次々と死んでいった。病気にかかった牛がいたところは、奇しくも馬頭観音像があった所で、馬と馬頭観音の祟りだと恐れ畜魂碑を建立したところ、病気がぴたりと治まったそうだ。

原(はら) オンダラ(恩だら)
恩の字の説明はできないと言っていたがダラというのいはタラの木が一帯に多く生えていたためらしい。
このオンダラと呼ばれる地域にある山内中学校周辺は古戦場で、武士の石碑が散在しておりそれらの幾つかを梶山さんという方が一個所に持ち帰り石碑で作った50センチ位の祠を自宅の庭に建てている。この石碑は大正5年4月1日に建てられた。

宮ノ元(みやのもと)オサキ(尾先)
この地名の由来は立畑にある蛇神橋からきている。かいつまんで説明すると、この立野川内地区には、黒髪山の大蛇伝説が残っておりその伝説の大蛇が水をのみに来たのが蛇神橋のあるところで、その大蛇のしっぽがあった所が尾先である。ほかにも、立野川内から伊万里に行く途中に赤田と呼ばれている土地があるが、それは大蛇を退治したときに流れた血が、田を赤く染めたことから来ている。


平野および周辺地区の生活、風習について
平野観音
祭典は8月16日の灯篭かけ、18日の本祭となっている。
山内四国第六十番。本尊は大日如来。御堂の中には、“たて横に峰や山辺に寺たててあまねく人を救うものかな”という和歌がある。
毎年16日は小学生が各家を“じゃどん(お茶)豆どん(豆)あぶらじゃ(お金)あげんさい”と言ってまわり、観音堂に持っていって煮てお参りに着た人たちに振る舞うということをしている。また18日の本祭は約12年前から盛んになったそうだ。
この平野観音だが、昭和25年に谷をつむじ風がはしり、谷のところにあったために倒れてしまった。しかし倒れた観音堂はすぐに元どおりに立ち上がり、以後お参りする人が増えたそうである。
馬入川
農作業に連れていった馬や牛を帰りにこの川に入れてきれいに洗ってから帰っていた。平野の馬入川は水がきれいなので井戸を持たない家の貴重な水源となっていた。
馬入川はこの地区のあちらこちらにあったそうだ。
平野観音のところの川は今は岩で塞がれている。
農業
昔は田畑で野菜や米の栽培が主に行われていた。他にも畜産講習所のあったところは松林で松茸などがとれていた。
最近の野菜の栽培は、道の駅で売ったりする露店用の野菜が主で、米の栽培は昔からこの土地の主要農産物であった。また、白岳付近の田んぼでは昔から米がよくみのりお金持ちの人々が住んでいるそうだ。
宗教・祭り
この辺は真言宗が多い。話によると、昔、空海が黒髪山に来ており(実際に来た印も残っているそうだ)空海が地面を掘ると水が湧き出たという伝説が残っている。そして、真言宗の信者が増えたそうだ。残念ながら今はもう水は出ていない。
有田焼工場のすぐ側にシュツ地院と呼ばれる寺がある。この寺の山側にある祇園社で、7月14日になると祭りが開かれる。昔は立野川内をあげて行われていたこの祭りだが今ではこの辺の集落だけで行われており区から4万円の補助が出ているそうだ。
このシュツ地院を含むこの辺りの寺院の総元締めは大地院といい、昭和14、15年頃に佐世保の方に移動した。大地院の跡は今も残っておりとまって修行するものもいるらしい。
蛇神橋を北に向かうと八幡神社がある。この神社では8月の20日に祭りが行われ、先ほど書いた平野観音の祭りと、山下観音(別名堀の内観音)という六地蔵の側の観音様のお祭り(2つの祭りとも8月の16日に行われる)とあわせて3つの祭りとしてこの土地の人々に親しまれてきている。
この八幡神社の祭りだが平野観音の祭りが大きくなる14、15年前“かっくんちゃん”と呼ばれる首のところに大きな瘤のできた人が毎年必ず来ており、裸同然の格好で1本三味線を弾きながら歌っていた。たいへん音楽の才能があったそうだ。このかたは年代をはっきりすることはできなかったが、昭和17年から23年の間に病気で亡くなったそうだ。
また、この神社には日露戦争のときの203高地の激戦の図の絵馬が飾られているが私たちは見る機会がなかった。
黒髪神社の流鏑馬・・・黒髪山の大蛇退治に関連して10月29日(この土地では“おとくんち”と呼ばれ、偶然にも、話をして下さった樋渡さんの誕生日と同じ日でもある。)に流鏑馬をしている。この流鏑馬の的には串焼きにされた“どんこうお”(漢字で書くと殿喰魚と書く。昔、住吉城の九人の殿様が来たのでもてなそうとしたが、この地区は山なので魚がなく切腹覚悟で川へ行きどんこを釣ってかえり出したところ、たいそう気に入られたので殿喰魚と名づけられた。)が的にくくられている。この的だが、3個所に3枚あり、計9枚を射ぬくこととなる。
道路
国道35号線は今は山の中を走るバイパスの様なものになっているが、旧35号線は日
露戦争の時物資輸送の手段として作られた。
鉄道
本来、この町には鉄道が走る予定はなかったそうである。ここを通らず、嬉野の方を通
る予定だったそうだ。昭和35年頃までこの線路を走る列車からアメリカ人があめやチョコレートをばらまいていたそうだ。
国鉄時代には線路工夫が手押しトロッコに乗って毎日やってきた。彼らは日常生活のふとしたことや、たわいもないことを上手に歌っていたそうだ。
電気・水道
この地区に電気が通るようになったのは明治時代からだが、水道が通ったのは今から十数年前のことになるそうだ。下水道の工事が今年の4月にはすべて終わるはずだったらしいのだが遅れており、3ヶ年で山内、三間坂地区は下水道普及率100パーセントを目指している。
それまでの水源は井戸、もしくは前にも書いているように馬入川の水だった。

三間坂市と呼ばれる市が、三間坂駅周辺で開かれていた。時期は田植え前で、魚を買いに遠くまで出かけるのは大変なので、塩鯖や塩鯨などの魚の塩漬けを大量に買い込んでいた。
他にも、六地蔵市(ろくんぞいち)という朝市が平野近辺であり、食料品を主に売る三間坂市とは異なり、主に生活用品を売っていた。子どもたちはくじを引いたり、こまを買ったりしていた。ここで、少し脇にそれるが、私たちはこま回しというと正月のイメージが強いのだが、ここでは、正月よりも“おとくんち”あたりで遊んでいたそうだ。
また、バナナのたたき売りがこの市に来ており、“このバナちゃん食べたなら、いつもがっこで優等生、さあ買え、さあ買え、さあ食べろ、さあ食べろ”と歌っていた。
黒髪焼き
今から400から450年前、豊富秀吉の朝鮮出兵により渡来してきた人々によって、
始まった。
この黒髪焼きは、唐津焼きの流れで、たたき手法という方法で、形を作り上げていく。また、唐津焼きに用いる水の水源と唐津の中間に位置するところにあるため、大変よい土が取れるとのこと。
古戦場の武士の石碑で祠を作った梶山さんのお父さんは、陶芸をしており庭には陶製のかえるや、鬼瓦などがあり、祠を見に行ったときに見せていただいた。
陶芸のことなどよく分からない私ではあるが素直に“いいな”と感じた。


現地調査に出て
私たちは連絡を取った中尾さんたち3名と会い、お話を2時間ほど聞いた。こちらの質問に丁寧に答えてくれたばかりでなく、こちらの予想以上の答えがどんどん返ってきたので、とてもありがたかった。ただ、はなしを聞いていく内に、あまりにも興味をそそられる話をして下さったので話にのめり込み、このレポートにまとめるための、しこ名や水路、田んぼの名前をほとんどというか、ぜんぜん聞いておらず、お話をして下さった3名に申し訳ないと感じるばかりである。
お話を伺った後、周辺を見てまわったのだが、数歩歩くごとに“あれが…だよ。”と説明していただき、さっきまではなしを聞いていたのだが、地図で見たり言葉で聞く以上になんだかよく分からないが“すごい”と感じていたのを今でも思い出す。この“すごい”という気持ちは本当に説明ができない。なんだか直感的にすごいと感じた。
この文書を読んでわかるように、私は物を書くのが得意ではない。だからこのレポートを読んでも聞いた話の三分の一も読み手には伝わらないだろうなというのが私の今の素直な感想だ。
ほんの数時間だけしかあそこにはいなかったのだが、とてもいい経験ができた。