今山

八坂公啓  吉積弘行  道脇健

村の名前 今山 しこな(カタカナ)一覧
田畑 小字土井切のうちに ババ(馬場)、ヒワタシ(日渡)
ほか 小字中川内にうちに フッコバ、スギバンタニ
小字重川内のうちに イシワラツツミ
小字坂林のうちに コザト、クマガクラ、ガロウシ
小字土井切のうちに ウメノキブチ(またはサンバアワセ、サンサロとも)
小字早稲田のうちに イシモリ(石森)、タイタニ
小字清水元のうちに ノウナカ(野中)、ムゲンタニ、イシモリノツツミ
小字坂本のうちに カゴウラ
小字八谷のうちに ヒエコバ、コバヤシ(小林)、ベンジャーテン(弁済天)、テンリュウアゲ(天竜上)
小字八頭のうちに カノキンタニ、セタバタケ、ムミョウ、ヨシンサコ
土地のいわれ。その他。 ウメノキブチ:最初に調査に行った浦川さんの家のすぐ近くの橋のあたりの名前。この昔からのいわれによると、ここは「昔、梅の木が橋の ところまでながれてきてひっかかって水がそこらじゅうにあふれてしまった。」ということだ。
ムゲンタニ:すこし水が入ると(雨が降ると、ということだろう)田んぼとか
土手、がけなどがすぐにくずれる。これを「ムゲが来たぞ」と表
現するようだ。この場所は頻繁にそのようなことが起こる場所の
ため、このように名前がついた、ということだ。
日渡(ヒワタシ):調査に行った最初の浦川さんの裏の田ん中の名。
弁済天(ベンジャーテン)溜め池のすぐ近く、次に調査に行った家のあたりの名。
当日の行動記録
11:00頃 山内町宮野でバスから降りる。
11:20頃 昼食を摂る。
12:20頃 浦川さん方に到着。
14:20頃 出る。
14:30頃 松尾さん方に到着。
15:35頃 出る。
16:00 バスに乗る。終了。
古老から教えていただいたこと。
最初に本題である土地の名前、しこなについて聞く。浦川さんから聞いた地名は、前述の表にあるしこなのうち、フッコバ、スギバンタニ、イシワラツツミ、コザト、ババ、ヒワタシ、ウメノキブチ(最初にここをサンバアワセ、サンサロと言われたのだが、こちらの方が皆に使われているから、ということでこちらの方も教えていただいた。)、イシモリ、タイタニ、ノウナカ、ムゲンタニ、イシモリノツツミ、ベンジャーテン、テンリュウアゲの14個である。この中で田の名前はババ、ヒワタシ。ベンジャーテン、テンリュウアゲ、コザト、ムゲンタニ、タイタニ、フッコバの6個は集落の名前である。また、スギバンタニ、イシワラツツミ、イシモリノツツミは堤を表している。
浦川さんに教えていただいた地名は以上である。
知っておられる地名が出尽くした後に浦川さんの年齢を聞いた。又、山内町の成り立ちを少し聞いた。これによると、山内町は住吉村と中通村の二村合併でできたということであった。ここ、今山地区は武雄市との境界の近くにあり、当時今山地区はどちらに帰属するかで揉め事があったらしい。
次に干ばつの際にどう対処したのかを聞いた。軽い干ばつであれば、今山の堤である、今山溜池や大砂古堤からポンプで水を上の田にいれていたらしい。しかし、あまりにひどい干ばつのときには、下の川である松浦川から水をポンプで引き上げていたとのことであった。60年代にあった大干ばつのときには川にも水が流れておらず大変な苦労をなさったそうだ。この時は川の深みをさがして、少しでも水があるところをポンプで上げたそうだ。この時、水溜まりを見つけたにもかかわらず、次の日には他の部落に取られてなくなっていたということもあったらしい。このことから、川の水に関してはそこまで複雑な権利関係はなかったように思われる。ポンプで引き上げた水は一旦上まで引き揚げた後、一番上の田まで引きあげることはせず、途中の田までで落としていた。理由として、一つに浦川さんは上まで上げると労力がかかりすぎるということをあげていたが、上の田を犠牲田にしていたということも考えられる。単位がわからないのだが「75ぐらいのポンプ」を使っていた、ということであった。
次に村の田の善し悪しについて聞いてみた。この地区は東西を山で囲まれているため谷の奥まった所まで田があるところもあり、当然収穫量も違うということであった。やはり谷の辺りや山つきの田は収穫は平均以下だという。さらに溜池(カミンツツミ)よりも上にある田もあまりとれないそうである。ちなみに浦川さんのところの田の収穫量は普通ぐらいということであった。昔は今よりももっと上の場所に田があったらしいが、収穫量があまりよくないのとまた猪が出たりすることもあって皆今のところまで下ってきたそうであり最初からここにいる訳ではないらしく、そのことが今回ほとんどしこ名を集めることができなかった理由の一つとして挙げられるのではないだろうか。
次に聞いたのは動物について。昔はもちろんトラクターなど無いのだから、田の耕作には牛が必要不可欠であったと考えられる。その辺りについて聞いてみると昔はほぼ一軒に一頭の割合で牛がいたということであった。ところで性別はどうだったのかと尋ねたらそれは家によって雄だったり雌だったりと様々だったそうだ。雄牛は6月から7月辺りにばくりゅう(博労)と呼ばれる仲介業者に売り、次の若い牛を買っていたとのこと。このばくりゅうなかなかの商売人で、何でも5月に各家の牛を見てまわって売りに出されるであろう牛を前もってチェックしていたというから凄い。しかしこの商売収入があるのはこの時期だけということを考えるとそれだけのことをやるのも頷ける。ちなみにこの牛の活躍時期だがこの辺りの田は冬の間は麦を育てるいわゆる二毛作なので、春の田おこしの時だけでなく稲の収穫が終わった後の9月頃にも耕作のため牛が必要だったということだから牛は各家にとって相当重要なものだったことがわかる。
お祭りについても聞いてみた。時期は春と秋の彼岸の時と盆ということだが、盆の夏祭はここ何十年やっていないとのことであった。理由を聞くと祭りを運営していた青年会が若者がいなくなってしまったことにより消滅してしまったためという理由であった。ここに過疎と高齢化に直面している農村の現状を垣間見ることができる。ほかに祭りといえば、近くにある仏心寺が浄土真宗ということで親鸞の誕生日である5月21日に一番近い日曜に祭りがあるということであった。浦川さんが若い頃はまだ夏祭もあっていて、その時にふりゅうという伝統芸能をやっていたと浦川さんは話してくれた。この伝統を後世に残そうという思いからふりゅう保存会というものができ以前国が地方自治体に一億円ずつ給付したふるさとそうせい資金を使ってふりゅうの道具を新しくしたそうだが、今は保存の方もうまくいっておらず道具を新しくしたのは全くの無駄になっているということであった。様々な要因があるとはいえ一つの伝統がこのように次第に色褪せてしまうのは悲しいことである。
次に聞いたのは昔の若者についてである。我々現在の若者のイメージとしては昔の若者特に農家の人は働き者だという感じがするものである。その辺のところを聞いてみることにした。が、その答えはちょっと予想外のものであった。確かに農家は忙しい。しかし夏はあまり仕事が無いので朝は10時くらいまで寝ていたということでちょっと驚いた。夜はどのように過ごしていたのかも聞いてみると、当時は青年クラブというものがあって公民館に集まって世間話をしたりしていたそうだ。また闇の中人の家の果物を盗みに行ったり(盗むとは言わず拝借と言っていたが)しており、その情報なども公民館で集まって話していたものと思われる。しかし人様のものをとるといってもその人がものすごく困ってしまうほどの量をとったわけでもなく、言ってみれば許容範囲内のものであったということだ。確かに最近若者による凶悪な事件が増えていることを考えると、このくらいのことはかわいいものと言えるだろう。また当時は今ほどお金のかからない生活だったそうだ。ガス代や電話代といった今では絶対に必要なお金が要らないのだから当然と言えば当然である。しかしガスが無いということは裏を返せば薪が必要だったということであるからその調達についても聞いてみると、自分の山から取ってくるのが原則ということであった。子どもの頃人の山から薪を取ってきたことがばれたことがあり親にひどく怒られたことがあったそうである。ちなみにガスが来たのは昭和38年頃のことだったそうである。公共料金の中で当時唯一払っていたのが電気代。これは滞納することは一切なく、その時持ち合わせがなかった時には近くの家にお金を借りてでもきちんと払っていたそうである。時々公共料金の滞納をしてしまう私にとっては耳の痛い話だった。ところで当時お金はどうやって手に入れていたのだろうか。現在のように米は農協に持っていってはいないはずである。ではどうしていたのかと聞いてみると、米や麦、野菜などは天秤にかついで徒歩で有田や伊万里などに売りにいっていたそうである。これは相当大変なことだ。道路は現在のようにきちんと整備されている訳ではないし距離も長い。そこを重い荷物をかかえてなおかつ歩いて行くのだから我々のような自動車があるのが当たり前の生活をしている者にとってはただただ頭の下がる思いである。改めて昔の人がいかに大変な生活をしていたかを思い知らされ、またそのことをさらっと言ってのける古老は凄いと思った。あと昔の生活で気になったのは山間のこの地で魚はどうやって手に入れていたのかということだったが、これは行商の人から買っていたということであった。行商人は海に近いところとここ山内のような山に囲まれたところとを往復して海のもの山のものを買っては運んで売り、その金でまた買っては運び…というようにして生計を立てていたそうだ。極めて効率の良い賢いやり方である。
とこれが古老から聞くことができたことである。一番の目的であったしこ名については全くと言っていいほど集めることができなかったが、その分昔の生活などについていろいろと教えてもらったのでレポートとしてはともかく個人的にはいい経験になりこれはこれでいいのかなと思っている。その他感想は後で述べることにする。
感想
今回の調査は自分たちの行動を反省してみると、あまり「上手くいった」とはいえないだろう。まず、山内町に関する勉強不足といったものがあげられる。私が山内町に行ったことがある。祖母がいる、といった時点で山内町に関するある程度の予習を怠ったのはやはり問題があった、と感じられる。たとえば、今山地区の場所と、どのような地区であるか、というのは事前に祖母や父に聞いて知ってはいたが、かといって山内町史については殆ど知らなかった。また、そういった理由で田以外のことについて重点を絞りきることができなかったのは、やはり苦しかったのではないか。
しかし、今回の調査で学んだことがある。それは、山内町に昔からの伝統がいきている、ということである。それは例えば、方言であったり、生活習慣のようなものであったり、自然であったりする。しかし、もっとも重要なのは、今回調査の対象となった田ん中の名前、つまり「しこな」である。今回これに関してはあまり集められた方ではない。しかし、都会で生活しているものにとって、このような昔から残っている地名が今なお残っているのは素晴らしいことであると思う。このような地名などは使われないとすぐに人々の間から忘れられてしまうものであるからである。
小学校時代に4、5年程隣町である武雄市に住んでいたため、佐賀弁など言葉の面では別段不自由することはなかった。また、山内町のあのあたりを歩いたこともあり、道に迷うことはなかった。その点は私がここのあたりに住んでいた、といった強みでは無かっただろうか。もうすこし、強みを生かしたレポートを仕上げたかった。最後に、調査に行った際にお世話になった、浦川さん、松尾さんにお礼を申し上げて、この感想を終わらせたいと思う。どうもありがとうございました。