踊瀬

L14   1EC98    塚本 暁裕

山田保さん;明治42年生まれ

訪問した村;踊瀬
しこ名一覧;カヌキワラ、オオフケ、ジョウトク、イノタニ、ゼンキョウジ(善教寺)、カサヤブ、ウトゲ、       ウシノタニ、イデノタニ、イタバシ、ウッツキダニ
田 畑  ;小字松尾周辺  カキヌワラ
      〃 百堂周辺  オオフケ
      〃 六反田周辺 ゼンキョウジ
      踊瀬橋周辺   イタバシ
他    ;天満宮上の山地  ジョウトク
      小字鳥越     ウトゲ
      ウツキ谷     ウッツキダニ
      堂手の下周辺   カサヤブ
      赤坊       イデノ谷
      天神谷の下    ウシノ谷
      ウシノ谷の斜め下 イノ谷

   川の水は流れている範囲で汲み上げていた。
   用水池は、永尾、踊瀬、犬走と分かれて使っていた。

   村の範囲地図中オレンジの枠内
   しこ名は青ペンで表記

戦前〜圃場整備までの農業
   比較的整備されていた。
   大きな水田は、牛や馬で耕し、小さい水田は、すきやくわで耕していた。
  大きい水田といっても、広さは畳10帖ぐらい大きさで、牛や馬が、耕す幅は、B5サイズ程度だった。
  そのため、牛や馬を引っぱて、何度も何度も往復して、耕さなければならなかった。 また、慣れてい    る牛なら、何をするのか分かっているため、やりやすかったが、慣れていない牛のときは、いうことを  きかせるため、力を入れて引っぱらなければいけなかった。牛や馬は、一家に一頭は飼っていた。牛の  餌やたい肥は、手作りだったため、朝早くから草とりをしなければならなっかった。草を取るところは、  自分の土地でないといけないため、また、どこの農家も同じで、今のように草が生えている場所は、少  なかった。そのため、鉄道の人にお金を払って、線路のわきに生えている草を取っていた。草が生えて  いるところが少ないので、よその土地で草が生えているところが、非常にうらやましかった。しかし、  耕耘機などの設備投資や肥料代など費用がかかる今の農業と比べて、当時の農業は、金費があまりかか  らなかった。
  当時の農家には、自作と小作があった。自作農家は、自分の土地を持っており、そこで、米や作物を作  っていた。小作農家は、自分の土地を持っておらず、人の土地を借りて、作物を作っていた。穫れた作  物は、その半分を土地の持ち主の収入に、残りの半分を自分の収入にしていた。小作農家は、子供も多   く、貧しい生活をしいられていた。
  作っていた作物は、米のほかに、麦、じゃがいも、豆、甘藷やショウガなども作っていた。特に、踊瀬   のショウガは、“いんばしショウガ”と呼ばれ、香りがよく、大変人気のあるものだった。米は、農協   が買い取ってくれるが、その他の作物は、自分で売りさばかないといけなかった。ショウガは、よく売   れるため、40km離れた佐賀市内まで自転車で売りに回っていた。

 米作りの流れ
  麦など栽培していた作物を収穫する。
          ↓
  牛で田をすいて、耕す。
          ↓
  草を広げて、もう一度牛で田をすく。
          ↓
  水を張って、田植えをする。
          ↓
  田おい車で土をほる。
          ↓
  草取りを行う。〈3回〉
          ↓
  稲刈りをする。

 苗とりは、朝から晩までかかる仕事だった。米作りは、一日中暑い中行われ、重労働だった。そのため、  一家全員での作業になっていた。妊婦でさえ、赤ちゃんが生まれた直後からしばらくの間、働くことがで  きないため、本当に赤ちゃんが生まれる前日まで働かなければならなかった。稲刈り後は、田んなかで、   子供に踏ませたり、千歯を使って稲こぎ(脱穀)をした。そして。もみを3日ぐらい、外で干して乾燥さ  せていた。今と違って、機械で乾燥できなかったため、天気には、十分気を付けなければならなかった。
  そして、万ごくという道具を使って、もみを選別していた。  踊瀬は、四方山に囲まれていたため、日照時間が他の所と比べて短いため、村内では、収穫量の差は、あ  まりなかった。
  戦前の調査は、大ざっぱだったため、戦後の調査より収穫量が多い背伸びがいがあった。
 干ばつや大雨のときは、どうしようもなかったが、干ばつの時は、川から水を汲み上げ、田にかけて   いた。踊瀬は、今では堤防も高くなり、ダムもできて、大変防水対策は良くなったが、当時は、堤防も低    く、もともと水がたまりやすい所だった。そのため、大雨が降ると、辺り一面水浸しになっていた。そう     なると、稲は本当にどうしようもないので、前もって残していた苗を植え直したり、よそから苗をもっら     てきて、植えたりしていた。
     
当時の踊瀬の生活 
  大正8,9年頃に電気が通うまで、夜中は、ランプで、生活をしていた。ご飯はかまどで炊いていた。 
  燃料は、まきを使っていた。まきは、農業で使う草と同じで自分の山からしか取ってはいけなかった。し    かし、他人の山の木が売れたとき、その木についていた枝や、他人の雑木林に入って枯れ枝等は、取って    よいことに村で決めていた。山も田んなかも持っていない人は、生活するのに非常に苦労していた。生活   必需品は、近くの武雄市に行けば、何でも売ってあったので、そこで手に入れていた。  祭りは、天満宮、明神様、祇園とあったが、とても忙しく、遊ぶ暇など全くなかった。『朝は朝ぼし、夜   は夜ぼし、昼は梅干し食べて…。』という言葉があるほど一日中働かなければならなかった。   52歳頃から山内の方の九州外資に出稼ぎにに行き、68歳の3月に九州外資が閉鎖する自分まで働い    ていた。

私の一日の記録と感想
  午前11時半頃踊瀬付近に着く。田んぼと民家が、はっきりとわかれていた。位置を確認するため、    JR永尾駅に向かう。そこから、国道35号線に沿って歩き、踊瀬橋の少し手前から、踊瀬の下の方か    ら、入る。そのまま、その道路をあがる。そこから、5分程歩くと、公民館がありすぐ近くの脇道に入る   と、 井手があった。比較的大きな井手だった。道路のそばには、川が流れており、その両岸は、コン   クーリトできれい に整備されていた。水田には、機械か何かで水を入れているらしく、自動的に水が汲    まれていた。  
 水田の一つ一つは、耕耘機が使いやすいように、たいへん大きかった。公民館に戻り、また上に向かって  5分程歩くと、小さな社があった。踊瀬は、それほど大きくなく、15,6分程で上の方から下の方まで  歩き通ることができた。時間になり、山田さん宅にむかった。
 山田さんにいろいろ話を聞いた。今でも農業は、大変厳しい仕事と思っているが、『当時の農業からみる    と、今の農業は、非常にらくになった。』と言うことを聞くと、本当にきつい仕事だったんだなとおもっ   た。『若いとき、苦労をしていると今は、極楽。』と言うことを聞いて、本当にそうなんだなととしみじ   み感じた。