しこ名 永尾上 しこ名一覧 サンタダ(三反田)、デイセンジ(でいせん寺)、 カワラヤ(瓦屋)、ジゾウモリ(地蔵森)、ゴンゲンヤシキ(権現屋敷)、 カンプケ、オオゼマチ(大畝待)、ムタ(牟田)、マルガワ(丸川)、 シタンダ(下ん田)、フツワイデ(渕輪井手) ツツミンタン(堤の谷)、オニガハマダニ(鬼ヶ浜谷)、コヤマンタニ (小山谷)、コッコウダニ(国光谷)、ヒエダン(ひえ谷)、 ジュウエンダニ(十円谷)、ウウタニ(大谷)、イワヒャーノタニ (岩這谷)、カヤキバダニ(かやきば谷)、サカンタニ(坂ノ谷)、 ナシノキダニ(梨の木谷) シラキジョウ(白木城) カミコガ(上古賀)、ナカコガ(中古賀)、フクコガ(福古賀) シモコガ(下古賀) 田畑 小字上ノ原のうちに サンタダ、デイセンジ、カワラヤ、 ジゾウモリ、ゴンゲンヤシキ、カンプケ、 オオゼマチ 小字渕副のうちに ムタ、マルガワ、シタンダ、フツワイデ 谷 小字北国谷のうちに カヤキバダニ、イワヒャーノタニ、ウウタニ、 ジュウエンダニ 小字西谷のうちに ツツミンタン 小字中山のうちに オニガハマダニ 小字上ノ原のうちに コヤマンタン 小字裏山のうちに ヒエダン 小字谷口のうちに サカンタニ 小字牟田のうちに コッコウダニ 小字向仙のうちに ナシノキダニ 草切り場 小字上古場のうちに シラキジョウ シュウジ 小字上ノ原のうちに カミコガ 小字牟田のうちに ナカコガ、フクコガ 小字室ノ内のうちに シモコガ 村の水利 使用している用水の名前 不明 用水源 新堤、旧堤、朝日堤(以上ため池) 鳥海川 権現井堰、渕輪井手井堰、七郎権現井堰 共有している他の村 なし 昔の配水の慣行・約束事 水が上の田にある程度溜まったら下の田に流すという取り決めがあった。 取り決めがあった理由 田畑の高低差があったためそのままにしておくと上の田にばかり水が入り、下の田に 十分な水が入るのが難しくなるため。また田畑が細かく分かれているため、漏水が多 く、水を効率良く利用することができず用水不足であった。 昔の水争いの有無 他の村との争いはなかったが、村の中で、前に書いた取り決めを破って、夜の間にこ っそりと自分の田に水を入れる人がいたりしたので、そんな時はケンカになった。 村の耕地 昔の田んぼは、上田(反当7俵)、中田(反当6俵)、下田(反当5俵)とわかれて いた。つまり、収穫量の差は、最大反当2俵あった。上ノ原、渕副では比較的たくさん 収穫量があり、新替、大前田では比較的少なかった。その理由として、村の水利で触れ た理由、つまり上ノ原、渕副は高所で最初に水がきて、しかも田畑の細分化による漏水 などにより村全部の田畑が必要な水量をとることができず、低所の新替、大前田は、ど うしても割を食ってしまうことが考えられる。 戦前の肥料は有機質肥料主体で、有機物の家畜の糞尿・満州からの大豆カス、無機物 の薪の灰などを使っていた。 今では圃場整備、化学肥料、農薬などのおかげで、上田、中田、下田の差はなくなり、 どの田んぼも反当8.5〜9俵は収穫できるようになった。 村の発達 村に電気がきたのは大正末期頃で、プロパンガスがきたのは昭和50年代半ばだった。 それらがくる以前は、ランプには主にナタネ油が使われ、カチャーシュ(さざんかの一 種)の油も使われた。火力源には薪が使われた。その燃えカスの灰は肥料になった。 戦前はどこでもナタネをつくっていたので各旧町村になたねの油を絞る業者がいた。 食用、燃料などに使われていた。 村の生活に必要な土地 入り会い山は、永尾という行政区で全部で15町(15ヘクタール)ある。そのうちの 一部は水田に沿って存在している。これはなぜなのかというと、区有地にしてちゃんと 管理しておかないと水田に日陰が差してしまい、収穫量に悪い影響を及ぼしてしまうか らだそうで、そこから採れる木は薪にしたりしていた。そしてその薪の灰は前述のとお り肥料なった。生活に必要な量の薪は十分に採れ、誰かから薪を買う必要はなかった。 区有地のなかには用材林もあり40〜50年に一回は売りにだされたりするし、公共施 設をつくるのに利用されたりした。永尾の公民館もそのようにしてつくられた。 米の保存 米は、農協に出す前の時代は、産業組合に出していた。更にその前は、米商人に出して いた。青田売りはあった。産業組合は、米商人の搾取から農家を守ためにできた組織で ある。飯米の特別な呼び方は特になかった。 自家用米の保存にはかめ(どろがめ)を使った。このかめの中には1つで10俵分もの 米を保存できるものがあって、子供の時に中に入ってしまうと上がれなくなるぐらい大 きかった。普通の大きさのかめは米5俵分くらい保存することができた。かめは陶器な ので断熱効果があり、低温で保存するのに適していた。種籾はかめの中、または木箱に 保存していた。ねずみ対策には、蓋をつけることで対応した。50年前の食事における 米と麦の割合は、昭和15年〜昭和20年頃 (終戦前の4〜5年間)では、米:麦:芋(かんしょ)=6:3:1で、昭和21年〜昭和23年頃(終戦直後で1番の食糧不足時) では、米:麦:芋(かんしょ):山菜=5:3:1:1ぐらいであった。昭和21〜2 3年頃は山のつばやふきが全部まくなったのではと思われたくらいひどかった。生産者 である農家のひとは消費者の人たちとくらべて案外よかった。闇米が流行した頃だった。 農家の人たちは稗や粟を主食にしなければならないほどは困らなかった。消費者の中で はそういうことがあったかもということだった。昔は白飯のことを銀飯と呼び、なによ りのごちそうだった。 村の動物 農業が機械化される前は、牛が労役の柱だった。各戸に最低一頭はいて、雌牛を飼って いるところが多かった。雄牛はそのままだと暴れてしまい、労役に使えないので去勢し てから使っていた。牛の糞尿は肥料にした。明治後期〜大正頃は馬もいたらしい。博労 (ばくろう)はこっちの馬や牛をあっちに、というふうな商売をしているひとのことで、 口が上手く、騙された人とかがいた。 村の道 隣の村へは、国道ができる前の主要道路であった、地図の濃く茶で塗られた道を通って 行っていた。その道を通って、行商人が、徒歩・馬車・リアカーなどでやってきて、日 持ちがいい塩物の魚や干物の魚などを売りにきていた。塩物の魚や干物の魚は昔の蛋白 源だった。 昔の道では、年に2回、農繁期前に市が開かれていた。青空市場みたいなものだった。 山内町では、三間坂(みまさか)で開かれていた。塩物の魚や干物の魚、農業用の竹細 工用品、陶器などが売られていた。〜ノウテと呼ばれた道はなかった。学校道は昔はな かった。 村の祭り 村には、村の神様がいる鎮守社がある。ここの神様は大分の彦山の彦山大権現の系列の ものらしい。年に一回は部落の代表が大分の彦山にお参りにいっている。 村の祭りには、六月下旬の豊作祈願祭である早苗(さなぼり)、七月中旬の夏祭りであ る祇園祭、九月中旬には豊作感謝祭である彼岸こもり、がある。鎮守社は区に1つあり、 その区単位で祭りはおこなわれた。祭りでは必ず伝統芸能である浮立をやった。山内町 には山内浮立という有名な浮立がある。 昔の若者 明治〜大正初期には、夜這いという習慣があった。女の人の中には夜這いを期待した人 がいたりして、半ば公認のようなものだった。 昔の夜なべ仕事には、縄ない、むしろ織り、草履作りなどがあった。昔はむしろを織る 機械が各農家に必ずあった。むしろは、わらで作られた梱包用の包みのことで、陶器や 米を運ぶのに使われていた。夜なべは男女の共同作業だった。力が必要な仕事は男がす るなど役割分担があった。 若者達は夕飯のあとほとんど毎日泊り込みで青年クラブに集まっていた。娯楽の場、村 内外の人とのコミュニケーションの場、先輩が後輩を指導する場、そして、浮立などの 郷土芸能の伝承の場であった。酒をおぼえるところだったし、中には、スイカや干し柿 を盗みにいく人たちもいた。しかし、なにか事があったとき、例えば火事が起きたり、 泥棒が入ったりしたときには青年クラブにいけば若者がたくさんいるので助かった。よ その村の若者が遊びにくることはあった。酔っ払ってきてケンカがおきたりした。青年 クラブは昭和30年くらいまで続いた。犬走の青年クラブには共同風呂があった。永尾 にはなかった。 昔は学校からなにから男と女は分けられていたので男女の交流の場は少なかった。祭り の時、特に夏祭りの時には踊りとか芝居とかあって、村の内外の人々が集まるので、そ んな時が男女の交流の場だった。 他の村の人との結婚はできたが、差別されていた部落の人との結婚は親の反対が激しか った。それ以外の人とだったら自由にできた。 日本の農業への展望 今の世界情勢は一部をのぞき安定していて、国同士の話し合いが順調なことなどで日本 の輸出入はうまくいってるが、国際的に緊張が高まって、日本の輸出入のバランスが崩 れたとき日本人の胃袋をみたすだけの食糧はあるのか、という問題がある。 カロリー計算で食糧の国内自給率は42%、穀物の国内自給率は25〜26%(今の日 本人が一日にとるカロリーの平均は2500〜2600キロカロリー,米の国内自給率 は100%)、米以外は不足してしまうのは明らか。輸入でまかなっている食糧をいか に国内で生産するかを考えなければならない。日本人が最低とらなければならないカロ リーは1500〜1600キロカロリーといわれているのでこのくらいは日本国内でつ くろうと政府に要望している。 村はどうなっていくのか 山内町は農村なのに、農業所得は下から2〜3番めである。農家の95%は兼業農家で そのうちの8割が二種兼業である。若い人は農業以外の仕事をしに外にいってしまうの で百姓の70%は65歳以上である。百姓の高齢化のため、農業振興への積極的な取り 組みが起こりにくい。 農家としての所得には、農業所得と農外所得があり、その中で農業所得の占める割合は ごく一部で、息子さんなどが外で働いて得る収入とあわせると、農家所得は結構あり山 内町の人の生活は結構いい。 永尾ではヒノヒカリとアカネゾラを7:3の割合でつくっている。ヒノヒカリは晩生、 アカネゾラは早生(わせ)である。共同乾燥施設(昔は収穫したものを個人で乾燥して 籾摺り業者を個人のところに呼んで、籾をすらせて玄米にしていたが、これをやめて農 協単位で一ヶ所に集めてするようになった。そのための施設)が無理せず稼動できるた めにこうゆうふうに二種類つくっている。 一日の行動記録 9:00 九州大学の六本松本館前に集合、バスに乗る バスで移動 11:00 山内町永尾に到着 食堂で昼食 2人とも天ぷら定食をとった 13:00 秀島さん宅に到着 お茶やお菓子をいただきながらいろいろなお話をしてもらった 16:00 秀島さん宅を後にする おみやげにせんべいをもらう バス乗り場まで移動 16:35 バスに乗る バスで移動 18:30 九州大学の六本松本館前に到着、解散 |