佐賀県徳蔵地区のレポ−ト 1AG98082G 齋藤 映介 1AG98098P 志風 伸幸 お話を伺った方 多久島 守行さん 昭和6年生まれ 収集したしこ名… 田:川良野に、溝ノ上、トリ越え、三夜(サンヤ)さんの下、天神(テ −ジン)モイ、天神さん前 前田に、チョイノ下 大野原・久保田に、天神さんの下 井堰:河原野に、溝ノ上井堰 前田に、チョイノ下井堰 大野原に、カバ−井堰 久保田に、ハダイデ井堰 その他:河原野に、ガブロ(水が集まる場所)、寄り合田(ヨリヤ−ダ、祭 りに使う米を、村同士が共同で栽培する田)、タブノキ さん(洗濯場)、コセンジョウ、天神森(テ−ジンモイ) 琵琶首に、キンジョオトシ(昔の水泳場所)、三夜山(=地蔵さん、 イボ観さん、天神) 上原に、丸山(世界最小?の死火山、採石場) 徳蔵に、シンツツミ 陣の上に、陣(昔の山城跡では?) 特に場所はなく、ミズオガワ、ウマイデガワ、眞土手(マドテ) 佐賀県徳蔵地区NO・1 質問 1994年の大旱魃について 旱魃は起こったが、田んぼにはある程度の水が流れていた。お盆まで水があれば、半分は収穫可能である。一方、生活用水は断水など制限された。30年以上前だったとしても、変わらないだろう。 昭和13年にそれよりひどい旱魃があり、川の水が完全に干上がり、川の中に井戸 を掘った。昭和42年には大水害の後に大旱魃が起こり、30数箇所で土砂崩れが起 こり、材木が流出した。 古道について 細い道は圃場整備で無くなったが、太い道は大体そのままである。高圧線について は、昔は田んぼの中(天神さん前)にあった。 品物の流通について 野菜(芋、なす、きゅうり)、花(ほとけさん、榊)をつくり、40分歩いて水尾 の方へ行き、人糞と交換して帰った。 塩は農協で買い、不足しているときは塩釜で海水から作った。魚は伊万里まで行き、 調達した。 現金収入について 有田まで出稼ぎに出るか、地主の田んぼで小作をしたり、山仕事をしたりした。 大工などの仕事を持っているものもいた。 電気の普及状況について 最初は一家庭に2つの電球しかなく、街灯もほとんどなかった。 ラジオは玉音放送のときにはどこにもなく、テレビは、昭和32年に電気科の先生 が買うまでなく、36年から39年の東京オリンピックごろに普及した。 電話は部落に一つ、長の家にしかなく、町内では有線放送を用いた。 米の保存法について 保存には常にネズミ、ゴキブリ、ハエがつきまとい、そして床下にはモグラという 敵まで存在する。そのため米を米かんかんという五俵かんにいれ、ホウ酸だんごのよ うな罠を仕掛けた。また、最近では農協の貸し倉庫を利用する。 佐賀県徳蔵地区NO・2 祭りについて 正月 三夜さんの祭り 24日 昼から徳蔵と淵の上共同で担当を1軒ずつ決める。 いせ公(地蔵神宮)にて、飲んで食べることに終始する。 25日 天満宮道真公の祭り ひばいこうしゃの一員として、代表者が太宰府に米と酒を奉納 する。また飲む。この祭りは今でも続いている。 4月 観音祭り ・おちゃこう…いえまわし ・新婚さんは参加しない。 ・般若心経…お経の練習する 4月末−5月 花見 ・公民館で一緒にする。 ・以前は2日にかけて行われていたが、今は1日しか行われない。 6月末 田祈祷 ・田植えの後に行われる。 ・豊作を願い、虫、水害から守られるように祈る。 ・八幡神社の虫除けの御札をもらい、田んぼにさす。 8月16日 祇園 ・お盆に八幡さんへ行く。 8月20日 ほりのうち ・祇園観音へ行く。 10月29日 くんち ・秋祭りで福岡から専門の人を呼んで流鏑馬をする。 10月31日 神待(かんまち) ・神様が出雲から帰ってくるので、出迎える。 11月 おひまつり ・晩に酒をのみ、皆で泊り込む。 ・朝早くに餅つきをし、酒と共に飾る。 ・豊作を感謝する祭りである。 最近はどの祭りも簡略化の傾向にある。また、他地域から移ってきた人は、宗教の 違いなどにより参加したがらない。その為、花見祭りのみ全員参加とし、他は自由参 加ということになっている。 佐賀県徳蔵地区NO・3 若者について 寄合 昭和26年〜30年代に行われていた青年団活動のことで、祭りや相撲大会な どを行っていた。毎晩夜遊びをしていたとか……。 遊び 幼年期と青年期では、当然遊びも異なる。 幼年期…コマ,メンコ(ペチャと呼ばれていた),ビー玉,えんぽう(木の棒), くぎえんぽう,竹馬,凧,もくろうち等 青年期…遊郭遊び 昔はあちらこちらに遊郭があり、解答者はよく武雄のものを利用して いた。しかし、昭和33年に売春禁止法が施行されてしまった。 夜や雨の日はわら仕事(わらじやむしろを作る)をした。 動物について 昭和30年〜45,6年頃まで、一家に一頭は牛、馬を飼っていた。畜産が目的ではなく、 田畑を耕すのが目的だった。取引きはばくりょうという人を仲立ちに、袖で手を隠し、 手信号で行われた。また、雌の方が高値で取引きされた。雌の方が気性が穏やかで、 雄よりも扱いやすいためである。雄はよく脱走をし、その度に物干し竿で追い込まな なければならなかったという。 畜産としては鶏を飼っていた。しかし、飼料に対する出費で、大半は何千万という 借金をしていた。 水利について たくさんの井堰により、水が平等に配分されるようにしていたが、水泥棒が出る ため、交代制で見張りを立てた。 その他 徳蔵池は戦時中に造られ、事故、自殺により何人も死者が出た。 チョイとは、昔、差別を受けていた部落の名称であるらしい。 佐賀県徳蔵地区NO・4 |