下黒髪

佐賀県杵島郡山内町下黒髪についての報告

東山陽介と林康広は、7月11日に山内町下黒髪にしこ名の調査にいきました。そこで、私たちは、単に授業の一環としての調査の域を越えた、御古老たちの人間力に触れることができました。

当日は、バスの道中は、小雨模様でしたが、現地入りするころには雨も止み、順調に調査を開始できました。わたしたちは、アポを13時にとっていたのですが、11時30分につき、とりあえず広場で昼食を食べました。広場からは山が一望でき、たまにこうゆうところに来るのもいいものだな、と思い、2人で感激しあっていました。
しかし、いかんせん時間が早すぎました。どうしようかと思っていると、広場の裏の畑で農作業している方がいたので、思い切って声をかけました。そのかたは、作業をしながら、私たちの質問に答えてくださいました。

お話してくださったのは、坂口ちよさん(大正10年生)。

残念なことにちよさんは、しこ名のことについては、ご存知ではありませんでした。主に、祭り、農業形態、村の生活についてかなり詳しく話していただけました。

<祭り>
夏祭 8月1日 黒尾神社
たての河内 8月20日 八幡神社
大野の天神 8月24日 黒尾神社
浮竜 9月23日
流鏑馬 10月29日

特に、浮竜が、重要な祭りのようです。太鼓をたたいて踊るのだそうですが、伝統のある祭りだそうです。
かつては、隣の村の大野といったりきたりで、芝居や踊りをしていました。そして、お土産にだんごを作って持っていきました。そのだんごというのは、‘がんびゃ’(方言:サルトリイバラ)で包む、柏餅のようなものです。いまでは、だんごを作ることも少なく、買って済ませているそうです。
また、これらの祭りは、かつては、青年団を中心に盛大なイベントでありましたが、今は、若者がいないこともあり、規模も小さくなりました。寂しそうに話されました。


<村の歴史>
住吉城の落人が移り住みました。
黒堂橋から白岳山にかけての地域(黒髪地区)には、その落人の姓“坂口”さんが多いのです。


<村の農業形態>
14,5年前に、圃場整備が行われ、形態は大きく変わりました。
機械を導入できるようになったことが最大の変化です。そして、その圃場整備のときに、村の水路も小さな溝が大きくなりました。
ちなみにちよさん一家は機械を導入したのは、つい6、7年前のことだそうです。

今、かつて米を作っていた田ん中で、ちよさんは、大豆を作っていました。(転作)
減反政策によるものです。米も作っておられるのですが、自給こそしているものの、売ったりはしていないそうです。そんなにたくさん収穫できないのです。
私は農業に不適切かもしれないと思いながら“商売あがったりだ。”と感じました。
正直なところ、米を作りたいそうです。(失礼を承知で、米を作りたいのかたずねたところ、いやな顔一つせずに答えていただけました。)米を作りたい理由は、何と単純、らくだから、だそうです。そんなことまで気さくに話していただき、本当に感謝しています。

先に少し触れましたが、黒髪地区は、白岳山のふもとにあります。
その山の斜面を利用して、“谷田”を作っていました。谷田とは、私たちが、言うところの棚田のことです。
山の斜面ですから、作業は、大変です。従って、動物の力を利用しました。
昭和40年ころまでは、谷田に牛を入れていました。機械は、入らなかったそうです。牛は、一家に一頭はいたそうです。現に、私たちは、黒髪地区で牛を見ました。
ちなみに、ちよさんの飼っていた牛の名前は“みささ”です。

そして、農学部である私たちは、農薬のことも伺いました。これからの私たちの参考、いや、それ以上のものになるかもしれない生の意見だからです。
ちよさん方では、消毒するのは、たったの二回だけです。その消毒たるや、強力なものらしいです。ほとんど、虫のつくことはないそうです。(昔との比較による)そんな今の農薬をちよさんは怖いとおっしゃいました。
また、農薬とは、直接の関係はありませんが、ダイオキシン問題も気になっています。むらの家では、たいていのものを自分の家で焼却していました。有害物質を出すナイロン類などもです。しかし、昨今の環境問題に関する報道、情報は農村にも浸透しています。
燃やすときに考えるようのなったそうえです。洗剤にも気を配っているとのことです。

昔はたてのつながりがあったなー、ということをしきりに言っておられました。魚とかを‘お兄さん’の指示に従い捕まえたり、みんなで山に虫を採りに行ったりしていたそうです。そういうことも今は少ないようです。

ちよさんは途中でわたしたちのいるあぜのほうへやってこられ、世間話を含め約1時間くらいお話していてだけました。最初にこんなにいい人にあたり、わたしたちは相当ついている、と思いました。


ちよさんにお話を伺った後、私たちはアポをとっていた吉田茂信さん方へ向かいました。
実は、お手紙を出した段階でのお返事は、OKともNOともとれるものでした。しかし、どうにか少しでもお話を聞けたらと、茂信さんをたずねました。
茂信さんは、話すのを渋っておられるようでした。それには理由がありました。茂信さんは、土地を離れておられたのです。だから、いいかげんなことを話すのも嫌なのでした。
実際、茂信さんは、御古老というにはあまりに若かったのです。
そんなわけで、茂信さんからは、情報を得られませんでした。しかし、御古老の方を紹介していただきました。
その御古老の家に向かう途中、今度は、偶然役場で働く方に出会い、お話をうかがう事ができました。坂口竹春さんです。しかし、私たちが、役場に残っていないような情報がほしい、という旨を伝えると、区長さんの家に連れていって下しました。区長さんは、相当この村の歴史関係に強いとのことでした。校長先生をしておられるそうです。竹春さんの軽四のうしろにのっかり、すっかりワイルドな気分で、区長さんの家に着きました。が、留守でした。よし、今度はお寺の住職を紹介してやろうと、無動院に連れていっていただきました。しかしそこでも、御古老は不在でした。そこで幸運にも、その家のお姉さんに、違う御古老を紹介していただき、連絡までしていただきました。
その方が、坂口兼二さんです。(大正14年生)

兼二さんは、地図などの資料をたくさんお持ちで、この人なら、と思いました。しかしいくら尋ねても、“私たちは字名で呼んでいるよ”とお答えになるのみでした。

<村の生活>
〜塩について〜
終戦後一時は、伊万里に薪を持って、リヤカーを引いて作りに行っていたそうです。

〜電気、ガス〜
昭和30年頃テレビがきたそうです。
ガスは、昭和40年頃きました。
兼二さん方では、風呂は今でも薪だそうです。


<村の歴史>
戦前は、古賀さんという一家の2軒(本家と分家)が地区の土地の3分の2を所有していました。地主だったのです。当然、小作の人取り分は少なく、しかも、いい米を古賀さんに送らなければならなかったそうです。そして、圧力を受け、、苦しかった。損をしていました。
しかし、戦後は、開放政策により、土地は、平等に分配されました。したがって、自分の思うままに、農業を営むことができるようになりました。取り分は自分のものになるわけですし、やればやっただけ自分の収益になるから、意欲も湧いてきました。
また、昭和37年ころまでは、有田の焼き物工場に出稼ぎにいっていました。それも、自転車で!

昭和29,40年に、それぞれ洪水がありました。死者も出たそうです。
そういうわけで、川がだめになってしまいました。その時、発電所から水をあげてまいて、乗り切ったそうです。
基本的に、黒髪地区では、自然の水(川、池)を利用し、農業をされるそうです。よその地区では、ポンプで水をくみあげているところもあるそうです。


<村の農業のこれから>
兼二さんの若かりしころは、汗水たらして働きました。しかも、前述の土地の歴史的な背景もあって、土地を先祖代代のものとして非常に特別な思い入れを持ってみておられました。村のどこの農家もその思いは同じだっただろうといいます。
しかし、今の若い人はどんどん土地を離れていきます。そして、先人たちの護ってきた土地を大切にしているようには思えない。そう感じておられます。
結論として、兼二さんがおっしゃるには、圧倒的に少ない人数で、田畑で仕事するだろう、ということです。現在、30ちょうの土地を60人近くの人が、農作業しています。
しかし、遅かれ早かれ、この土地を5,6人でやっていくことになるだろう、むしろそうしないと無理だと言っておられました。兼業ではちょっとやっていけない、ということです。
子供たちがすることもないだろうと、残念そうに言っていました。

兼二さんは、この話をされたときが1番熱かったと思います。その口ぶりからは、村の将来を危惧することが、伝わってきました。それだけ自分の村を、先祖代代の土地を愛しているんだな、と思いました。

村の祭りについては、先のちよさんとほぼ同内容でした。

兼二さんは、かなり多岐にわたっての物知りでおられ、非常にためになるお話を私たちにしていただきました。



結局、私たちは、しこ名についての返答を得ることはできませんでした。兼二さんでさえご存知でなかったのは意外でした。しかし、村の生活については、成果を上げることができたと思っております。今回の調査で、今までとは違った視点から物事を考える時間が持てました。プラスになったと思います。
“先生は教壇の上だけにいるのではない”と言う服部先生の言葉もよく理解できました。
と同時に、私たちにかかる期待と不安を感じました。私たちは、この体験を生かし、参考にして、(特に私たち2人は農学部という農村とはつながりのある部署にいるわけですから、)役立てていくべきだと感じました。


村の人たちが本当にいい人ばかりで調査をしていて楽しかったです。感謝しています。ありがとうございました。


農学部 2−26 東山陽介 1AG98184T
農学部 2−26 林康広 1AG98178W

調査地区:山内町下黒髪
調査日時:99年7月11日