村の名前:赤田 しこ名一覧 クロタケ(黒岳) アカイシ(赤石) サンジュウダー コウミテ サシキ(佐敷) シマメグリ カマンツジ シクダ ハルハシ サンダータ ワカミヤド(若宮宿) ガンジョク コノ コダニ(小谷) マツント ヒャートコ ナキビス ナナキリダ サタイシガキ 田の名前 小字古屋敷のうちに;クロタケ(黒岳) アカイシ(赤石) サンジュウダー セタイシガキ マツント コウミテ(原と重複) 小字原のうちに:コウミテ(古屋敷と重複) サシキ(佐敷) シマメグリ ハルハシ サンダータ 小字上原のうちに:ガンジョク コノ 小字萩原のうちに:ワカミヤド(若宮宿) コダニ ヒャートコ(七切田と重複) 小字七切田のうちに:ヒャートコ(原と重複) ナキビス ナナキリダ 畑の名前 小字原のうちに:カマンツジ 橋の名前 小字原のうちに:ハルハシ 谷の名前 小字黒尾岳のうちに:フナゾコ 村の水利について 水は七切田から引いていて小谷の上で二つに分かれていた。特に近隣の村々との水利をめぐる争いはなかった。年度により、「米一斤」などというように決めて水番に払い、水番は、約束の米を受け取ってそれぞれの田に水を引いた。水番は、大抵選挙によって決まる。決まった任期というのはなく体力の続く限りやるそうだが、水番の仕事は、毎日池まで確認に行くため体力的にも厳しく、危険が伴うので、やはり水番が高齢になるとやめるということになっていて、大体の任期は十年である。水をもらう農家の側としては、水は米を作る上で必要不可欠なものなので、水番を選ぶときには、なるべく公平な人を選ぶということだ。1996年(平成六年)の大旱魃の時には、出水に頼ったり、ガンジョクから汲んだり、タンクで水を運んだりした。田を少ししか持たない人は、その程度でも田が湿るくらいにはなるが、一人で何反もの田を持っている人は、ほとんど何の効果もなく,その年は,全くといっていいくらい米は取れなかったそうだ。そんな旱魃の時でも水をめぐる喧嘩はなく、早い者勝ちというような意識だったという。これが50年前だったらどうなっていたでしょうかと尋ねると、笑って、そりゃあもう、どうしようもなかったと答えられた。 村の耕地について かつては、赤田村の中でもやはり、良く米が取れる所と、極端に取れない所があった。良田のうちでも最も良い所が萩原のあたり、あまり取れなかったのは黒岳のあたりで、良い田と悪い田では納める税金も違っていた。化学肥料が入る前は肥料としては人糞が使われていた。自分の家で出る分だけでは足りないので、自分たちで有田の町まで人糞をもらいに行っていた。もちろんただでもらうわけではなく、一年契約で代金は米で払っていた。 村の発達について 電気が引かれたのは大正20年ごろ。それまでは、夜は菜種油のランプを使用していた。 共有林について 赤田のあたりでは、黒岳が共有林になっていた。共有林は皆の持ち物であったが、個人で勝手に入ることはできなかった。また、個人でなくても勝手に立ち入ることはできなかった。一年に一回必ず枝打ちなどの手入れをするように決まっていて、各家から一人ずつ、無償で奉仕した。この手入れの日に、必要な人は薪にするための木を少し持っていったりすることはできた。この日以外で山に入るためには、区長の許可が必要だった。共有林は、村の人皆の持ち物だから誰でも入って使って良いものではなく、共有のものであるからこそ個人的に勝手に立ち入ったりすることのできないものだった様である。 米の保存、塩などについて 米を農協に出す前は、商人が来てその人たちに売ったり、産業組合に出荷したりしていた。今では田はそれぞれ個人の持ち物だが、以前は地主がいて、ほとんどの人は小作人だった。そのため、米ができても地主に小作料を払わねばならず、一反で六俵取れるうちの五俵は小作料に納めていた。六俵中の自分のうちに残す一俵は、一番よくないものを残した。そのうち、自分たちの食事として食べることができるのは三割で、残りの七割は来年の分の種籾にとっておかねばならなかった。種籾にするものは稲こぎでこいで袋詰にし、ねずみに食われたり無くなったりしないようにはこの中に入れて大事に保管した。普段の米については、ねずみの心配をしようにも、ねずみに食われるほどの米がなかったそうで、強いてねずみ対策というと、猫を飼っておくくらいのものだった。一年のうちで白い米が食べられるのは正月とお盆くらいのもので、いつもは麦飯を食べていた。塩は、誰かが売りに来てくれるわけではなく、やはり自分たちで取りに行かなければならなかった。グループで薪を力車に積んで行き、伊万里黒川まで行っていた。海の水を蒸留して、塩をつくるところから自分でやっていた。そのため、その塩には、今店で売っている塩では精製されてなくなっている「にがり」が含まれたままで、にがかったそうだ。魚は、新鮮なものを食べることはほとんどできなかった。 村の動物 牛や馬は、田おこしのときにいなくてはならない労働力で、一家に一頭が原則だった。馬や牛を持っている家では、収穫が済んだ後は、次の耕作の準備をするまで少しゆっくりすることができたが、持っていない家では田作りを人力に頼るため、収穫が済んだらすぐに来年の耕作のための田作りに入らなければならなかった。ただ、ほとんどの家が所有しているのは牛で、馬を持っていたのは25件のうちたったの2件だった。牛を持っている家でも、その大半は牝を飼っていた。雄牛のほうが力は有るけれども、値段が高く、扱いにくいことから牝を飼う家が多かった。馬を飼っている家では、農作業のほかに馬車として荷運びをさせたりして、「じんとり」といってそれでお金をもらったりしていた。ばくろう(博労、あるいはばくりゅう)と呼ばれる人達がいて、牛や馬はその人達を通して売り買いしていた。彼らは概して口がうまく、取引に長けていた。例えば、A氏が子牛の頃から育てて、農作業のいろはをきっちり教え込んだ牛が大きくなってA氏が使えないと考えたときに、ばくろうがやってきて新しく子牛と交換し、差額を払う。そして今度はその交換した牛をB氏のところに持っていってさっき出た差額以上の値段で売る。聞き取りをしたお年寄りの時代には、すでに口交渉だったそうだが、その父親の時代には、「そでのうち」という取引方法が用いられていたそうだ。予め、親指は一本いくら、人差し指ならいくら、というように値段が決められていて、ばくろうと取引相手の農家とで手を握り、その上にタオルをかける。そしてお互いに指を握り合って、値段交渉をした。牛一頭二万くらいというのが大体の相場だったそうだが、農家のほうは、そもそもの「指一本いくら」の値段を知らずに、取引が終わってみれば、とても牛一頭に似合わない値段で売りつけられていたり、反対に非常に安い値段で買われてしまったりして、泣きを見る羽目になった人も多かったそうだ。 祭りについて 赤田村には、お稲荷さんと金毘羅さんとお観音さんの三つの祭があった。お稲荷さんは、黒岳にまつってあり、金毘羅さんは、小字で言うと原の四斗切池の右手にある山にまつられていたが、こちらは、もうお祭りもなにもしなくなって10〜20年くらいになるそうだ。お観音さん祭は、今も、8月の15日に行われていて、その建物は、部落長など3人の名義で登記簿に載っている。名義は、代々世襲するものではないようだが、やはり普通の不動産と同じように、現在の名義人が亡くなったら、その子供が名義を受け継ぐことになっているそうだ。 以前は、どの神様に対しても、それぞれの村人が、自分が気が付いたときに、掃除をしたり、赤飯や魚をあげたりしていたが、今では、そういった意識は薄れてしまって、全員できっちりお金を出し合って、その範囲の中でお祭りするようになったということである。 昔の若者について 青年達は、青年クラブというものを作っていて、夜になると公民館のような所に集まって、雑談をしたり、将棋や囲碁をしたりした。当時、村の家はどこも鍵などかけなかったので、夜中に若い女性のいる家にこっそり忍び込んだ。個人個人で好き勝手に夜這いをかけるわけではなく、そうして青年達が公民館に集まっていたら、年長のものが「行ってこい」といって行かせるのだそうだ。そういった風習は、村の中では秘密にされているわけではなかったようだが、明るいうちに行って家のものに見つかったりなどすると、やはり非常に恥ずかしい思いを後日することになるので、皆、かなり夜がふけてしまって、人々が寝静まってしまった後に行なっていた。しかし夜這いをかけるといっても、その相手の女性がちゃんとした恋人かというと、別にそういうわけではなく、またいつもいつも同じ女性の所に夜這うというわけでもなかったそうである。また、女性は女性で、観音講と言うものを作っていて、17日なら17日と日にちを決めて集まり、雑談などをしていた。隣りの村々との行き来も盛んで、若者同士も、良く遊びに行ったり来たりしていた。もちろん、そういった夜這いの類は、妻帯者は慎んでいた。 その他 ・ 小字萩原の丁度中心あたりは、かつて山だったが、現在は豚舎などが作られ開かれて しまっている。 ・ 七切田の左手、小字古屋敷の中心に位置する山は、コウボシカブリとよばれていた。(弘 法大師の頭の意味) ・ 四斗切池は、現在は「四斗切」の字を当てるが、かつては「人切」の字を当てていた。 ・ 四斗切池の左手のカマンツジは、かつてそこに「筒江窯」があった名残だそうだ。最初に訪問した田中岩雄さんのお宅の前には「つつえがま」という窯があったが、それは以前の「筒江窯」とは違うので、わざわざひらがな表記してあるということだ。 ・ しこ名ガンジョクの中を流れる綱内川にかかる筒江橋は、むかしはガンジョク橋と読んでいた。また同じく、しこ名ハルハシを綱内川から分かれた小さな流れが横切っているが、その川にかかる橋も、かつてはハルハシと呼んでいたそうだ。 ・ 学校までの道のりは約29キロほども離れていて、行くのに3時間もかかったそうだ。 ・ 黒髪山にまつわる言い伝え 鎮西太郎為朝がこの値で大蛇退治をしたとき、退治した大蛇の流した血が流れ込んで、田が赤く染まったので赤田という地名がついた。また、その大蛇を退治した後、鱗を牛に引かせた車で運んでいたら、あまりの重さに牛の首が落ちたということから、牛首というしこ名がついた。 7月11日の行動記録 9:00 九州大学六本松キャンパス集合。 9:15 2台のバスに分乗して出発。 11:30 バス降車地点到着。これより赤田村まで徒歩。 12:00 赤田村、田中岩雄さん宅到着。到着はしたが、丁度お昼時間帯だったこと と、「1:00に訪問させてもらう」としていたので、訪問する前にそとで 昼食。 13:00 田中岩雄さん宅訪問。しこ名を中心的に教えていただく。奥さんのはつよ さん、息子さん夫婦もいっしょに家族総出で教えてくださった。1時間ほ どお話をしていただいた後、松尾勝六さん宅を紹介していただく。松尾さ ん宅まで車で送っていただく。 14;00 松尾勝六さん宅訪問。風習や昔の村の姿を中心的に教えていただく。1時 間半ほど。 15:30 松尾勝六さん宅を出る。 16:00 バス乗車場所到着。松尾さん宅から帰る道すがら、別の学生を送っていっ たほかの村の方が、わざわざUターンして車で送ってくださった。 18:00 九州大学六本松キャンパス到着、解散。 |