古レポート:歩いて歴史を考える 佐賀県杵島郡山内町宮野おおさこ大砂古における現地調査 安田文彦 三代達也 <藤崎ワカエさんからの聞き取り調査より> 1 しこ名2 について 村の名前 しこ名(カタカナ)一覧 大砂古 田畑 小字大砂古のうちに ウシノクビ(牛の首)、ドンデンビラ カンマイダ(神前田、神待田) トウゲンサキ、ヤマンカミ コウガシラ(甲頭)、アントウ シモヒラ、ヒガシンタニ、ヒガシンツジ、ミズアライ(水荒)、コサコ(小砂古)、ヌゲ、フタツエダ、フジンタニ、 ナカンコバ(中古場) しこ名とは、仕事をはじめとする日常生活の様様な営みの中で便宜的に使われているその土地特有の地名である。今回、聞き取り調査を行った結果、16個のしこ名を見つけることが出来た。これらのほとんどは由来がはっきりしていなかったが、ウシノクビ(牛の首)については伝説が残っていたので以下に記しておく。 ウシノクビ(牛の首)の由来、、、、、昔黒髪山にいた大蛇を退治したとき、うろこがひとつある牛に付着した。このうろこがあまりに重いので、牛はある峠で鳴いた。そして、更に歩いたが重さのためある場所でとうとう首が取れてしまった。 現在では、牛の鳴いた峠は「ナキウシトウゲ」、牛の首が取れた場所を「ウシノクビ」と呼んでいるということだ。 3 村の耕地について 大砂古の田は全体的に見て良田が多かった。その中でも特に収穫の多かったのが、「ドウデンビラ」という一等田であり、税金も相応に高かった。以前は、「トウゲンサキ」という、大砂古から少し離れた場所であも稲作が行われていたが今では荒地となってしまっている。 レポート:歩いて歴史を考える la199242T 三代達也 la199256G 安田文彦 大砂古では以前牛の糞などを肥料として使っていた。今では、化学肥料が主に使われるようになった。藤崎さんは、様様な名前のついた化学肥料の流入に多少混乱しているとおっしゃっていた。 4 村の発達について 大砂古に電気が来たのは、大正7年、ガスが来たのは戦後であった。電気が来たのは、ほかの村と比べても早いほうだったらしい。電気やガスがくる前は、当然薪を使っていた。薪は倒してから一年待って乾燥させなければ使えない、ということを教わった。藤崎さんの家では、今でも薪を使って風呂を沸かしているそうだ。薪は裏にある山から取ってきているそうだ。以前は水道がなかったため水くみにもいかねばならず、大変だったとおっしゃっていた。 薪に関連して、林業の可能性を尋ねたところ、運搬の困難さとコスト、そして外国材の輸入を考えると、林業を行うのは困難だということだった。 大砂古を歩いていると、街灯がないことに気づいたので、田やため池に落ちたりしないか尋ねてみた。すると、村の道については慣れているからめったに落ちることはないとの答えが返ってきた。経験のなせる技だなと思わず感心してしまった。おそらく電気のなかったときも、その不自由さを経験の蓄積によって解消していたのだろう。 5 米の保存について 大砂古には、昔「協同組合」という組織があった。これが農協に発展したとのことだった。 さて、米は収穫されると「協同組合」に持って行かれた。そこで他の人が持ってきた米といっしょに保存された。保存方法についてはあまり考慮されておらず、6~8月にかけての湿気の多い季節には虫が米に付き大変だったらしい。また、ねずみも当然のごとく現れ、ずいぶんの被害に遭ったらしい。 今では、冷凍によって保存される方法が用いられており米については被害の心配は少なくなった。(冷凍することで米の味は多少落ちるらしいが)しかし、最近になって、農業を行っている人々の頭を悩ませる新たな問題が浮上しているそうである。 その問題の主はイノシシである。山に餌がなくなったのかどうか知らないが、ふもとに下りてきてせっかく収穫した琉球いもや赤サトイモを食べてしまうらしい今のところ人間に危害は加えていないが、被害額が場合によっては6万円にもにものぼり困っているとおっしゃっていた。 この話しをしている時に冗談めかして「まさか熊は出ないでしょう?」と尋ねたた。すると、「熊は出ないがそれに似たムジナという動物のコドモの死体が見つかったことはある。」という答が返ってきて意外な答に苦笑してしまった。 6 昔の食事 昔は米と麦を混ぜて食べていたらしいが、どのくらいの割合で混ぜていたのだろうか。 米と麦の割合は戦前と戦後とで違ったそうだ。 <戦前> 米:麦=7:3 <戦後> 米:麦=6:4 戦前はごく普通の平隠な生活を送っていたが、戦争で一変したとおっしゃられた。戦争中はずいぶんと搾取があったため上記の割合で炊いたご飯を大根をおかずにして食べていた時期もあったそうだ。戦争の愚かさに怒りを覚えずにいられなかった。 稗や粟について、食べていたかどうかたずねると、稗を食べることはなかったが、粟は「もちあわ」といってお菓子のようにして食べていたということだった。 魚介類については行商が伊万里から赤田をとおって売りに来ていたということだった。今では高価なものになったイワシを箱単位で買い、自分たちで干物を作ったりして食べていたそうである。 また、蕎麦も作ったことがあるという話があった。蕎麦は精製する日が協同組合の中で決まっていたそうだ。蕎麦は特別なものであったことがうかがえる。 7 村の動物 馬は昔一頭いたくらいで大砂古ではそんなに必要とされていなかったようである。牛に関しては今では減ってしまったものの、昔は各家10~30頭くらい飼っており、人より牛の方が多いくらいだったそうだ。牛は主に肥育したり子供を育てたりして売ったそうである。先にも述べたが牛は減少の傾向にあり現在は、ウシノクビに牛舎があるくらいでほかはほとんどその名残を残していない。 動物に関連して博労がいたかどうかを尋ねてみた。 大砂古にはいないが他の村にはいて主に牛や馬の交換をしてもうけていたという答が返ってきた。大砂古では「ばくりゅうさん」と呼ばれ大分親しまれていたようだ。様様な場所で売買を行っていたのだから親しまれるのもわかるような気がする。しかしながら、売買にはバクチ的要素も含まれていたようだ。ちなみに、今でも「ばくりゅうさん」はいるらしい。 8 昔の若者について T―未成年時 未成年のときの遊びにはまりつき、ゴムとび、じゅん竹、シイのみとり、木登り、鬼ごっこ木と木の間に自分でつくったブランコなどがあった。藤崎さん自身もかなりのおてんばだったらしい。今の子供が外に出て遊びたがらないのに比べて昔はかなり活動的だと思った。 じゅん竹…・小さく棒状に切った竹を12本用意する。数字を片面に書きその面を伏せ、相手がその数字をあてるというゲーム。 U―青年時 大砂古には今はなき「青年クラブ」という集団があって現在の公民館の近くに8畳くらいの囲炉裏のある建物がありそこで酒を酌み交わしたりしていた。そこでの出来事はあまり公にされなかったともおっしゃっていた。力石などの遊びはなかったということである。 また、この地域ではほかの村から来た若者たちを妨害するということはなく。極めて友好的であったらしい。恋人を作る方法は今も昔も変わらないと藤崎さんはおっしゃっていた。 9 これからの村について。 藤崎さんは「村の若い人はどんどん村を離れていってしまっているという現状は否定しえないが、今の村の状態がずっと続いて欲しいと思っている。」とおっしゃっていた。この自然体の表われているコメントには心を動かされた。 <丸田富馬さんからの聞き取り調査> 現地に到着して、食事時が過ぎるのを待っていたとき、偶然丸田さんに出会った。丸田さんにはトラックである神社につれていっていただき、かつ歴史の一端を語っていただいた。そこで教えていただいた事を以下に記す。 案内していただいた神社は八坂神社といって、この土地では「ぎおんさん」と呼ばれている神社であった。この神社は黒髪山にある黒髪神社から分家したものであるということだった。この地域の人は皆夏祭りや初詣はぎおんさんに参っていると言う事であった。夏祭りは毎年村の人たちで農道の草刈をした後、ぎおんさんに参り祈願をするそうだ。昔はそのあと神社内で酒を飲む宴が始まっていたらしいが、今は公民館で飲んでいるそうだ。百年を超える歴史を持つ神社だけに歴史を感じさせる構えになっていた。堂内は数年前に寄付によって新しくなっていたがその隣のお地蔵様は昔のままで、歴史を感じさせるオーラのようなものが感じさせられた。丸田さんには、偶然声をかけていただいたにも関わらず、そのあと6月の大雨で被害があまりなかったことや大砂古で一番古い家がどこでどういう人がすんでいるのかなども教えていただいた。 今回大砂古を調査するにいたって、多大な協力をしていただいた、藤崎ワカエさん、藤崎勝行さん、丸田富馬さん、どうもありがとうございました。拙い文章ながらも教えていただいたことを基に大砂古の歴史の一端を私達なりにまとめあげさせていただきました。記録違い、聞き取り違いにより間違いがあるかもしれませんので、もしお気づきの点がありましたら是非ご指摘下さい。本当に有難うございました。大砂古の皆さんがこれからも健やかでご活躍される事を願っております。 九州大学法学部 la199256G 安田文彦 la199242T 三代達也 |