大切

<調査者>;安藤真美 1AG98007G
安藤元恵1AG98008R
<聞き取りをした方の名前と生まれた年>;
田代幸吉さん; 昭和3年8月20日生まれ
田代継代さん; 昭和8年3月24日生まれ

<調査内容報告>
、しこ名について
私たちが調査を行った大切地区では、圃場整備事業がまったく行われなかったため、しこ名というものがなく、村の人たちは、地図に載っている小字を日常的に用いているそうである。圃場整備事業が行われなかった理由は、大切地区には谷田が多いなど、狭い立地条件のためで、ひとつひとつの田んぼの面積が小さく、隣接する田んぼとつなげても効果が少ないと判断されたからだそうである。しかし、他の地域で整備が行われた頃には、大切の畑も少し形が変わったり、道路ができたりしたそうだ。


、村の水利について
大切地区では、狩立(かりたて)の南にある堤(小さな湖のこと)から水をひいてくるか、出水を利用するかしていた。この堤は小さかったので、大切地区だけで利用していた。また、田んぼどうしがつながっていたので、水をめぐって争ったことはなく、堤に近い田んぼから水をひいていき、隣のたんぼに流していた。だから、渇水の時
でも水争いは起こらず、水が不足した時は、村中の田んぼが干上がっていた。
1994年の大旱魃の際には、村全体で取水制限が行われた。時間給水による、1日4時間ほどの給水時間の間に、ポリバケツで水を汲みにいっていた。この給水制限は、比較的短い期間で済んだらしい。しかし、水田にはまったく影響がなかった。というのも、昭和35年以降、減反政策により、10年ぐらい前を最後に、米をまったく作っていなかったからである。


、村の耕地について
大切地区の水田の多くは、傾斜地などに作られた谷田であった。そのため、水田が周囲の山の影となり、日照時間が短く、夏に水温が上がらず、他の村の田んぼに比べて
米があまりとれなかった。米がよくとれる田では、1反あたり12俵ぐらいであったが、あまりとれない田では、せいぜい4俵と、3倍近い差があった。この差は、やはり日照時間が影響していて、比較的日当たりのよい田んぼでは米がよくとれ、谷田などの日当たりの悪い田んぼでは、米があまりとれなかった。裏作をしていた田んぼは、村の半分ぐらいで、麦を作っていた。化学肥料投入後、2-3年は一時的に収穫量があがったが、その後は地力が衰えてしまい、稲に害虫がついたりと、長期的に見ると、それほど効果はなかった。


4、村の発達
私たちが訪問した家は、昭和44年に建てられたもので、そのころにはすでにプロパン
ガスがきていた。村にプロパンガスがきたのは25-30年前。それまでは、くど(か
まどのこと)で、薪や国有林から拾ってきたたきぎ、割れ木、びゃあら(枯れ枝のこ
と)使っていた。村に電気がきたのは大正10年ぐらいで、それまではランプを使って
いた。


、村の生活に必要な土地
大切地区には入りあい山はなかった。村にプロパンガスが普及する前は、まきや割れ木、近くの国有林から拾ってきたたきぎやびゃあらで、ごはんを炊いたり、お風呂を沸かしたりしていた。割れ木などで上等なものは、有田に持っていって売っていた。また、私有林で割れ木を採取するときにでる小枝を、個人的または共同で安く購入したりもしていた。田んぼにいれる肥料は、米の収穫後に取れるわらやたいひを使っていた。

6、米の保存
大切地区は谷田が多く、日当たりが悪いため、周辺も村に比べて収穫量がかなり少な
かったが、それでも昔はかなり苦労して作っていた。また、戸数も少なかったため、
割り当てがなく、農協に出すこともなかった。作った米はすべて家族で食べる飯米で、
保有米といっていた。収穫した米は、もみ又は玄米で保存していたが、もみのままの
ほうがおいしかったらしい。また、保存のための専用の部屋がなかったことと、もと
もとの収穫量が少なかったことから、ブリキの入れ物や紙でフタをしたかめなどに入
れて保存していた。いずれにせよ、しっかりとふたがしてあったので、特にネズミ対
策を必要としなかった。
種もみは、そのままかめに入れて保存していた。昔は裏作として麦を作っていたので
ご飯には2割から3割程度麦が入っていた。麦を作らなくなってからは、すべて米だ
けとなった。戦時中は、麦だけのご飯や、いもや麦の混じったご飯を食べていた。
稗や粟のような雑穀を食べることはなかった。

、村の動物
大切には12から13件の家があり、そのうちの2件が牛を1頭ずつ飼っていた。雄か雌かはわからなかったそうである。博労と呼ばれる人はいなかった。田植えの時期には、牛を持っている人にお金を払って耕してもらっていた。牛を借りて自分で耕すのかと思っていたが、牛の扱いが難しく、飼っている本人にしか耕すことができなかったそうである。また、田んぼが狭かったり、山奥などにあったりして牛が使えない
所は、人が耕していた。

、村の道
ここ何年かでバイパスができた。

、村まつり・昔の若者
8月20日に八幡神社で夏祭りが行われる。昔の方がお祭りは盛んだったそうだ。昔は 若者の集団である青年団が踊りを踊ったりしていたが、人数が少なくなったため、
少し前には消防団の人たちが踊ったりもしたらしいが、最近ではそれも困難になってきている。
青年団の目的は、村のいろいろな行事を身につけることであった。入るのは自由であり、女性も入ることが可能だった。実際にはその村のほとんどの若者が入っていた。
戦時中は軍事色が強く、軍事教練などが行われたりもした。
祭りの時には、笛や太鼓をやったりと、中心的な役割を果たしていた。稽古中にほかの村の青年団の人たちが、陣中見舞いとしてお酒を持ってきたりしていた。また、個人的に「ご苦労様」という意味を込めて、お金を渡すこともあった。お祭りの本番の時に渡すお金は「おはな」と呼んでいた。しかし、ささいないたずらとして、お互いに空の袋を渡す時もあったようだ。祭りの時の行き来をきっかけに仲良くなって恋を
することもあったらしい。基本的には恋愛は自由だったようで、ほかの村の人との交流にも特に制限などはなかった。
そして、今は行われていないが、農業に関する教育も少し行われていた。特に専業農家の多い地区では農業の勉強会や研修なども行われていた。集まる場所は公民館で、よその若者が来ることはなかった。ただし、青年団どうしの交流というのはあった。

10、村のこれから
昔は物の貸し借りや、お風呂を分けてもらったりと、村人どうしの交流が日常的に
行われていたが、今は都会の状況に少し似てきたらしく、それほど親密ではなくな
った。例えば、「どこどこの息子さんがどこそこへ引っ越した」などということも
なんとなく知るという程度である。人口に関しては、若者が出て行くばかりではな
く、団地や町営住宅などに、この地の出身でないまったく新しい人が転入してきた
りもするので、変異はなく横ばい状態である。大切には、昔から専業農家の所はな
かったようで、大工などの本職を持ちながら農業を行っていたらしい。もともと収
穫量が少ないので、無理をして米を作っても経費がかかるだけで利益が上がらない
ので、今後も米を作る予定は全くないそうである。ただし、今でも家庭菜園程度の
ことはやっているということだった。


現地調査を終えての感想
はじめはバスから見える風景を見て、本当にきちんと調査できるのだろうかと少し
不安に思ったが、聞くことを前もって決めたりしなくても、訪問した先の方たちが
いろんなことを教えてくれ、私たちとしてはとても楽しく、そしてためになった1
日だった。