水尾

1AG98128P 田中 嘉人  1AG98108K 炭本 祥生

水尾

しこ名
水田
ベンジャクイジ
ヒラキダ
クボ
オテジンサンノマエ

水路の名前
ナカミゾ
ベンジャツツミの水路
シタツツミの水路
ニゴイツツミの水路

橋の名前
ミズオバシ

イデ


昔は草切場があった。草切り場は水尾に有るツツミの土手にあった。
また、むらにはマエビラの中にマエビライシ、カザハヤイシの2つあった。

むらの水利
水は村にある4つのつつみ(ため池)からとっていた。管理はミズオブラクでやっ
ている。また、水は単独の用水で村の中で水争いは特にない。村のなかに水番とよば
れる水の調整をする人がいる。この人が村の中の水田を観察し、水を自由にひく全権
をもっている。

1994年の大干ばつ
この時はため池でまかなっていた。あまり被害はなかった。

むらの範囲
むらの範囲は橋で区切られている。また、村の中も5班に分かれている。
第1班と第2班、第3班をあわせてシモコガ(下古賀)と呼ぶ。
第4班 ベンジャクイジ (弁財小路)
第5班 マノイバ(馬乗場)
4班と5班をあわせてカミコガ(上古賀)

村の耕地
整備をしていないということ。また、湿田は減反により荒れ果ててしまった。
昔から湿田はとれなかった。(山の中にあるらしい。)
戦前、化学肥料が入る前はこやしだった。また、反当り5俵ぐらいだった。今は
反当り7俵ぐらいはとれる。化学肥料が入ってから平均的にとれるようになった。

村の発達
むらの電気は、だいたい40年前。それ以前はランプを使っていた。ランプそうじを
しなくてよくなったという曖昧な記憶が残る程度。
ガスは45から50年前ということ。

村の生活に必要な土地
ブラク共有の山林が有る。オテジンサンノウラと、ベンジャクイジの近く。

米の保存
5俵入りのブリキの缶に入れている。(これがねずみ対策になっているいる。)
また、部落内のほとんどの人が自家用に米をつくっているということ。商業用に作って
いる人は自分の家で乾燥させて、ブリキの缶にいれて保存していた。そして、米商人に
売っていた。
種もみの保存は干してカマスにいれ、天井にほしていたらしい。天井にほすことがね
ずみ対策と為っていた。
家族で食べる米のことをホユウマイ(保有米)と呼んでいた。
50年前―食事における米と麦の割合は1:1。芋ご飯や里芋ご飯、あわご飯のとき
もあった。


村の動物
牛や馬はいた。牛は雌牛がおおかった。バクリュウさんもいた。やはり口のうまい人
だったらしい。

むらの道
古い道―マイレガワ 馬などを洗いにいく川への道のこと。
ほかの道には特に名前はついていなかった。運ばれていたものは農作物や薪
だった。また、魚に関しては魚屋が伊万里市から来ていた。塩は昔からある
宮野の中尾さんという塩屋でみんな買っていた。

村の祭り
8月25日にオテジンサンの祭り
7月14日にベンジャサンの祭り
どちらの祭りも豊作祈願のまつりだった。また、全員参加のまつり。

昔の若者
テレビも映画もなかった時代、村の若者(男性)は青年クラブと呼ばれる場所に集まって
いた。そこで夜学校と呼ばれるものがあっていて授業があるときもあったらしい。遊ぶ
ときは女の子の話などが話題になっていた。
また、よその村の人たちも遊びに来ていたらしい。しかし、よそものを村の中にいれ
ないようにする人もいたらしい。
他部落の人と交際をしようとするとき、他部落の人に了解をとっていた。

むらの変わり方
水尾団地ができて、団地内にお店ができて便利になった。団地にきた人たちはよその
ひとたち。(有田の人が多い)
また、農業の後継者はやはりいない。減反によって農業が嫌になるらしい。
水尾団地のところは昔みかん山だった。


前田 修 大正8年 (80歳)
前田 八千代 大正7年 (81歳)





旅の感想
今回の調査は去年をいれると3度目、今年だけでも2日連続の2日目の旅だった。去
年の旅は家に行くまでに相当な時間を要したが今回は迷うこともなく一瞬でついてし
まった。
去年の旅は実際に旅、というものだったが今回はどうもたびといえるものではなかっ
た。あの過酷で時間に追われ山を旅する、といったものを不安の中にも期待していた自
分にはいささか期待外れだったがだいぶ楽で二日連続の身にはよかった。
また、しこながえらく少なかったので心配したが今回は範囲も狭いようなので仕方が
ないと判断した。水尾はよそうよりも都会なところだった。そのためか小さな道なども
特には名前がないようだった。
バスを降りた後一号車のバスが見えて服部さんが手をふっていた。おかげさまで我々
の緊張した気持ちがほぐれ大変心強かったなあ、と思い出す。そして歩き出したぼくた
ち四人は早く着きすぎたことに気付いた。これからどうしようと思っていた僕らは、あ
人にであった。この人は誰だろうと不思議に思うぼくらに彼は[君たちは九大の人たち
か」と質問された。そして彼が我々とは別の二人の質問あいてだった。ついでに我々の
行く家の道も教えていただきますます順調な旅となった。そしてそれからすぐについて
しまい、申し訳ないと思いながらも少し早い訪問となった。話も順調にすすみこれまた
早い質問終了ということで今回の旅の終止符をうった。
1999、夏