古場

【調査日】1999年7月11日(日)
【話者】安永ヤスコさん〔大正13(1924)年生〕、安永登さん〔大正12(1923)年生〕
安永八十代さん〔昭和6(1931)年生〕、
安永義松さん〔当時80歳前半(1910年代中ごろ)生〕
【調査者】前原茂雄
* 通称地名(・・・・以降は話者の説明による地名由来)
おさ・・・・不明
ししおとし・・・・不明
たけんした・・・・「たきんした」とも、不明
かみ・・・・不明(安永登家所有の田では上方面の位置にあたるからかもしれない、と)
かみの井堰(いぜき)・・・・かみから取水する井堰
ばんねやしき・・・・・「ばんね」さんの屋敷跡だが、その人が何者かは知らない
ちゃぶれのつつみ・・・・「ちゃぶれ」とはそうきのこと。今はそうでもないが、昔はよく
洩れる池だった。
しも・・・・「岩井手(いわいで)」とも、不明(上記、「かみ」に対応するから、と)
うら・・・・安永登家の裏手にあたるから
やまびらき・・・・安永登家の裏の畑のほう、ずっと前から畑だった
やまびらきのつつみ・・・・下の池のこと
ラジウムやま・・・・ラジウムを他所から持ってきて一時置いているだけ
かしびら(樫平)・・・・不明、山
たつこば(たつ古場)・・・・不明、山
あぶらせん・・・・不明、山、古場地区の共同の萱切り場、草刈場があった
せいらざん(青螺山)・・・・不明
やまのどう(山の堂)・・・・「やまんどう」とも、岩の下に祠があり仏をまつる
とろかけのた(田)・・・・「とろかけ」とは祭の意味。薬神さんの神田だった
ことうげ・・・・雄岩と雌岩の間を通る峠。古場から西有田に通ずる
やしき・・・・安永登家の屋敷前にあるから
まっで・・・・不明
はったんだ・・・・不明(八反あったからか、と)
ながれがわ(流川)の橋(はし)・・・・松浦川の上流の古場地区部分を「流川」と呼ぶ
ながれかわ(流川)の井堰(いぜき)・・・・右岸を灌漑する
うーでまち・・・・大畝町(おおぜまち)がなまったもの
うーでまちの井堰(いぜき)・・・・うーぜまちにあるから
こば(古場)ん原(はら)・・・・安永義松家の前方の田地を指す
やけお・・・・不明
ろくぞう・・・・不明
まえびら・・・・、谷、不明
うまごだに・・・・不明、昔は寂しい道、夜は物騒、狐狸は「もちろん出た」
ひのきだに・・・・・不明
みかど(御門)・・・・不明
みかどばし・・・・御門付近で流川にかかっている橋
みかどみち(御門道)・・・・正式には「ひろせみち」とも、西有田へ通じる道、昔道端に石
の道標があったが大水で流れて不明になった
みかどんでぐち(御門ん出口)・・・・御門道の脇にある田
この・・・・不明
ごひちやしき(屋敷)・・・・「ごひち」さんが住んでいたからか、便所用か、台所の使い水
の「せせなぎ」の甕がまだ残っている
ためやしき(屋敷)・・・・大正頃まで「ため」さんが住んでいたから
せっちんだに(雪隠谷)・・・・谷の奥ががけとなっており、他の場所から出口がなく、雪隠
のように一度入ったらもとの場所から出て行かざるをえないため
ていわたし・・・・「樋渡し(といわたし)」のこと。「ちゃぶれづつみ」からの水を流川を
跨いで渡す
かわんうえ(川ん上)・・・・流川のすぐ上にあるから
いえんまえ(家ん前)・・・・安永辰秋家の屋敷前にあるから
ひらき・・・・不明、1974年に少年自然の家が建設され始めるまで下の方は木が生えていて、
上の部分は牧野だった
にわのした(庭の下)・・・・「にわした」とも、安永義松家の屋敷前にあるから
みちむこう(道向)・・・・安永義松家からみて道を挟んだ向こう側にある田だから
とろかけのた(田)・・・・祭田だがどの神の祭田かは不明
かざはり・・・・風の通り道のような岩だから
* 生活諸相
・ 萱切り場は「あぶらせん」の山。戦前まで共同で使用しており、年寄りたちが肩に背
負って田に降ろしていた、5月始めは木の芽なども堆肥のためとりに行っていた
・ 古場は湿田が多く、排水が悪い。日当たりはよいが麦はとれ難い
・ 大きな池はそれぞれに水利の管理人や世話人がいる
・ 道はどれもガラガラ道で、石ばかりあった
・ 古場は田も畑も石や岩が多い
・ 昔、雄岩の頂上から雌岩の頂上まで、針金が渡してあった
・ 1979年の圃場整備の際に観音堂は公会堂に移した、公会堂は青年クラブと観音堂が一
体となった。観音堂の部分には、「昭和三十五年四月十四日建立」の棟札が残る
・ 焼畑をしたかどうかは、全然なかったわけではないのだろうが、聞いたことはない
・ 狐狸の話。@荷物を持って歩いていて、家に帰り着くと荷物は空だった。A酒を一杯
呑んで歩いていると、溜池に入っている。ある人が「何をやってるんだ」と聞くと、
溜池に入っている人が「風呂に入っているところだ」と応えた。B山で材木を倒して
いるような音がいつもした。
・ 溝掃除はそれぞれ水利利害者が行った
・ 水には苦労する土地柄だが、谷が深いので、流川の水が枯れることはなく、水田経営
に困ることはない
・ 流川は昭和42年台風の時まで何度も水害をおこしたが、42年水害以降は川幅を二倍
強に広げた(底の高さは同じ)ので、水害はない
・ 前田美濃守吉右衛門の墓がある。ここで討死にしたという。砂石で摩滅が激しく、以
前は「文禄二年」とか法名の「花窓浄泰」という文字が見えた。伊万里の大川内と所
縁があり、いまでもそこから墓参りにくる。『山内町史下巻』が詳しく書いている
・ 上の橋から御門橋まで小さな田が7反ほどあったが、昭和23年水害で消滅した
* 宗教・行事
・ 雨乞いは黒髪山に行って、鉦・太鼓を鳴らして行った。海水を竹の筒に入れてもって
いった。大正末頃まで行われた。
・ 黒髪山の神社には付近に患者が一時的に住んでいた。彼らは泊り込んで、神に祈った。
手後れと言われたような人でも奇跡的に恢復することが少なからずあった。目が悪く
なったときに祈ったが、3日で本当に治ってしまった。御利益がある。
・ お観音さんの八十八夜。観音さまのお祈りをする。古場の人が集まり、公民館でお接
待をする。お観音さんは札所になっているので、その日は参拝者が多く、古場の人は
お茶やつまみ(せんべいなどのお菓子)、線香、ろうそく、マッチ、漬物などを準備し
て待っている。黒髪山にも登り、ところてんやお餅も出す。5月2日頃。
・ お観音さんの祭。毎年8月17日。日は変っていない。古場の近所の人が集まって、
御詠歌をあげて酒を供え、その後酒をおろし、つまみとともにみんなで食す。僧侶な
どはこない。
・ 薬神(やくじん)さんの祭。毎年8月7日。日は変っていない。古場の人全体が集まる。
神主などはこない。
・ 天満宮の祭。「てんじんさんの祭」または「おてじんさんの祭」ともいう。毎年8月
25日に行う。古場の人が集まる。神主などは来ない。なお、かつては天満宮は郷土池
の脇にあったが、30年くらい前(1970年頃)、薬神さんの社の場所に移した。
・ 黒牟田池の脇にあるお不動さんは個人がまつるもので、古場の人は共同でまつらない。
・ 薬神さんのとろかけ(祭)はそれぞれの組単位で行うものもある。毎年12月7日に、安
永登、義松、勇さんら5軒が組になって、ご飯を炊いて昼と夜に御篭りをする。他所
の組も日は同じだが、準備のまとまりが異なる。なお、昔は「とろかけの田」の収穫
物を運営費用にあてていたが、現在は現金を持ちよって費用にあてる。
・ 田祈祷(たぎとう)と願成就(がんじょうじゅ)。田植えが終った後、宮野11地区の代表
が黒髪神社に集まって、神官が五穀豊穣を祈祷し、それぞれ御札をもらう。代表は御
札をそれぞれの集落に持帰り、集落の中心あたりの田に竹に挿して立てておく。御札
はそのまま風雨にさらされ、いつしか自然消滅する。田祈祷は6月20日から30日ま
での間の日曜日に行われる。願成就は収穫の成功を感謝するためのもので、9月23日
の彼岸に黒髪神社に宮野11地区の代表が集まり、「浮立(ふりゅう)」をする。浮立と
は鉦・太鼓・笛などではやし、いろいろな演目がある行事で、「彼岸浮立」ともいう。
伝承後継者不足で存続が危ぶまれている。