狩立

1AG98182 馬場彰子  1AG98203 古川由紀


話を聞かせていただいた方 : 江口シゲ代さん 大正5年生まれ
吉岡次郎さん 大正8年生まれ

しこ名
村の名前 しこ名
山内町 田畑 小字 山口のうちに 山口24122番地
山口24124番地
川 小字 狩立のうちに ウマイレガワ(馬入れ川)
橋 小字 狩立のうちに クツワイデバシ(轡井手橋)
木 小字 奥牟田のうちに サキャアマツ(境松)
岩 小字 狩立のうちに ヤクジンサン(厄神さん)
コンピラサン(琴平さん)
ため池 小字 狩立のうちに モッドー
小字 奥牟田のうちに オクンタノツツミ(奥牟田の堤)

狩立の周囲には水田がほとんどなく、私たちが訪ねた江口さんは現在山口に水田を2筆 持っていた。しこ名を尋ねると「山口24122番地」、「山口24124番地」と教え てくれた。昔から山口あたりの水田には番地がついており、番号で呼んでいたそうだ。圃場整備によって、以前は細かく分かれ何筆もあった水田が大きくまとめられた。以前の細かい水田も番号をつけて呼んでいたそうだが、その番号はもう覚えていないとのことだった。

村の水利
水田にかかる水は狩立、山口周辺においては普段は狩立川などの水を使用していた。水が 不足するとツツミ(堤)と呼ばれる雨水を溜めたため池の水を落として使用していた。ツ ツミは山奥にあるうえに、そこに通じる立派な道がないため責任者に連絡が行くとその人 がせんを開けに行ってはいたが、今ではほとんど使用されてはいない。狩立にあるツツミ はモッドーのツツミと呼ばれ、主に狩立や山口の水田に使用された。他には、オクンタの ツツミと呼ばれるものがあり、峠の水田に使用されていたが人があまり入れないところに あった。大谷溜池も以前はツツミとして使用されていた。

村の中では頻繁に水争いが起こっていた。上流近くに田んぼを持っている人が水を止めて 下に流さないようにしたり、水をせき止めていた板を勝手に外したりといったことが行わ れていた。またカニが板の下に穴をあけ水が漏れることもあったので、水田の持ち主は毎 朝、自分の田を見まわっていた。

5年前の大旱魃のときにはお風呂の水や川の水をくみ上げ水田に使用していた。モーター を持っている人は、それを使用して川から水をくみ上げていた。また、昭和23年に大水 害が起こり大谷溜池の堤防が切れ有田の町が水に浸かった。現在では有田ダムができ大き な水害は起きなくなった。

村の範囲
現在の山内町は、住吉村と中通村が合併してできた。住吉村と中通村は、現在の畜産試験場を境に西が住吉村、東が中通村となっていた。私たちの訪ねた狩立は、住吉村であり現在の奥牟田峠、辺田(へた)、宮野、大野、今山、久保田、筒江、赤田、板ノ川、臼ノ川内などの区が、その範囲となっている。また、有田と住吉村の境に大きな松の木があり、それをサキャンマツ(境松)と呼び、目印、休憩場となっていた。村同士の行き来は、そううるさくなかったが、群境の行き来は厳しかった。

村の耕地
村の中でよく米がとれる所、とれない所の差は存在していた。この地域は山が多く山の中の田は水も冷たく日が当たらないので余り米はとれなかった。逆に平地の田では良い米ができていた。化学肥料の入る以前は馬糞や牛糞と草やわらを混ぜて堆肥を作り、金肥の代わりにしていた。そのため草をよく刈っていたので線路や道端がきれいであった。国鉄にお金を払い草を刈らせてもらったりもしていた。その他有田の人に野菜と交換に下肥をもらいにいったりしていた。現在肥やしは燃やしてしまっている。

村の発達
村に電気がやってきたのは、75年くらい前(1924位)である。それ以前はランプを使用していたが油を燃やしているので黒く汚れるため掃除が大変だった。そして、そのランプの明かりで夜はたびなどのふせをしたり、木箱の机で勉強したりしていた。
また、村にガスがきたのは20年くらい前である。それまでは風呂やご飯は巻きで炊いていた。特に風呂はバケツに水を汲んで沸かしていたので井戸を持っている家くらいにしかなく、風呂を炊くと「風呂を炊きました」と近所に行って回り、近所の人々が「風呂をもらいに行く」ということが行われていた。一般に「もらい風呂」と呼ばれていた。水が貴重なため、風呂の中で体を洗っていたため、清潔ではなく蚤やしらみなどが発生していた。 また、燃料である薪は、山を持っている人に頼み、枯れた木や落ちた枝をもらいに行っていた。また地主がよその町に住んでいたりすると勝手取りに行っていた。

村の生活に必要な土地
入り会い山は少しはあったかもしれないがご存知ないとのことだった。狩立は山が多く、下ばらいをした樫、しいの木を切り、乾燥させて薪を作り、それを担いで3キロくらいの道を歩いて有田に売りに行っていたほどなので薪を買うことはなかった。
狩立の山は鍋島(武雄の殿様)が所有していたが、おちぶれだしたときに、佐賀銀行初代の頭取の有田の金持ちが買い取った。しかし終戦後、その息子が製氷会社にお金をつぎ込み倒産し、その時に北半分を製材所を営んでいた川口さんが買い取り、現在に至っている。なお南半分はいったん石橋さんという人が買い取ったが、その後私たちが訪ねた江口さんが買い取り、現在も所有している。
昔は狩立の山は本来松山で、松を切って窯の燃焼として有田へ売りに行っていった。しかし終戦後、プロパンガスや石油が使用されるようになり、松が売れなくなってしまった。それと同時に松くい虫により松が減ってきており、現在では家財用に植林された杉や桧がほとんどである。
また狩立という地名は、狩立の山が昔、鍋島の殿様の狩場であったことから「獲物を狩り立てに行く」→「狩立」というのではないかということも教えてもらった。

米の保存
米は現在、保有米をとったあと農協に売っているとのことだった。 昔は、自由販売をして おり、有田の町や米をつくっていない人に売っていた。山内町は有田に近く有田に働きに行き、日当をもらっていた人が多く、農業にあまり頼ってない町であった。青田売りをしていたという話は聞いたことがないそうだ。
一方、野菜は各家々で自分達の食べる分は作っていた。さつまいもやかぼちゃ、そのほか 団子やうどんの原料として小麦、米に混ぜるための裸麦などを作っていた。
保存の方法としては、ネズミにかじられないように穀類はかめに入れていた。さつまいもは乾燥した地面に穴を掘り、その中に入れ、上からもみがらをかけて保存していた。食物が少ない時代で長期保存することがあまりなく、保存中にネズミにかじられたり、芽が出たりすることはあまりなかった。また、子供たちは山で柿、あけび、ぐみ、いちご、くわの実などをとって食べていた。時には、さつまいもを生でかじることもあった。そのほか、イモノンキーと呼ばれる飴を食べていた。
また、甘いものは大変貴重で、お産のお見舞いにもち米で作ったアメガタと呼ばれる 飴を持っていっていた。砂糖は、ほとんどが混じり物の多い黒砂糖であった。

村の動物
多くの家に1匹ずつ農耕用に牛か馬がいた。江口さんの家には雄牛がいて、力仕事をさせていたそうだ。牛が年をとると、売って子牛を買っていたが、情が移り売るのがかわいそうであったとおっしゃっていた。ばくりゅうさんと呼ばれる牛や馬の売り買いをなりわいとする人が存在していた。江口さんの家では豚も飼っていてこれも育てて大きくして売って子豚を飼うということにしていた。また、鶏を飼う家も多く、卵をためて売っていたそうだ。卵は、遠足や運動会のときぐらいしか食べることができず、鶏はお祝い事のある日にしめて食べることもあった。また、豚や鶏には、食べのこしのご飯などを与えていたそうだ。

村の道
現在の国道が、昔からの道として使用されていたらしい。「〜ノウテ」と呼ばれる道は聞いたことがないそうだ。宮野や大野へ、米や薪などを売りに行く道があり現在の境松トンネルから奥牟田→水尾→蜂の巣を通る道や白岳、久保田を通る道があった。また有田へ窯の燃料や米を運ぶのに通る道としては、狩立川を逆にのぼり大谷溜池から川を下っていく道や中樽を通る道が用いられてきた。燃料は馬に積んで運んでいたため、有田から帰って来た人々が狩立川で馬を洗っていたことから、ウマイレガワ(馬入れ川)と呼ばれていた。また、馬を道につないで酒をのみに行ってたことから、クツワイデバシ(轡井手橋)と呼ばれる橋もあった。有田に行く道の途中には、5件の焼き物の窯がある(そのうち1件は、百聞窯として現在でも有名)。李三平が、1616年に朝鮮から日本の有田にやってきたときに下手な日本の職人は有田から追い出され、燃料となる木の多くは狩立川上流に移ってきた(そのため現在の有田の焼き物職人は、ほとんど朝鮮系である)。骨董品や焼き物を研究する人たちが捨ててあった焼き物のカスを掘り起こしていたらしい。

また、大きな石に有田や武雄の方向を示した石の標識があったが道路工事のときに持って行かれて、なくなってしまった。

まつり
魚は川で捕るほかは秋祭りのときに市がたつので伊万里、佐世、保、唐津から塩漬けの魚を売りにきていた。塩もんと呼ばれるそれらの魚は、金山(カナヤマ)やくじらが主で、大きな固まりを買って、保存していた。白石のカニ漬けも有名であり、田を荒らすカニを取り潰して、こしょう、塩、その他のさまざまな調味料を入れ、漬け込んだものをご飯にかけて食べていた。カニを取り、潰すのは女の人の役目であった。このカニ漬けは今も存在している。

狩立の2つの山の頂上にはそれぞれ大きな石があり、北の山には厄を取り除いてくれるヤクジンサン(厄神さん)、南の山には戦勝を祈願するコンピラサン(琴平さん)が祭ってある。何かあるとお参りに行っていたらしい。

また大きなお祭りとしては秋祭りがあった。秋祭りはくんちと呼ばれ、道端に市がたち、塩魚やざるなどの日用品を売っていた。くんちのときには、お宮祭りも行われアマテラスオオミカミの父親であるいざなぎのみことを祭った黒髪神社でやぶさめが行われた。今ではやぶさめをする専門の人が他の土地から呼ばれるが、昔は地元の人が行っていた。祭りには、村人全員が参加し、中には店を出す人もいた。また、お宮祭りのときに行われる浮 立(フリュウ)もしくは虎浮立(トラフリュウ)と呼ばれるはやし(太鼓や笛)に合わせ て虎の面をかぶった人を打つ、舞のようなものも行われていた。

村の若者
村人の楽しみとしては、大人はくんち、花見、子供の運動会などが娯楽であった。子供は凧上げ、こまぺちゃと呼ばれるめんこ、弓矢、竹とんぼ、竹馬、おひとつ、またはおざっこと呼ばれるお手玉などで遊んでいた。これらは、ほとんど手作りで、おひとつの中身の大豆は時々ネズミにかじられていたらしい。男の子は戦争ごっこ、女の子はかくれんぼなどもしていた。
江口さんが小学生のころは有田に1件あった映画館へ先生が連れて行ってくれたこともあったそうだ。

隣の中通村との行き来はさほど厳しくはなかったが、村人が大勢集まるようなこともなく、村の取り決めなどは板の川内区、狩立区といった区ごとの長が集まって決めていた。区長は1つの家が代々務めてきた。