蜂巣

1AG98104G 白尾 謙典  1AG98107E 杉本 真也

調査した村=山内町 蜂巣

蜂巣の名前の由来=有田町、伊万里市、佐世保市を結ぶ交通の要所 であり人が多く集まったため。

(1)しこ名カタカナ一覧

小字 蜂巣
     < 田畑 >

・ザエモンバル(左衛門原)=昔、左衛門という人がこの辺りの土地を所有し              ていたため。
・ホトケノツジ(仏ノ辻)
・ニシノカシラ(西ノ頭)

  <谷>
・イナリノタニ(稲荷ノ谷)=この谷の近くに小さな稲荷さんがあったため。
・イチノタニ(一ノ谷)
・タイリョウノタニ(大漁ノ谷)

  <その他>
・ドバ(土場)=以前、蜂巣には瓦焼き職人がいてここから瓦を焼く土をとっ        ていたため。
・タカミ(高見)=住吉城という城からきた見張りがここで見張っていた。
・ジゾウサン(地蔵さん) =地蔵があり、この辺りは土葬が行われていたころの            墓である。遺体は、甕棺に入れられていた。

小字 脇ノ田

< 田畑 >
・ホトケノツジ(仏ノ辻) 蜂巣にも同じ名前がある。
・カワノムコウ(川の向こう) = 蜂巣から見て蜂の巣川の向こうの、脇の田 にあるから。
・ハクバンヤマ(白板山)

小字 住吉

<田畑>
・マエビラ(前平)=住吉城の人達の食料となる野菜などの田や畑があった。


(2)村の水利 = 水田にかかる水は、基本的には、蜂ノ巣川から引水していた。またため池が、250ほどあり水源にも近かったため水に困ることはさほどなく水不足の時以外は、水争いはとくになかった。
<1994年の大旱魃の時>
5年前の雨不足の時、畑は被害を受け枯れる少し前だったが他の村から水を借りることはなかった。朝は露で水分を補えたが畑が渇く夕方頃には、他の村との間に川から水を上げる競争が起きて引水は、かなり困難だった。
水不足だからといって作物を切り換える余裕はなかった。飲料水に関しては井戸水と水道水で困ることはなかった。


(3)村の発達 = 電気は大正8年に来た。それまでは、菜種油や石油を使ったランプ(ホヤ)を使用していた。
ガスは昭和40年頃に来た。祭りなどでは、カーバイトを使う時もあった。


(4) 村の耕地 = 現在、ほとんどの田では裏作として麦が作られる。また、畑では大根・からし・白菜などが作られている。以前は、裏作としてレンゲ・菜種などを作っていた。
蜂巣の土壌は砂壌ではなく、玄武岩・重粘土であるため水利が悪く土地生産力は低い。昔は反当6俵、現在は反当8俵の収穫。


(5) 米の保存 = 米を農協に出す前、収穫した米は米商人が精米して有田などに売りにいった。
酒屋に売ったり、個人でも売っていた。保存は大きな甕の中に玄米のまま入れて行っていた。その甕には6俵入る。ネズミはいたが、猫やヘビが食べてくれていたので特に対策はなかった。


(6)村の動物 = 牛が農耕用、豚が食用として飼われていたが今は飼われていない。


(7)村の道 = 大正十年に今の道路の原型ができた。旧道は人一人が通れるぐらいの狭い道だった。


(8)食物 = ・ 魚は蜂巣川で川魚を釣っていた。ナマズ・ウナギ・ハゼ・ヨルメ・ヒルメ・白エビ・タニシなどがとれた。
・ 海の魚は、伊万里などからリアカーで運ばれてきていたが、時間がかかるので塩物が多く生物はなかった。しかし、おくんち(祭り)のときは、新鮮な魚が手に入った。新鮮な魚のことをムエン(無塩)というらしい。
・ 塩は商人が売りにきていた。それ以前は、伊万里に行って塩を作り持って帰ってきていた。
・ タンパク源としては、飼っている鶏の卵がある。またその頃は、鯨をとっていたのでその肉の薫製なども食べていた。鯨の脂は消毒液として使っていた。
・ 味噌・醤油は自給していた。甕に保存していた。野菜の味噌漬けもあった。
・ トウコウと呼ばれる、醤油の絞り粕にシソや山椒などを加え混ぜた後、干して作る保存食もあった。


(9)山の植生 = 山の蜂巣側は私有林で、反対側は国有林である。私有林はもともとカシやシイの広葉樹林だったが、有田焼などの燃料(薪)や炭坑の坑木に適している松の木を植えた。しかし松のとりすぎと燃料の進化により山の木が減りはげ山になった。そのため昭和45年7月9日の大雨の時には土砂崩れなどの水害がおきた。現在ではヒノキやスギなどが茂り工事も行われて水害はない。


(10)祭り = @夏祭り
毎年8月26日に行われる。子供と青年が中心に行う。
            Aカンマチ(神待)
毎年11月30日の夜から12月1日の午前中にかけて行われる。
神無月は村に神様がいないとされ、青年が愛染神社集まって薪を炊いて夜を過ごし出雲から神を出迎える儀式。


(11)出稼ぎ = 蜂巣には出稼ぎに行く人が多かった。それは、現金収入ができたためである。佐世保の造船所や炭坑、有田の焼き物工場への出稼ぎが多かった。有田の工場は、初め季節雇用だったがそのうち常時雇用に変わったため村から人が出ていってしまった。一番少ない時には二十件ばかりに減ったこともある。


(12)その他 = ・肥料の人糞尿を有田までもらいに行っていた。車力と呼ばれるリアカーのような荷台を用いていた。それに樽を積んでいたのだが中身がチャポン、チャポンと飛ばないように藁を入れていたらしい。肥やしをタンボウと言ったらしい。
・桶を作る大工さんがいてオケタンサンと呼んでいた。
・化学肥料のことを金肥と呼んでいた。
・作曲家山田耕作氏の姉の夫(松永文雄氏)のお墓があるらしい。松永氏は、賀川豊彦氏の先生であるらしい。
・愛染神社がある。愛染明王は、神仏混合の村の守り神である。神社のお堂は囲いがなく見開きになっていて修験道の道場としても使われた。
・昔、川沿いに唐臼と呼ばれる石臼があった。この石臼は水車とつながっていて米などを挽いていた。この石臼は村共同のものだった。


(13)古老の意見 = @今と昔を比較して 以前に比べれば、村の状態も農業の状態も現在は<天国>であるらしい。
Aこれからの日本の農業
本音としては昔の姿に戻ってほしい。一般の人の食生活の安全性と新鮮さを求めるのならその土地で取れた旬のものをその土地で食べることがもっとも望ましい。そして、化学肥料よりは有機肥料のほうがよい。また外国からの輸入された安い商品では安全性が保たれるのか不安である。消費者は不安ではないのか疑問である。これを打開するためには本当の意味で生産者と消費者が提携していかなければならない。
山内町のような山間部でも平野部でもない地域は国からの援助を受け難いので苦労した。だから国はもっと理解を示してほしい。ということである。


<聞き取りをしたかた> 丸田良次さん
                 明治45年10月9日生まれ

中尾一二さん
                 大正3年10月7日生まれ