しこ名(漢字) 小字(漢字) キツネビラ(狐平) ソラミチ (空道) 山 ババノ(馬場野) ツヅラ(津々良) 田畑 ヤマノウエ(山上) ツヅラ(津々良) 田畑 ハシノツメ(橋爪) ツヅラ(津々良) 田畑 アカハゲ(赤はげ) ツヅラ(津々良) 田畑 コウガシラ(幸頭) フルミヤ(古宮) 山 草切り場について 各家で所有していた。草は、田に埋め込んで、腐らせて肥料の代わりにしたり、牛のえさにしたりした。また、昔は、藁葺きの家の屋根にも使われた。 村の水について 主な水源は山水であった。上流から3つに分けて、1番上の水は飲み水に、2番目は野菜を洗うために、3番目は洗濯のために使った。集落の中で、近い家どうしが3軒くらい集まって、共同で水をひいていた。 干ばつの時は、水争いがあった。山水が豊富なため、水道水は必要でなかったが、4〜5年前に町の行政指導を受け、山水は大腸菌などの恐れがあるため、水道水がひかれた。また、河川の汚れがひどいので、ごく最近、下水道が整備された。 水不足について 5年前(1994年)の水不足の時でも、不作ではあるが、全く収穫がないわけではなかった。山水が豊富なため、他の地域に比べて、被害は少なかった。もし、30年前、50年前に水不足が起きたとしても、同様と考えられる。 肥料について 化学肥料を使う前は、草を田に混ぜて腐らせたり、牛糞を敷きわらと共に、田に混ぜたりした。現在は、化学肥料を使い、収穫も増えたが、牛を飼っている家では、今でも、牛の糞を肥料に使っている。 米の販売について 江戸時代には、講という組織が部落ごとにあり、その講を通じて共同で販売をしていた。昭和22年までは、預金や融資も請け負う産業組合が、米の販売を担っていた。昭和22〜23年に、産業組合は農業会と改名し、昭和24年、農業共同組合が結成された。現在では、部落ごとにブランド品などを作り、農業に対する士気を高めている。 米の保存について 昔は、各家の倉庫で、かめや米びつに入れて保存していた。種籾は、藁に包んで宙にぶらさげていた。現在では、米は低温庫に入れて保存するのが一般的である。 家で食べる米について 家族で食べる飯米は保有米と呼ばれる。戦時中、後は強制的に米を出荷させられたので、保有米も少なく、米と麦を半々くらいに混ぜたり、じゃがいもを混ぜた芋めしを食べていた。特に、戦後の食料不足はひどく、2度も米のとりたてに遭うこともあった。 電気、プロパンガスについて 電気は昭和初期、プロパンガスは昭和40年頃からあった。プロパンガスがない時代は、各家で所有する山から、樫や椎の木を切って、乾燥させて、燃料にした。台所には、くどがあり、釜戸の横には水槽があって、調理すると共にお湯も沸かしていた。燃料の燃えかすは、掘りごたつに利用された。各家が所有する山は2〜3haほどであり、石を置いて土地の境界を定めていた。しかし、石をずらすなど、家どうしの山争いもあった。村には共同の山や青年団の山もある。 家畜について 昭和40年頃まで、どの家にも平均1頭の黒牛がいた。労働もし、子も産ませられるということで、ほとんどが雌牛であった。昔は、ばくりゅうが各家をまわって、牛の販売をしていた。長い袖の下で、手首を持ったり、指で合図をして、値段の交渉をしていた。数字も、チョイ、ラン、テというように、中国的な言葉を使って、他の人にわからないようにした。ばくりゅうの中には、口のうまい人が多かったそうだ。昭和30年頃から、牛は市場で取り引きされるようになった。現在、牛を飼っている家は少ないが、作業用ではなく、食用のために飼っている。 ○肉や魚について 山あいの村なので、肉は全くなかった。冷蔵庫のない時代では、魚は保存が効くようにと、塩漬けや干し物で運ばれることが多かった。魚は、春、秋の三間坂市で仕入れた。昭和40年頃から、肉も食べるようになった。 祭りについて 三間坂では、7月16日に夏祭りがあり、芝居や浮立というおどりなどがある。 ○昭和初期の若者の暮らしについて 昼は、家の農作業を手伝うことがほとんどで、夜は、青年クラブという所に集まって、酒を飲んだり、寝泊まりをしていた。 |