歴史の認識 現地調査レポート 教官名:服部英雄 2年23組 1ag98004p 秋元ひかり 1ag98041n 越智敦子 調査地:佐賀県杵島郡山中町三間坂茅場 中尾れい子 昭和25年生まれ 〈小字(公称)と通称地名(しこな)について〉 中尾さん宅で土地台帳を見せていただいた。 同じ小字内で複数の田畑、山林があったが、現在はそれらを番号分けすることで呼び分けている。 田んぼが圃場整備される(昭和59年)前は、小字内にあった田んぼは特に区別せずに (小字)の田とか、どこどこの前ん田などと呼んでいた。 〈小字の由来について〉 三間坂地区の鶴原に空道という小字があり、その由来について教えていただいた。 空道は、そこが坂道で集落から離れて家が2軒あり、田んぼが山沿いに作られているということで、このような小字がついたといわれているそうだ。 〈水利と水利慣行について〉 芽場下・・船ノ原の神六山から流れる鳥海川 ため池(ツツミと呼ばれている) から水田にかかる水は引水される。 圃場整備は昭和59年におこなわれた。 ・1994年の大旱魃 井戸のある家は井戸水を使うことができたが、古い井戸が多いので 町内で水質検査が行われた。水質が良くない井戸水は飲料水以外の用途に 使われた。 各小字の公民館で時間給水が行われポリ容器に入れて持ち帰った。 水は犬走のダム、長尾地区の水源からのもの。 水田は地割れが起こったが無事だった。それは通常、田植えの時期 に開くツツミ(ため池)をずっと開いて常に水を流していたからだった。 また、川の水をポンプでくみ上げていた。 ダム建設 前々からダム建設の話があったが、先の大旱魃がきっかけとなって 実現された。立野川内に建設中の狩立・日ノ峯ダムは平成14年3月に 完成予定である。これらのダムはツツミだけでは用水が足りない場合に利用される。 井戸水は飲用水には使われない。 〈昔の暮らしについて〉 昔の村の人々の生活 昔の人々は、自給自足できるくらいに畑作も行っていた。 老人の方々は昔、野菜を売り歩いていた。野菜を売り歩く事を楽しみ としている老人の方も多かった。 今は畑作を行っている農家は山内町にはほとんどいない。それでも老人の方々 は週一回、青空市場を行っており野菜を持ち寄って売っている。 青空市場は、老人方の生きがいになっている。 農業をしていない家も多い。そういった人達は、有田町で窯焼きや絵師、有田焼を 焼く仕事に就いている。 村の耕地 少しでも出水する場所は、水田に開墾している。 圃場整備前は地盤の深い所に作られた田んぼが豊作だった。(中尾さんの田では松ノ元Cの田んぼで米がよくとれたそうです。) 一反七俵、平均して収穫される。 収穫した米の保存 現在では、収穫した米を山内町の東区、西区にあるライスセンター(農協)へ そのまま持っていけば精米、保存ができる。 昔は、収穫したもみは各家に持って帰り乾燥機を用いて乾燥させ、家族が食べる 分はそれを袋に詰めて精米所へ持っていった。 昔は、家族で食べる米の事を自方(じかたん)、ひょうろ米、作米(さくまい)と呼んで いた。今では保有米(ほゆうまい)と呼ばれている。 ネズミ対策 昔はかます(わらであんだ袋)に、米を入れて保存していた。しかし、ネズミがかます を食い破って米を食べていた。そこで、米を缶々に入れて保存することにした。 これによりネズミの問題は解決した。 今は、米を密封した袋に入れて涼しい所に保存している。 村の動物 今は家に動物(牛など)飼っている人は少ない。 昔でも、家ごとに飼っていた訳ではない。だいたい一つの小字の中で二軒くらい。 牛(食用)二,三頭と、乳牛を飼っていた。 山内町に佐賀県畜産試験場があるが、町内自体は畜産が盛んであるとは言えない。 村の発達 三間坂地区では大正八年に電気が通った。 かまどは今ではほとんど使われてない。 〈村の祭りについて〉 ぎおん(7月15日―8月25日 計11地区でおこなわれる) [ぎおん]の祭りは、山内町の夏を迎える行事であり、町内の各地域ごとに それぞれの氏神様で行われる。 元々は、疫病や害虫などの災害に悩まされていた農家の人々の疫病神や 害虫退散の祈念のために行われた祭りだったが、今では山内町の農民の 娯楽の夕べとなっている。 (山内浮立) お参りに来た村の人々が行う古くからの伝統芸能。いくつかの系統があり、 浄瑠璃やお伽草子などを浮立化した舞浮立を行う地区もあれば、青年団が 主催者になり歌や踊りなどの隠し芸がアットホームな雰囲気で行われる地区もある。 (ぎおんだご) 山内町のお祭りにはかかせない一品。がんまいの葉(サルトリイバラ)に包んだ食べ物。 家々によって素朴な深い味わいがある。 盆踊り 7月15日に行われる盂蘭盆(うらぼん)は、古く飛鳥時代から始まったと言われている。 年に一度、この世にもどって来る先祖様や精霊を迎え、また送るための風習になったもので、神送りの一種として行われていたが、現在では、その宗教的な意味も薄れたものになっている。 黒髪山大巡り 大正3年5月2日に新西国霊場が開創され巡礼が始まり、以来毎年八十八夜の日に行われている。 早朝、打初所(うったちじょ)の三十三番礼所「定林寺」を出発し、小路、浮待坊( ちまちぼう)から雌岩、雄岩を経て、黒髪山へ登る。太鼓岩不動尊から表参道を下って、 水尾の滝の観音を経由、有田の泉山までのコースで行われる。参道を登り小さなお堂をくぐると、そこには接待(せっちゃあ)と呼ばれる地元のおばさんたちが、手作りのよもぎまんじゅうや漬物、お茶でもてなしてくれる。参拝者と地元の人たちの楽しい交流の場となる。この行事が盛んだったころは、三千人近い参拝者があったが、最近は千人くらいである。しかし、山内町で毎年行われる行事で最もにぎやかなものの一つである。 (有田陶器市) 黒髪山大巡りの翌日に「有田郷」の巡拝がある。そこへ参拝するお巡りの方々へ、窯元、商人のおかみさんたちが焼き物の半端物や傷物を格安で売り出したのが今のような一般の方を対象とした「有田陶器市」の始まりだといわれている。 (一日の行動記録) 9:15 六本松出発 バスで佐賀へ 11:05 三間坂に到着 (約束の時間まで間があったので、付近を散策した。 水田は圃場整備が行われており、きちんと区画された田んぼが整然となら んでいた。だが、水路などすべてがコンクリートで固められている訳ではなく、土手など土のままになっていて、雑草が生えることで崩壊を防いでいる。小さな水路には、田んぼ毎に板で関がつくれるようになっている。 川は壁はコンクリートで固められているが、底は土であり丈の高い草が 生い茂っている。 山の斜面に作られた田んぼは、比較的小さく、形もいびつである。いわゆ る“棚田”になっている。 13:30 中尾さん宅訪問 この地区は古老の方がもともと少ない上に、地区の集まりがあったのでお 年寄りに話をきくことができなかった。 昔聞いた話を思い出して教えていただいた。 16:10 中尾さん宅から出る。 16:20 バスで福岡に帰る。 |