原中

1TE98161P 樽見 幸祐 1TE98182N 長浜 顕仁

お話を聞かせていただいたおじいさん
水田 麻男さん 昭和4年生まれ


村のしこ名
山内町小字牟田のうちに  ウラタ(浦田)
                 ウラタ道      ウラタから西に伸びる道
     小字七岩のうちに  ツボイシ(坪石)
     小字丸太原 横尾松 ウッツメ谷     昔の戦場で ここではさみうちがあったこと
                             に由来する
     四切田の境界付近に


しこ名 ウッツメ谷について
昔、この山内町を含む地域は武雄藩に属していたのだが、その武雄藩のお殿 様に男の子、つまり跡取りができないときがあった。そのため武雄藩は今の長 崎県にある平戸(松浦藩に属する)から養子を迎えることになった。そうした ところ、突然武雄藩のお殿様に男児が誕生した。そのため藩内で跡取り争いが 生じ、その一連の戦いのうちでこのウッツメ谷付近ではさみうちがあった。ウ ッツメ谷とは、「はさみうちをする」ということのこの地方での方言「うっつ める」という言葉に由来するらしい。

山内町となる前の村の名前
中通村
住吉村

村の水利
原中にある水田には、ため池である原中池より水を引いている。 また、水路は 昔から現在に至るまでほぼ変わっておらず、最近、整備がなされただけである。 また、昔は、一家に一つ井戸があった。

村の道
昔の村の道がそのまま現在にまで残っている。現在の道は、昔の道をただ舗装し 直しただけである。

村の昔の暮らしについて
・昭和4年以降、村に電気は来ていた。
・終戦後、塩は、伊万里まで買い出しに行っていた。
・食事は、梅干しや野菜がメインであった。
魚は、川魚(フナやコイなど)を食べていた。ときどき、クジラの肉を食べてい た。

昔やっていた遊びについて
・竹馬
・ビー玉
・ぺちゃ (=めんこのこと)
ねんぽう  木の枝を30センチメートルぐらいに切り、その先をとがらせ、 それを地面に向かって突き刺さるように投げる。次に、相手の人が 同じようにして投げる。このときは、相手の木を倒すように投げる。 もし、相手の木を倒すことができれば、相手の木を奪うことができ る。相手の木を倒すことができなければ、奪うことはできずに、次 の人と交代する。これと同じ事を繰り返して、遊んでいた。
メジロとり いろんな罠を作り、それを仕掛けてとっていた。めじろをつか まえては、それを焼いて、食べていた。また、それは、若者のお やつにもなっていた。

村の祭りについて
毎年7月17日に、ゴンゲンさん(鎮守神社のこと)で行われているお祭りがある。このお祭りでは、青年たちの踊りがメインに行われている。
秋には、アラ踊りと呼ばれている踊りが行われていて、浮立と呼ばれる笛や太鼓のおとで、踊られる踊りである。この踊りは、その年の豊作のお礼をあらわすもので、この祭りは、5、6年ほど昔は毎年行われていたが、現在は、人口が減少していて踊る人が減ってきているため2年に1回しか行われなくなっている。
山内町で行われているお祭りの中では、山内町住吉村にある黒髪神社でのお祭りが本格的に行われている。そして、その黒髪神社には、天照大神の母であるイザナミノミコト、難問題を解決することができるといわれているコトサカノミコト、それに、将来を見通すことができるといわれているハヤタマノミコトがまつってある。また、黒髪神社では、1月7日に、国の運を占う儀式が行われている。

山内町で行われた農業政策
昭和10年頃、農村振興のため、村の若者10人から20人ほどで、北海道か ら乳牛を導入した。その当時で、乳牛一頭は田んぼ1反分の値段であった。し かし、牛乳を作ることができてもそれを消費する消費者がいなかったため、需要 と供給の関係がうまく行かずに、失敗してしまった。そこで、子どもが生まれた ときに、その生まれた家に牛乳を持っていっても、その子どもが牛乳を飲むこと が出来なかった。また、雌の牛が生まれ続ければ何の問題もないが、雄が産まれ たときには組合の人たちがその牛の処理をしていた。そのため、ほとんど収入は なく赤字になった。その結果、約20年後には、ほとんど酪農家はいなくなって  しまった。
同じように養豚や養鶏を始めても、飼育や生産はある程度うまく行くけれども 販売の経路がなかったため、売ることができずに失敗していた。
その後この地域では上の酪農などと同じように、みかん、しょうがなどにも相 次いで力を入れたが、農業では往々にして豊作の年は作物の値段が下がる、いわ ゆる豊作貧乏のような状況に陥ることがあったため、これらも徐々に衰退してい った。
終戦ごろ(おじいさんが17歳のころ)、かぼちゃやいもを博多から買いに来 る人がいて、その人が田んぼに作物の花が咲いたころ名札を立てて、そのかぼち ゃやいもを予約していった。 そのころは、仕事がなく有田の焼き物を作っている人たちもくびになった。そ して、農地の値段が下落した。

おじいさんの武勇伝
自分たちが話を聞いたおじいさんは、今までの年配の人たちの失敗を見てきて、 販売の経路を確実に得ることで成功するのではないかと考えて、日本中を歩き回っ た。そして、お茶を作ろうと考えて、ブルドーザーを用いて谷を埋め、自宅の周り に製造所、冷蔵庫、加工所を作り、また、商標も得て、販路を確実なものにした。 その結果、今は、全国から注文が来るほどにまでなり、そのお茶で収入が上がるほ どにまでなった、とおっしゃった。
また、おじいさんの話では、おじいさんは3度死にかけた、とおっしゃった。ま ず1つめは、戦時中、トロッコを用いて土や石などを運ばなくてはならないときに、 ちょっと油を売って休んでいるときに、いきなり山が崩れ土砂が押し寄せていると きに、周りから、逃げなさい、と大声で叫んでいたにもかかわらず、その声が聞こ えなかったので、その場所を離れるのが遅れてしまったために、その押し寄せてく る土砂から逃げようと必死になって走り、危うくつぶされそうになった、というこ とがあった、とおっしゃった。
2つめは、とある大雨の日にため池の水が氾濫していて、このままにしておいた ら危ないと思って、ため池の水のはけ口を開けるよう村の責任者に言いに行ったと ころ、その池には立派な鯉を飼っているらしく開けたくないとおっしゃったので、 しかたなく、家に帰りしばらく外を眺めていると、今さっき行った村の責任者の息 子さんが、父を探して歩き回っていて、それを聞いたおじいさんは、慌ててその責 任者の人を探しに出かけた。外は、強い雨が降っていてその人が川の水に流されて いるのではないかと心配していると、どこからか男の人の声が聞こえてきたのであ たりを見渡したところ、どうやら橋の下かららしく覗いてみるとそこには人がいた。 そこで、おじいさんは、急いでその人を助けたそのときである。川の水があふれて おじいさんたちは流された。無我夢中でもがいているとそこに草の根があったので、 必死になってつかんだ。その時ばかりはさすがに死ぬかと思った、とおっしゃった。 後でその草の根がお茶の根で知ったとき、何かしらの運命を感じた、とおっしゃっ た。
おじいさんが、その事件で得た教訓が、以下の言葉である。
「親に無条件に感謝できることが、人生の第一歩である。」
このようになったとき、自然と勉強するようになり、友人も良くなって、無敵に なるとおっしゃった。

感想
この現地調査をおこなったことで、いろんなことを知ることができて、貴重な経験 になった。この経験を生かし、これからがんばっていきたいと思う。