白水

1TE98180G 中村 有作  1TE98147Y  角  雄士

鈴田 喜克様
Q 1994年(平成6年)つまり今から5年前の旱魃のときの対策について。

A 水道は時間給水になった。
井戸を使ったり、もらい水をして節水していた。

Q もし旱魃が50年前であったら。

A 井戸で間に合わせていた。
食事の水は瓶にためて、うわ水だけを田に流した。
日年の方が良質の豊作になり、雨年は凶作である。

このあたりでは、旱魃が多いため、昔からいろいろな対策がなされてきた。
山にため池を作ったり、木を植えたりして旱魃に対応してきた。

Q 整備以前には、村の水田には湿田や乾田が入り交じっていたことが考えられる。昔この村で特に米が取れるところ、逆にあまり取れない田んなかがあったのだろうか、場所による差があったのだろうかを尋ねてみる。またその理由がわかれば聞いてみよう。
 麦が作れる田(裏作ができる田)が乾田、できない田が湿田。それぞれ戦前、化学腔料か入る前で米は反当何俵か、良い田と悪い円でどれほどの差があったのか。化学肥料が入ったあとではどう変わったのか。戦前には何を肥料にしていたのか。良田、悪田は地図の上でも確認すること。

A このあたりでは、全体的に湿地帯で米の取れ高は中以下であった。
戦前には、人糞、堆肥、豆粕を肥料にしていた。1反あたり5俵ぐらい取れていた。
化学肥料(金費と言っていた)が入ったあとでは、地力の低下、保水の悪さ、連作がきかないなどの問題が生じてきた。

Q 村に電気はいつ来たか、プロパンガスはいつ来たか。それらが来る前はどんな生活だったのか。

A 電気 1897年(明治30年)以前
 ガス わからない

Q 山に近い村だったら、入り会い山はあったのか。山が遠い村だったら、どうしていたのか、薪を誰かから買うことがあったのかも聞きたい。

A 入り会い山はあった。

Q 米は農協に出す前の時代は、いつだれに渡したり、売ったりしていたか。青田売りというのはあったのか。家族で食べる飯米(はんまい)はなんといったか(福岡県でほひょうろう米といった)。どうやって保存したか。ネズミ対策はどうしたか。
50年前:食事における米・麦の割合は?稗や粟のような雑穀を主食にすることはあったのか。

A 「米相場」という人がいた。
米は「素蔵」に出す。
飯米の名はもうわからない。今は「保有米」と言っている。
ブリキや焼き物の瓶に保存していた。ふたが付いているので、ねずみは入らない。
米と麦の割合 8:2
芋、だご、ふきなども食べていた。

Q 牛や馬はいたか。各家に何匹いたか。雄だったか雌だったか。ふつうはおとなしい雌牛を飼うがとくに力作業が必要なときは、力の強い雄牛(コッティといった)を飼った。家で1ぴきがふつう。博労(ぱくろう)はいたか。いたらどんな人だったかも開いてみよう。

A 家に一匹の雌牛、5,6匹の鶏を飼っていた。
「ばくりゅう」がいて牛や馬を交換して、もうけていた。

Q 塩や魚はどこから来たのか。だれが運んできたのか。道は地図の上に記すこと。

A 「ノイテ」という道はなっかた。
古い道を使って、衣類、反物、鉄、米、野菜などの農作物を牛車、馬車で運んでいた。
塩や魚は玄海から運んできた。

Q 村の神様や祭りにはどんなものがあるか。どんな組織で行うか、全員参加か、昔はどうだったか。

A 浮流  
7月の夏祭り
秋のお彼岸   組合役員、青年団全員で行われる。
6月末の田祈祷 
おひまち    各部落ごとに行われる。

Q 昔の若者について

A 家では仕事の手伝いをしている。
クラブというものがあり、若者は青年団にとまりにいく。

Q 今後の日本産業への展望について

A 自動車などの産業がいきづまり、日本も貧乏になって、食料難がくる。
西洋文明から東洋文明に戻るかも。
学生がもっと勉強し、少ない資源で多くのものを作るよう努力が必要。