【杵島郡山内町谷川内、上戸地区】
歴史の認識 現地調査レポート
佐賀県山内町谷川内・上戸地区担当
lec98199:久保山 渉
1ec98207 佐藤 智浩
平成11年7月10目、私達は佐賀県山内町へと向かった。今回のこの地を訪ねる目的は犬走地区谷川において失われつつある通称地名を聞き取り、それを記録して後世に残すことである。又その他記録されずに失われつつある昔の村の姿、生活形態などを調査し記録する事である。
まず私達は県道嬉野山内線から第一の目的地、谷川内地区へ入った。その後車を降りてしばらく歩くとすぐに農作業中の老夫婦に会った。そこで福田政行分さん(88歳)にお話を伺う事が出来た。高田さんは最初に佐賀県の方言について語って下さった。以前聞いていたとおり「はい」という返事を「なあい」というのが一番特徴的で誤解を招きやすいと面白そうに語っていただいた。
福田さんからは住宅地についているシコナ(タニンコガ−谷古賀、ヒキジ−引地、ナカンコガ−中古賀、カミンコガ−上古賀)を聞く事が出来た。しかし、残念な事に当地区は昭和53年3月に29ヘクタールの圃場整備が行われ、それまでの特有の段々と連なる田は無くなってしまい、これに伴ってそれまでの田についていたシコナも廃れてしまっていたのだ。また、それまでと比べると新しく出来た道路や小道のために田そのものの占有面積も減少したという事だった。この整備と平行して谷川内では昭和55年に農村公園もつくられ地元住民のふれあいの場となっているそうだ。
また、この地でも他の農村と同様に若者の脱農業化に伴う後継者不足に深刻に悩まされていた。すでに数十年前までは田や畑として活用されていたが今ではすっかり荒れ地となってしまった場所もあるそうだ。
この辺りでは水道が通る前までは裏山や各家庭に作った井戸を通して生活水を確保していたそうだ。水道が通ったのは今から30年ほど前で、馬場野地区の川からポンプで山ヘ汲み上げた水が水道水となっている。山の名前は残念ながら分からないとのことだった。
農業用水は川から引いた水を用いて田の中を巡らせているということだった。私達が訪れた時にはあちこちから水の流れる音を耳にすることが出来た。水に困ることは無いと聞いたが実際に5年ほど前の旱魅のことを尋ねると、ほとんど目立った影響は無かったという返事だった。そればかりか福田さんの記憶に残っている限りではこれまでに水不足について悩まされたことはなかったそうだ。
話を聞きながら福田家自家製の瓜の漬け物をご馳走になったが、田舎ならではの素朴な味わいで大変おいしかった。ついついもう一つもう一つと言いながら沢山いただいてしまった。
そしてそろそろ帰ろうとする頃、佐賀では「さようなら」とは言わずに「おいけんさい」と言うからそう言わないといけないよ、と冗談も飛び交った。何とものどかで好印象だった。
その後私達は次の調査地点である上戸へと向かった。地図にある小道を頼りに進んでいたのだが途中から砂利道になっていた為、普通乗用車ではこれ以上進行不可能と判断し、一旦引き返し道を尋ねる事にした。すると山を辻回し遠回りするか、今途中から引き返してきた道を進むしかないとの事だった。一度は諦めたものの、今回私達にはあまり時間が無かった為、砂利道を行くことになった。そして何とか目的地上戸へと到着した。
今度は以前から迪絡のとれていた山口知正さん(83歳)を訪れて話を聞いた。しかし上戸でも残念な事に目的の一つであるシコナと呼べる物は特に無いという事だった。ただあえて言うならば、すぐ近くの神六山にちなんでこの辺りの事を「神六」と呼んだり、鍋島大村の戦さで999人が犠牲になったのに因んで、さらに犬を一匹殺すことでちょうど1,000人ということにし、「千人塚」と呼ぶこともあるということだ。
今回はシコナについての詳しい話は聞けなかったが、上戸地区の開拓から現在に至るまでの色々な話を伺うことが出来た。上戸地区は戦後の政府の開拓方針にともない希望者を募って開墾された地だったのだ。当初は道と言えば獣道と言うにふさわしい、人がやっとれるくらいの道しか無く、そこを通って麓と行き来していたそうだ。だから子供が通学するのは親子とも心配の種となったそうだ。谷川内地区から上戸地区に来る途中猪が出るのではないかと話していたが、最近では本当に猪の被害が多発していると聞き、笑い事ではなくなった。
ここで山口さんの若き頃の武勇伝を聞いた。山口さんは、昭和10年7月20歳の時、軍隊に入隊し、それから常に前線で活躍していたそうだ。そして昭和19年の3月1日に帰還命令を受け、国内で海軍学校の教官として任務に就いた。そしてその年8月、日本は敗戦へと追い込まれたのだ。あの時帰還命令を受けないまま前線で戦っていたならば生きて帰って来ることはなかった、ということである。その後昭和21年に政府が募っていたこの地区の開拓計画に参加することを決め、山道を切り開いていったと言うことだ。早くも開拓の2日日には標高350メートル程の当地に仮小屋を建て、先頭に立って開拓を続けたことから、当時は「開拓の山口」だとか「開拓の鬼|とさえ言われていたと誇らしそうに話しておられた。
その頃この付近には隣接区である西川登地区の田が点在していた程度で他には何も無かったそうだ。開拓してから数年間の間生活水の確保には困らなかったものの、農業用水の確保に頭を悩ませ、仕方なく陸稲やもち米をはじめとし、麦やサツマイモなどのあまり水を必要としない作物を作っていた。
しかし、頭を悩まされるのは水だけではなかった。野兎などの小動物もせっかく植えた農作物を食い荒らし大変な被害をうけたということである。
このような経験から昭和27年には、こうした作物に加えお茶を作ることにした。そしてお茶を売ったお金で米などの食物を手に入れたということだ。それに牛や豚も手掛けており仔牛・仔豚を育てては売ることで利益を得た。当時は肉類の輸入も無く高値で売れたため大変順調だった。
しかし、このようなことが良くは続かない、と予想しあくまでお茶を中心に生計を立てることを考えていた。その後昭和42年には現在鳥栖にある横尾物産から養鶏を薦められ200羽くらいの飼育を地区全戸で始めたが、これも鶏糞をお茶の肥料にするために始めたのだった。
しかし、養鶏を始めたのは大成功だった。上戸周辺は大変環境に恵まれており養鶏に必要な綺麗な空気と水が揃っていたので、順調に成長しあっという間に2万羽〜3万羽にまでなったということだ。それでも山口さんは、養鶏はあくまで鶏糞を得る段階での副産物として考え、一時的な成功に有頂天になったりしなかったのだ。
このように色々な場面でお茶を作りつづけることを選択したことにより、今の上戸が成り立っている。もしあの時畜産業に的を絞っていたならば、輸入の自由化に伴い大損失を被っていただろうと振り返る。山口さんはお茶を選んだ理由の一つとしてお茶はどんなに不作でも経費がほとんどかからないので赤字になることはない、逆に畜産などは餌代だけでもバカにならず、損失が出る時には大損失になる可能性があるからだと説明してくれた。山口さんの堅実な性格を伺うことが出来る。
ここではおいしい空気と水で育ったお茶をさらにおいしい無添加の水で飲むから最高のお茶が飲める。このお茶の種類は嬉野系統の「ぐり茶」と呼ばれる物で、くるくる巻かれた形で乾燥されている。色々な所からこのお茶を訪ねてくる人がいると嬉しそうに語ってくれた。
こうして様々な角度から見てみると、お茶とは上戸地区にとって気候面から見てもその他の環境面から見ても最も適した作物だといえるだろう。さらに山口さんはお茶を作ることで全ての借金を返済してしまっているのだから非の打ち所が無い。
そして、上戸地区に電気が通ったのは昭和34年のことだった。それまではというと、石油ランプを使っていた。今から30年ほど前には井戸水をタンクにため水道を通したということだ。神六山の8合口付近から流れ出る水は、何故かどんなに旱魅の年であろうと涸れることはないといって現地の人も不思議に思っている。だから、山頂付近の上戸地区にもかかわらず、今まで生活水に困ったことはないということだ。加えて主な作物はお茶であるから最近でも特に水に悩まされることはなかった。
他にもこの地区で山口さんは住民の中心となって様々な点で活躍している。30年ほど以前に小学生が飲み水欲しさに田の水を飲んで腹痛を起こした時も真っ先に町長の所へと出かけ資金を調達し、2トンものタンクを設立した。最近も交通の不便さを解消するために中心となって道路を建設した。このように上戸地区は昔ながらの強運の持ち主であり、やり手の山口さんを中心としここまで様々な困難を団結して乗り越えてきたのだ。現在も上戸の人々はお茶を中心に一部柑橘類や米、畜産も手がけながら生計を立てている。
今回の調査で私達は色々なことを学ぶことが出来た。それは今回の調査日的に限らず、色々な物の見方・考え方にも影響する物だった。終戦後厳しい状況の中何事にも挫けずに真っ直ぐつきすすんできた山口さんの話には現在を代表する若者の一人である私達に沢山のことを訴えかけていると思う。人間の持つ可能性とは如何なる物なのか、どんなに素晴らしい物なのか考えさせられる。
こうして私達は調査の目的の達成度には満足できないものの、今回の調査を通して一周りも二周りも成長した気分に浸って帰路へと就いた。