『歩いて歴史を考える』 現地調査レポート 1AG98118M 竹俣 佳世子 1AG98139G 藤 良江 調査日 1999年7月11日 調査地 佐賀県杵島郡山内町上原(ウワバル) 話者 山下 繁秋氏(S.22生まれ) 山下 アサノ氏(T.9生まれ) (しこ名)一覧 区分 小字名 小名(しこ名) 小名の由来 田 上原 イデグチ(井手口) 井手の近くなので 田 上原 ウワバルチャーバー(上原チャーバー) 上原にあるチャーバーなので。 田 上原 カイショク(刈食) 稲を刈っても夜食にするくらいしかあまりとれない田 田 上原 カワラヤンウラ(瓦屋裏) 家の裏にある 田 上原 ヤシキ(屋敷) 家の近くなので 田 上原 タナ(棚) 家より標高が高い場所にあるので(=棚田) 上原 ガンジョク 上原 ハカワラ(墓原) 墓がたくさんあった場所なので。(**) 田 上原 ヨシンモト 上原 ヨシンモトの谷 森林 上原 ヨシンモトの山 田 小路 クウジチャーバー(小路チャーバー(田原?広手?)) 小路にあるチャーバー(*)なので。 田 鴻ノ巣・網ノ内 ムカイミチ(迎道) 家から見て道のむこう 地域 白岳 シラタケ(白岳) 山 太平・網ノ内 タンコウ(炭坑) 昔炭坑だった山 地域 白岳・鴻ノ巣 クウノス(鴻ノ巣) 田 網ノ内 カミアリャー(神洗?) 川に井手があったところ 畑 カイコンチ(開墾地) 山を開墾して畑にした場所なので 森林 白岳 ハギワラ(萩原) 森林 白岳 ナガオ(長尾?) アゼミチ(あぜ道) ミズバン(水番?)さんが通る。 * チャーバー:民家はなく、田しかない広い場所のこと。 コゼマチ(小畝マチ)=小さい区画の田んなか。 ウゼマチ(大畝マチ)=大きい区画の田んなか。 ** 昔、土葬をしていたときは、地蔵さんのところで葬式をしていた(今は納骨堂)。 水路・道には特に名称はなかった。 田について 田の種類・土質 田は基本的に乾田で、上原チャーバー、小路チャーバーには麦・ナタネを必ず植えていた。現在は麦の値段の下落などで作っていない。 ヤマダ(山田)やカイショクなどはふけた(土質がゆるい)所(湿田)である。 特にカイショクは土が牛の腹までつくほど土質がゆるかった。 良田はクウジチャーバーとカミバルチャーバーで、クウジチャーバーは6-7俵取れていた。 クウジチャーバーは水路も近く一番の良田だったと。カミバルチャーバーは次点といったところでクウジチャーバーと比較して干ばつもあっていたし、がんぱす(地味が悪い)であった。一方カイショクは名前の由来の通り悪田だったようである。 飼っていた動物・その取引について 97%の農家では牛を飼っていた。牛はメスのほうが扱いやすいということで中心だったようである。オスはツノでつかれるため、敬遠されていたようである。残りの3%の農家では馬を飼っていた。馬を持っている人は馬車ふきを持っている人であった。 昔は金がなかったのでさばける大きい牛を半分しかさばけない子牛と交換し金を得ていた。 昭和10年くらいまで牛を使っていたようである。 村にはバクリュウと呼ばれる牛換え人がおり、買う人と牛を持っている人の交渉の仲介役をしていた。バクリュウは宮野地区に4-5人いた。 干ばつ時の対処や米・田の取引について 干ばつのときは黒髪山で雨乞いをしていた。山頂に天童岩があり、三日三晩フウリュウ(金属の太鼓)をたたいて祈願していた。 青田売りはお金がない人がやっていた。アナナイ教(宗教)がはやったころ、青田売りがはやった。 また、田をそれほど持っていないものは田をたくさん持っている人の田を作ったりしていた。 米は農協に渡すようになる前は米商売人の人に渡していた。米商売人は宮野地区に2-3人いた。 その他 石 ホトケイシ(仏石) (↓下の写真参照) 橋 網ノ内 サヤンガミ橋(道祖神橋) サヤン神をまつっている橋 ムラの祭り 名称 行われる時期・内容など ヒガンゴモイ(リ) 秋のお彼岸の中日(9/21)に行われる。 タキトウ(田祈祷) 田植え後の一息ついた後に行われる。 クンチ 黒髪神社の秋祭り。 ショウコンサイ(招魂祭) 戦死者のお祭り。 住吉村のときにあっていた(***)。 ギオン(祗園) 黒髪神社の夏祭り。若者による芝居や踊りがあった。団子を200-300個作ってふるまっていた。 トウロウガケ 地蔵・観音様の祭り。 祭りは基本的に全員参加であった。 *** 昔、JR佐世保線あたりを境に住吉村(すみよしそん)、中通村(なかどおりそん)であったものを昭和30年ごろ合併し山内村となる。その後山内町となった。 参考≫ 黒髪神社の流鏑馬神事の由来 若者の過ごし方 若者は大正〜昭和初期は貧しかったのと出稼ぎが絶対なかったため、夜は縄ないやムシロなどのわら工品をつくるため2時間くらい夜なべをしていた。 青年は公民館に寝泊りしてしゃべり、女は25歳までは女子青年団にはいり、1ヶ月に何回か午後から修養(学校から先生を呼んで話を聞いたり習い事)をしていた。これにはいらないと世間知らずになった。男は青年団にはいった。 電気・ガス・テレビについて 電気は大正12年くらいには来ていたのではないかということである。小さいころはランプを使用しており、ホヤ掃除をしていた。 ガスは昭和35年頃にはあって、テレビは昭和39年前は1部落に1コくらいあった。 昭和39年に全国的に東京オリンピックがあったためテレビが普及したのに併せ普及した。 ガスを使用する前は薪を使用していたということで、薪は自分の山を持つ人は自分の山より、自分の山のない人はもっている人の山から下ばらいをしてお願いしていた。 おもに萩原やヨシンモト、ナガオの山で薪をとっていた。 ムラのこれから まず後継者が心配だという事。中にはあきらめている方もいらっしゃるとの事。 今、老後に農村で農業をして暮らす人がいるが、そうではなく若者が世帯もちになったら農業をやってほしいと言っておられました。つまり、"趣味"としての農業ではなく、"職業"として農業をやっていってほしいという事だと思います。 またそのようなことを実現するために、今の青年が農業にあこがれるような政策をしていってほしいと最後に言われました。 一日の行動記録 09:00 大学(六本松キャンパス)集合。 ↓ 09:15 大学出発。 ↓ 11:40 山内町上原に到着。 お昼に重なるので神社で軽食をとる。 ↓ 12:00 山内繁秋さん宅へ伺い、調査開始。 ↓ 14:45 聞き取り終了。 ほかに詳しい方を紹介していただき電話を入れてもらうが不在。 ↓ 上原地区を散策。ホトケイシやサヤンガミ橋、黒髪神社などを訪れる。 ↓ 16:00 山内町出発。 ↓ 18:40頃 六本松到着。解散。 現地調査を行っての感想 今回訪れた山内町上原が私にとっては3回目の現地調査だった。今まで言った中で近代 的すぎず、田舎すぎず、一番きれいな景色だったのが上原だ。 聞き取り調査が終わって時間が余ったので田圃道を歩いてみたりして、久しぶりにゆったりとして時間を過ごす事ができた。 調査に協力してくださった山下さんのお話でしこ名を知っている人は他にはほとんどいないそうだ。 しこ名を知っている貴重な人に出会えて、記録に残す事ができてとてもうれしく思った。 【竹俣佳世子】 山内町を訪れてまず自分が思ったことは、山と田が創り出す景色がとてもきれいだったという事である。これがいわゆる田園風景なのだなぁと思った。 日頃あまりない緑に囲まれた環境を散策でき、ストレスが和らぎ良かった。 今回お話を伺って、都会に出ていく田舎の若者・田舎を農業という産業で活性化させたい年配者・趣味として農業をやろうとするが若いうちはあくまで都会で働く都会の人達と人々の思惑はうまく一致しないもどかしさを感じた。 人々の思惑を一致させるためには農村の魅力を都会の者に伝えるだけではなく、その生活の良い面・悪い面を伝えつつ、作物を生産する喜び、楽しさを伝えなければならないと思った。 【藤 良江】 |