しこ名 山……ツヅラダケ(キツネ岩)、ワクドウノ山、ビシャボウノ山、 天神山 田畑……ウランマエ、コナカバ、ベットウ、カネワイ、 イランサカ ため池……ジンジロ、カネツケ 谷……ホンダニ、フウゼン谷 以上全13個所 一日の行動 11:00 山内町 中郷に到着 森蓮和を目指して歩き出す 下田商店でパンを買う 11:30 手紙を出した田島氏の家に到着 話を聞く 田島氏の母親の家に行き、さらに詳しく話を聞く 山領氏を紹介してもらう 山領氏の家に到着 話を聞く 13:30 話が終わり、下田商店の近くで昼食 14:00 下田商店の人に誘われ、家の中に入る 家の中では、田島氏もいて、15人ほどの村の集まり(いせこという)が あっていた ごちそうをかこんで、楽しく会話をされていた 16:10 世話になった礼を言ってバスが来る集合場所へ 村の人の話 今は、一面水田ばかりだが、昔(50年以上前)は‘生姜の産地は犬走’という歌があるくらいの生姜の産地で、村が豊かだった。昔はもちろん農家ばかりで、朝早くから田畑に出て精を出していた。子どもは良く家の手伝いをし、薪を取りに山へ行っていた。今のように学歴社会ではなかったので、学問を志す人はわずかで、勉強する子どもは少なく、良く外で遊んでいた。遊びかたはよく知っていて、夏は川の少し深いところで泳いでいた。たらみ(氷柱)を取りに行って食べていたこともあった(親に怒られたらしい)。昔の子どもはいじめかた、いじめられかたも良く知っていて、今のように死ぬまでいじめたり、陰湿なこともしなかった。パッといじめてすぐに去っていく感じだった。医者は金がかかるし、遠方より来てもらわなければならないので、ほとんど医者にかかることはなかった。人生50年といった時代は、戦争で死ぬ時代。 土地によって米の善し悪しが違うもので、鑑識により一等米、二等米、三等米、等級外に分けられた。俵に先の尖ったフォークみたいなものをさして、米を取り出し、検査して等級を決めていた。 今でも森蓮和では一軒だけ牛、馬を飼っている家があったが、昔は力の強い赤いうし(ゴトウシ)を1家に1頭農作業用に飼っていた。 冬は農作業ができないため、むしろ(わらで編んだ敷物)をつくったり、わらじをつくっていた。 村に2個所あった水車では、米をついたり小麦粉をつくっていた。 店のない時代は物々交換をしていた。魚などは、今の県道を通って長崎の方からきていたらしい。 今のアスファルトの道は、もちろん昔は砂利道で、馬車などが通っていた。車は、40年くらい前には走りはじめていて、よくエンストを起こして手動でエンジンをかけていた。 水道がない時代、山の湧き水を飲料水、農業用水につかっていた。湧き水は冷たいので、田に水を張るときは、水路を長く取って水の温度を上げて田に水を入れていた。 「青年クラブ」……むらの一つの小屋に若い男子(18から結婚するまで)がともに寝泊まりしていた。昼は働き、夕食までは家族といっしょで、寝るときは小屋。 電気は50年くらい前はすでに普及していたらしい。 昔の葬式は、人が入る大きな甕に死人を入れ、4人で山へ担いで上り、埋めていた。葬式は長い行列ができたらしい。墓の場所は家によって様々。たいていは家の山手へ登ったところ。 伝説 昔、黒髪山に大蛇がすんでいて、人身御供(いけにえ)をささげ、気を静めていた。森蓮和の西の村に、松尾ダンシュウという強い侍がいて、その娘をいけにえに捧げるとき、娘が飼っていた犬が走っていった場所を、犬走という。道の分かれ道があるところで、犬が小声で鳴いたことから、そこを小声(今は小越)という。最後は松尾ダンシュウが大蛇を退治したそうだ。 昔は伊勢神宮へ参るこう(積立金)を村で集めていた。その集まりが今の寄り合い(伊勢こう)につながっている。この調査の日がちょうどその日で、15人ほどの人たちがごちそうを囲んで楽しく会話されていた。 この森蓮和では、9月に祭りがある。子供舞流(小学校5、6年生は必ず参加)、面舞流、獅子舞流。宮崎県のしいば村と舞流を通じて交流がある。地方によって音楽、楽器、面は様々。 |