(1)しこ名 田:柿古場の田については不明 田んぼについてよく知っている古老の方を紹介していただいたが、他の質問から尋 ねているうちに、時間が足りなくなり、結局調べることができなかった。 池:野林(ノバヤシ)池のことをノビャーシ池と発音する 川:三間坂川のことを舟の原川と呼んでいる 橋:現在のロクジゾウ(六地蔵)橋は圃場整備の時に造られたもので、ヒエダ(稗田)橋とも 呼ばれている。もともとは、もっと上流にあった橋を六地蔵橋と呼んでいた。 ()水利 西ノ間、三反田:ニシノマ(西ノ間)水路、エダタダニ(枝田谷)水路 用水源はクロニタ(黒仁田)池 黒仁田池は灌漑用として使われているが、水道源として利用しようという話が出 て、もめたこともあるらしい。 黒仁田池の北にある椎谷池は、42〜43年ほど前に造られたため池で、現在は 上水道の水源となっている。 松ノ木、浦川内、後川内:マツノキ(松ノ木)水路、ウシロコウチ(後川内)水路 用水源は松ノ木池 農薬を使い出してからは、水路に生息していたドンコや昆虫の数も減少していた が、最近は農薬が弱くなったため、再び見られるようになった。 <昔の水争いの有無> 昔は大なり小なり個人同士での水争いはあったが、圃場整備後は、水路も整備されて、 勝手に水を取るようなことはできなくなった。 <1994年の大旱魃> 雨が1ヶ月くらい降らず、堤の水も空になり、雨乞いをしてただ雨を待つしかなかった。 飲み水さえも不足し、井戸の水を田にやったり、果物農家では、水をタンクに汲んでき たりしたところもある。 この旱魃で普段の3分の1くらい減作だった。また、この年は水を汲むためのポンプが 大量に売れた。(ポンプを貸すから、堤から水を盗め、と言われたがそんなことはできな かった。昔は、水を盗むことは人を殺すことよりも罪が重いと考えられていた。) ()村の範囲:不明 どの道、または、どの水路が境界かはよく分からないそうだ ()村の耕地 昔は水利の加減や肥料、農薬などによって、米がよく取れる田と、そうでない田の差 は大きかった。戦前(60年ほど前;無農薬)は、どんなに努力しても1反当り3俵 ほどしかとれなかった。現在、圃場整備後は、1反当り12俵ほど取れる。また、三 反田あたりでは、1反もないくらいの田で7俵ほど取れる。 <戦前の肥料> 草、稲をとったあとの株、落葉等を交互に積み重ねて、人糞をのせて腐らせて自家 製の堆肥を作っていた。しかし、戦時中は人手も少なく、作るのに時間もかかった ため、大変だった。 ()村の発達 柿古場に電気が来たのは、大正15年、プロパンガスが来たのは、昭和30年頃で、 それ以前は山の木や、落葉やワラを燃料にしていた。(ちなみに、ワラでご飯を炊く と、火がやさしく釜にあたるので、おいしく炊けるらしい。) ()村の生活に必要な土地 入り会い山(村の共有の山林)は舟の原にあり、柿古場を含めて、6つの部落で共有 していた。 ()米の保存 米は農協に出す以前は、業者(米の商人)に売ったり、個人で佐賀まで米を馬に積ん で売りに行った者もいた。(大正〜昭和初期) 青田売り(経済的に困った農民が青田の時期に収穫を見越して先売りすること)は、 昔はあったかもしれないが、はっきりとはわからない。 家族で食べる米は飯米(ハンマイ、ハンミャー)と呼んでいた。また、昔は給料代わりに米が配給されることもあった。 米はもみをすって、ブリキやトタンで作った器で保存する。そうすると、ネズミは 入れない。昔は、ワラで織った袋(カマス)に米を入れて保存していたので、ネズミ に食べられ易かった。 50年前の食事は、戦時中だったのでまともな米はほとんどなく、くず米と麦が3割 残りの7割は、かんしょ(いも)や大根、かぼちゃ等であった。それらを煮込んで、 雑炊にして、食べていた。塩は当時少なかったので、自家製醤油を使っていた。 ()村の動物 牛や馬は機械の代わりで絶対必要であり、各家に少なくとも一頭はいた。また、ほと んどが雄だった。(雌だと、子供を産むので、その間使えないし、雄の方が力が強い ため) *私達は柿古場で肉牛(おそらく佐賀牛)が飼育されているのを見かけた。 昭和30年代に耕運機が村でも見られるようになった。 博労は、舟の原に3、4人いたが現在はもういない。昔の博労がやっていた仕事は今 農協がやっている。 ()村の道 圃場整備で道がすっかり変わってしまったため、昔の道は不明 通学路は谷のところを通っていたため、雨が降るとすぐに川のようになってしまっていた。また、当時川には橋がなく、飛び石しかなかったので、雨が降ると川を渡れなくなり、学校から帰れなくなることもしばしばあった。 三間坂川は60年ほど前は橋がなかった。 ノウテ:不明 大正〜明治はあったかもしれない。 昔は塩は伊万里まで塩水を汲みに行って、煮詰めて塩を作っていた。 魚屋が三間坂にあったが、経済的に魚を買う余裕はなかった。また、伊万里から行商 人が来ていた。 年に2回(田植え前の6月初めと、10月21、または22日)くんち(市)が三間 坂であっていた。40〜50軒の店が並び、食品や小間物、衣類などが売られていた。 昔の人々は、田植えのエネルギー源になるように、市で魚や鯨を買って食べていた。 また、塩サバや、鯨、ワカメ、干物など、塩がきいていて1ヶ月ほど保存できるもの を貯えていた。 ()祭り 舟の原祭り(夏・秋の年2回)が昔も今も変わらず続いている。夏祭りは豊作祈願、秋祭りは豊作に感謝するためである。旱魃のときは雨乞い祈願をしていた。 他に娯楽がなかったので、祭りは村人の楽しみであった。 祭りを機に結婚する男女もいた。 ()昔の若者 テレビもない時代、電気は一家に一灯しかなかった。その他はあんどんを使用してい たが、あんどんは当時油の質も悪かったため、一晩つけるとすぐ真っ黒になってしま った。しかし、貴重なものだった。そのため、若者は夜は寝て、次の日のための休養 をとるより他になかった。 若者たちが夕御飯の後、集まる場所 青年クラブというものがあり、小学校卒業後(15〜16歳)男子のみが入団し、結婚 しない限りは25歳まで団員だった。舟の原に3ヶ所あった。 悪遊び(呼び合い、夜這い(?);予告せずに女性のところに行く)、仕事の話し合 い、祭りの計画、下調べ、話し合い、前準備、練習等をしていた。 ()村の生活に関するその他のこと 個人の収入が少なかったので、結婚式を挙げたり、家を建てたりで大金が必要なとき、 村人が5〜50人、少しずつお金を持ち寄って、集めて有効に利用した「コウガケ」 と呼ばれるものがあった。昔は借りたまま逃げるような人はいなかった。今でも、し ているところがある。 共同風呂はなかったが、どの家庭も家の外に風呂があった。昔は水道もなかったので、 川(アライガワ)や水路から水を汲んできて、風呂を沸かすには、外にある方が都合 が良かった。 柿古場には、終戦の頃は、16戸くらいの家があり、多いときは26戸あったが、現 在では23戸の家がある。 <1日の行動記録> 9:00 六本松本館前に集合 9:15 六本松出発、バスで佐賀へ 11:30 バスを降りる 柿古場まで歩くこと約45分、途中で肉牛(佐賀牛)が飼育されている のを見る。 12:15 昼食 12:45 永尾さん宅訪問 15:10 永尾さん宅をあとにする 15:45 バスに乗り、福岡へ 18:00 六本松到着 <感想> 歴史の認識という点では、さまざまなことが聞けて大変ためになったが、しこ名につい ては古老の方を紹介していただいたものの、時間が足りず調査できなかったため残念だ った。(バスの集合時間が早かったことが悔やまれる)しこ名については、やはりなか なか分かってもらえず、役場に行った方がわかる、と言われた。それでも、その他の質 問についてはたくさん聞くことができて楽しかった。 また、久しぶりに田舎に行って、排気ガスも、タバコの煙もない新鮮な空気を吸い、都 市では聞けないウグイスやウシガエルの声を聞いて、ストレス解消にもなった。 |