日程 7月11日(日) 9;00 九大六本松キャンパス集合 11;30 山内町稗田古門到着 12;00 昼食 12;30 杉原幸一さん方訪問 (杉原 幸一さんに話を聞く) 15;40 バスに戻る 18;00 九大六本松キャンパス到着 私たちが今回お話を伺ったのは、山内町舟の原の前区長でらっしゃる杉原幸一さん(昭和8年生まれ、65歳)です。 調査させて頂いたのは佐賀県山内町の稗田古門という部落です。かつては稗田と古門に分かれていましたが、すでに明治以前から稗田古門という一つの部落になっていたのではないかということです。 今回の調査で私たちが対象としたのは,昔の田の呼び名であるしこ名、村の水利、1994年の大旱魃時の水対策、そして村そのもののことです。 しこ名について しこ名はあだ名などとも言い、昔の田の呼び名です。稗田古門は茶畑なども多く、田はそれほど多いわけではありません。それに稗田古門の皆さんは遠方にばらばらに田をもっていらして、稗田古門にある田がそこに住んでいる方の物とは限らないそうです。杉原さんも稗田古門から2キロ程離れた神六山のふもとあたりに田をもっていらっしゃいます。 そこで村の中をいくつかに分けた名前、小路と併せて、お聞きしたしこ名は地図に記入しました。ほとんど由来の分からないものばかりだそうですが、大タブ(ウータブ)という所は、昔大きなタブの木があったからそのように言うようになったのではないかということです。そして、堂の原という所は昔お堂があったのではないかということでした。 また、ホゲ岩と呼ばれる所は岩のとがった所にお地蔵様が祭ってあり、お彼岸には信者がお参りをするそうです。 <しこ名> 村の名前 稗田古門 田畑 小字稗田古門のうちに ササンキレ(笹きれ)、カンコバ(閑古場)、 オオタニ(大谷)、ヒラバル(平原) ニシヒラ(西平) ほか 小字稗田古門のうちに ニシ、ノクチ、タクチ、フッカド、 ギョウミ、オオタブ、サダンハラ、 ドウノハラ(堂の原)、ナカシマ(中島)、 ノウテ、山道、ゼンベイ谷、ヤマニタ、 サカヤマ、ハッサキ、ゴンボウザカ、 ヤシキ、ヨシン谷、ホゲ岩 アイノキ(相の木) 村の水利について 現在は主に、黒仁田池、椎の木池などのため池から引水していて、山のなかの涌き水も利用するそうです。ため池は川の上流をせき止めてつくります。黒仁田池は古く、大正時代か少なくとも昭和初期頃からありました。椎の木池は昭和50年に施工され、50年前の昭和23年に完成しました。これらため池は舟の原全体で作ったもので、水番さんというため池の責任者を各部落から選出し、水は平等に配分されています。このため、特別水利に強い村や弱い村などはないそうです。 また、過去の水争いも個人レベルではあったけれど、村と村での争いはなかったといいます。その水争いもため池ができてからはほとんどないようです。しかし中には水番さんの目を盗んで引水する人もいるとのことでした。 1994年の大旱魃について 稗田古門にはそんなに大した影響はなかったそうです。特別な給水制限などの水対策もありませんでした。それはやはり椎の木池などのため池があるからです。もしもため池ができる前にこのような旱魃があった場合でも、一番上流の方に位置する部落なので他から水を引くこともできずどうしようもなかっただろうとのことでした。 村について 村の範囲 村の範囲は家のかたまり具合や生協組合で分かれていて、境界線をはっきり引くのは難しいようでした。杉原さん宅も台帳では山仁田になるそうです。ゴンボウ坂は稗田古門ではなく、また稗田橋のあたりも稗田古門になるそうです。 村の耕地 圃場整備はこのあたりでは20年位前になされましたが、稗田古門は比較的山の斜面にある村なので全然していないとのことでした。こぜまちと呼ばれる小さな色々な形をした田ばかりで、実際に見てみても四角い田はあまりありませんでした。この村では米のとれかたには田によってさほど差はないようですが、やはり広くて水が多い所は米がよくとれ、狭かったり山の影で日照時間が少ない所はとれにくいということです。 また、化学肥料は50年位前から使い始めて30%くらい収穫が上昇し、農薬はもっと遅かったそうです。戦前は草を切って肥料としていたようです。 村の発達 電気が先にきて、プロパンはもっと後だったそうですが、詳しくは分からないそうです。 村の生活に必要な土地 山に近い村なので、入り合い山はあったそうです。よく薪とりをしていたということでした。 米の保存 農協は昔からあって、ない頃はどうしていたかは分からないそうです。また、青田売りはなかったけれど、減反政策で青田刈りはあったそうです。米の保存は今は格納庫ですが、 昔は藁のむしろに包み縄で固く結んでいたようです。50年前の食事は米:麦=1:1位で白飯は食べなかったそうです。戦時中はイモ、ダイコンも混ぜて食べ、ひえや粟もあったけれどあまり食べなかったようです。 村の動物 牛で昔は百姓をしていたので、各家に1匹ずつはいたそうです。牛の前は馬で、馬車引きさんもいて、有田町へ商売用として利用していたとのことでした。 村の道 古い道を通って稗田古門の人々は6/9,10/22の三間坂駅付近である市で、魚屋まで行き、クジラ、イワシなどの魚の塩づけをまとめ買いしたそうです。また、有田町で野菜を売って現金収入もあったということです。 村の祭り 村の神社はかんのんさんと呼ばれ、夏祭りは昭和23〜25年ごろ青年団の思いつきでやったぐらいで今はないそうです。しかも、全員参加ではなかったそうです。舟の原の鎮守神社の秋祭りでは、かんこ踊り(閑古?神子?)という伝統的な踊りがあり、800年前に京都から落人が来て伝わった踊りと言われているそうです。 昔の若者 昔は夜は、青年学級で手紙の書き方などの勉強会をして自分たちで本で勉強したり、先生をよそから呼んだりしていたそうです。杉原さんが若かったころは、舟の原上公民館は昔、稗田古門の青年クラブという建物で、山仁田西迎と稗田古門の男だけが夜寝泊りしていた修行場所だったそうです。 話者 杉原 幸一 (昭和8年生まれ 65歳 舟の原 前区長) 感想 杉原さんはお年は若いけれど、舟の原の前の区長をしていらしたので、大変たくさんのことをご存知でした。だから聞きたかったことがすべて分かってとても勉強になりました。 稗田古門もやはり若い人が年々少なくなってきており、農作業も大変のようですが、頑張っておられるようでした。昔のことだけでなく今の村の現状もお話してくださったので、村の変化がとても分かりやすかったです。私たちが高校までに習ってきた歴史は本当に一部であり、こういう村村の歴史も今の日本の基盤になっていることを知りました。 |