【杵島郡山内町地区】
歩いて歴史を考える 現地調査レポート
1SC98061 柳井谷仁
1LA9814武田貴弘
調査に協力してくださった方
北川善一さん:昭和7年生まれ
山内町網の内
しこ名一覧
田畑 |
|
しこ名無し |
川 |
小字網の内のうち |
さんだんば |
竹やぶ |
小字上廉のうち |
さやのかみ |
前田敏幸さん:大正15年生まれ
山内町網の内
しこ名一覧
水路 |
小字網の内のうち |
じゃこ |
堤防 |
同上 |
べー |
堀 |
同上 |
つりかわ |
・村の水利について
北川さん:
山合いでは、川からながれてくる水をポンプで引き上げ、ため池に溜めておき、そこから田畑へと水を引く。
収穫量については、どの水田も550Kgほどと、水田ごとの収穫量の差はほとんどない。
中には600キロ程とれたことのある水田もあったが、やはりそれほどの差はない。
また、網の内川の網の内周辺を流れる部分は昔、「さんだんば」と呼ばれ、子どもがよくそこで泳いでいた。
・1994年の旱魅について
北川さん:
われわれが思っているほどの被害はなかった。理由としては、近くを川が流れているため、ため池から野水が届かないところは、川からポンプで水をくみ上げて、ほぼ十分な水があった。しかし唐津などのほかの地域は大きな被害を受けた。
もしこの旱魅が、50年前にきていたら、壊滅状態になっていたであろう。当時は牛や馬で田を耕していたため、粒が粗くなってしまい今に比べてかなり水持ちが悪かったためである。
・村の動物について
北川さん:
各家には牛または馬が一頭ずついた。その馬を使い馬車引きもしていた。ばくろうは、やはり口のうまい人がなっており、今で言えば、車のセールスマンの様なものである。
・村の道について
北川さん:
「−のうて」という呼び名は特になかったとのこと。しかし今の、「主要地方道」はむかしはなく、今では土手のように草の生い茂ったところを昔、有田で焼かれた焼き物を伊万里まで運んでいた。
・村の必要な土地について
北川さん:
入り会い山は特になかったとのことである。
・村の発達について
北川さん:
昭和2、3年頃に電気がきだしたのではないか。石油コンロが昭和27、8年頃に流行り出し、プロパンガスはそれよりも後だったので、昭和30年代になってから村に広がりだした。
・米の保存について
北川さん:
米を農協に出す前の頃は、大部分を地主に納めていた。ひどい地主になると500キロの収穫の内400キロ近くをとっていった。多くの地主は、まだ稲の成長しきらない内に買う、青田買いをしていた。終戦直後から、主要食糧調整が行われ農協に納めるようになった。
昔は保存する米を、しょうろう米と呼んでいた。いまは保有米と呼ぶ。しょうろう米は籾のまま、籾倉に保存していた。籾倉の周りには、杉の葉を置き、ねずみ対策をしていた。そして保存した米は、要るときに玄米から白米に精米していた。今は、農協の低温倉庫に保存している。
・村の祭りについて
北川さん:
近くの黒髪神社で、7月23目に夏祭、10月29日に秋祭りが行われている。秋祭りでは、「やぶさめ」が行われ、かなり有名であるとのこと。昔はやぶさめに用いる馬は農耕馬だったが、今では農耕馬がいないため、福岡からやぶさめのプロが引退したサラブレッドを連れてきてやるらしい。
◎田畑のしこ名がない理由
北川さん:
平野の方ではしこ名があるが、山合いの網の内にはしこ名はなく、小字のままの呼び名らしい。
前田さん:
網の内では家々で持つ田が少なく、わざわざしこ名をつける必要がなかった。また平野の方では田が多いのでしこながあった。網の内は山合いで田が少ないので、しこ名はない。