【山内町赤田地区】

現地調査レポート

1LT98026 大串綾

 

田中岩雄:大正7年生まれ

田中はつよ:大正14年生まれ

松尾勝六:大正7年生まれ

 

<しこ名一覧>

クロタケ(黒岳)、アカイシ(赤石)、サンジュウダー、コウミテ、サシキ(佐敷)、シマメグリ、カマンツジ、シクダ、ハルハシ、サンダータ、ワカミヤド(若宮宿)、ガンジョク、コノ、コダニ(小谷)、マツント、ヒャートコ、ナキビス、ナナキリダ、サタイシガキ

 

田の名前

 小字古屋敷のうちに;クロタケ(黒岳)、アカイシ(赤石)、サンジュウダー、セタイシガキ、マツント、コウミテ(原と重複)

 小字原のうちに:コウミテ(古屋敷と重複)、サシキ(佐敷)、シマメグリ、ハルハシ、サンダータ

 小字上原のうちに:ガンジョク、コノ

 小字萩原のうちに:ワカミヤド(若宮宿)、コダニ、ヒャートコ(七切田と重複)

 小字七切田のうちに:ヒャートコ(原と重複)、ナキビス、ナナキリダ

 

畑の名前

 小字原のうちに:カマンツジ

 

橋の名前

 小字原のうちに:ハルハシ

 

谷の名前

 小字黒尾岳のうちに:フナゾコ

 

 

村の水利について

 水は七切田から引いていて小谷の上で二つに分かれていた。特に近隣の村々との水利をめぐる争いはなかった。年度により、「米一斤」などというように決めて水番に払い、水番は、約束の米を受け取ってそれぞれの田に水を引いた。水番は、大抵選挙によって決まる。決まった任期というのはなく体力の続く限りやるそうだが、水番の仕事は、毎日池まで確認に行くため体力的にも厳しく、危険が伴うので、やはり水番が高齢になるとやめるということになっていて、大体の任期は十年である。水をもらう農家の側としては、水は米を作る上で必要不可欠なものなので、水番を選ぶときには、なるべく公平な人を選ぶということだ。1996年(平成六年)の大旱魃の時には、出水に頼ったり、ガンじょくから汲んだり、タンクで水を運んだりした。田を少ししか持だない人は、その程度でも田が湿るくらいにはなるが、一人で何反もの田を持っている人は、ほとんど何の効果もなく、その年は、全くといっていいくらい米は取れなかったそうだ。そんな旱魃の時でも水をめぐる喧嘩はなく、早い者勝ちというような意識だったという。これが50年前だったらどうなっていたでしょうかと尋ねると、笑って、そりゃあもう、どうしようもなかったと答えられた。

 

 

村の耕地について

 かつては、赤田村の中でもやはり、良く米が取れる所と、極端に取れない所があった。良田のうちでも最も良い所が萩原のあたり、あまり取れなかったのは黒岳のあたりで、良い田と悪い田では納める税金も違っていた。化学肥料が入る前は肥料としては人糞が使われていた。自分の家で出る分だけでは足りないので、自分たちで有田の町まで人糞をもらいに行っていた。もちろんただでもらうわけではなく、一年契約で代金は米で払っていた。

 

 

村の発達について

 電気が引かれたのは大正20年ごろ。それまでは、夜は菜種油のランプを使用していた。

 

 

共有林について

 赤田のあたりでは、黒岳が共有林になっていた。共有林は皆の持ち物であったが、個人で勝手に入ることはできなかった。また、個人でなくても勝手に立ち入ることはできなかった。一年に一回必ず枝打ちなどの手入れをするように決まっていて、各家から一人ずつ、無償で奉仕した。この手入れの日に、必要な人は薪にするための木を少し持っていったりすることはできた。この日以外で山に入るためには、区長の許可が必要だった。共有林は、村の入皆の持ち物だから誰でも入って使って良いものではなく、共有のものであるからこそ個人的に勝手に立ち入ったりすることのできないものだった様である。

 

 

米の保存、塩などについて

 米を農協に出す前は、商人が来てその人たちに売ったり、産業組合に出荷したりしていた。今では田はそれぞれ個人の持ち物だが、以前は地主がいて、ほとんどの人は小作人だった。そのため、米ができても地主に小作料を払わねばならず、一反で六俵取れるうちの五俵は小作料に納めていた。六俵中の自分のうちに残す一俵は、一番よくないものを残した。そのうち、自分たちの食事として食べることができるのは三割で、残りの七割は来年の分の種籾にとっておかねばならなかった。種籾にするものは稲こきでこいで袋詰にし、ねずみに食われたり無くなったりしないように、はこの中に入れて大事に保管した。普段の米については、ねずみの心配をしようにも、ねずみに食われるほどの米がなかったそうで、強いてねずみ対策というと、猫を飼っておくくらいのものだった。一年のうちで白い米が食べられるのは正月とお盆くらいのもので、いつもは麦飯を食べていた。塩は、誰かが売りに来てくれるわけではなく、やはり自分たちで取りに行かなければならなかった。グループで薪を力車に積んで行き、伊万里黒川まで行っていた。海の水を蒸留して、塩をつくるところから自分でやっていた。そのため、その塩には、今店で売っている塩では精製されてなくなっている「にがり」が含まれたままで、にがかっかそうだ。魚は、新鮮なものを食べることはほとんどできなかった。

 

 

村の動物

 牛や馬は、田おこしのときにいなくてはならない労働力で、一家に一頭が原則だった。馬や牛を持っている家では、収穫が済んだ後は、次の耕作の準備をするまで少しゆっくりすることができたが、持っていない家では田作りを人力に頼るため、収穫が済んだらすぐに来年の耕作のための田作りに入らなければならなかった。ただ、ほとんどの家が所有しているのは牛で、馬を持っていたのは25件のうちたったの2件だった。牛を持っている家でも、その大半は牝を飼っていた。雄牛のほうが力は有るけれども、値段が高く、扱いにくいことから牝を飼う家が多かった。馬を飼っている家では、農作業のほかに馬車として荷運びをさせたりして、「じんとり」といってそれでお金をもらったりしていた。ばくろう(博労、あるいはばくりゅう)と呼ばれる人達がいて、牛や馬はその人達を通して売り買いしていた。彼らは概して口がうまく、取引に長けていた。例えば、A氏が子牛の頃から育てて、農作業のいろはをきっちり教え込んだ牛が大きくなってA氏が使えないと考えたときに、ばくろうがやってきて新しく子牛と交換し、差額を払う。そして今度はその交換した牛をB氏のところに持っていってさっき出た差額以上の値段で売る。聞き取りをしたお年寄りの時代には、すでに口交渉だったそうだが、その父親の時代には、「そでのうち」という取引方法が用いられていたそうだ。予め、親指は一本いくら、人差し指ならいくら、というように値段が決められていて、ばくろうと取引相手の農家とで手を握り、その上にタオルをかける。そしてお互いに指を握り合って、値段交渉をした。牛一頭二万くらいというのが大体の相場だったそうだが、農家のほうは、そもそもの「指一本いくら」の値段を知らずに、取引が終わってみれば、とても牛一頭に似合わない値段で売りつけられていたり、反対に非常に安い値段で買われてしまったりして、泣きを見る羽目になった人も多かったそうだ。

 

 

祭りについて

 赤田村には、お稲荷さんと金毘羅さんとお観音さんの三つの祭があった。お稲荷さんは、黒岳にまつってあり、金毘羅さんは小字で言うと原の四斗切池の右手にある山にまつられていたが、こちらは、もうお祭りもなにもしなくなって10、20年くらいになるそうだ。観音さん祭は今も8月の15日に行われていて、その建物は、部落長など3人の名義で登記簿に載っている。名義は、代々世襲するものではないようだが、やはり普通の不動産と同じように、現在の名義人が亡くなったら、その子供が名義を受け継ぐことになっているそうだ。

以前は、どの神様に対しても、それぞれの村人が自分が気が付いたときに掃除をしたり、赤飯や魚をあげたりしていたが、今ではそういった意識は薄れてしまって、全員できっちりお金を出し合って、その範囲の中でお祭りするようになったということである。

 

 

昔の若者について

 青年達は、青年クラブというものを作っていて、夜になると公民館のような所に集まって、雑談をしたり、将棋や囲碁をしたりした。当時、村の家はどこも鍵などかけなかったので、夜中に若い女性のいる家にこっそり忍び込んだ。個人個人で好き勝手に夜這いをかけるわけではなく、そうして青年達が公民館に集まっていたら、年長のものが「行ってこい」といって行かせるのだそうだ。そういった風習は、村の中では秘密にされているわけではなかったようだが、明るいうちに行って家のものに見つかったりなどすると、やはり非常に恥ずかしい思いを後日することになるので、皆、かなり夜がふけてしまって、人々が寝静まってしまった後に行なっていた。しかし夜這いをかけるといっても、その相手の女性がちゃんとした恋人かというと、別にそういうわけではなく、またいつもいつも同じ女性の所に夜這うというわけでもなかったそうである。また、女性は女性で、観音講と言うものを作っていて、17日なら17日と日にちを決めて集まり、雑談などをしていた。隣りの村々との行き来も盛んで、若者同士も、良く遊びに行ったり来たりしていた。もちろん、そういった夜這いの類は、妻帯者は慎んでいた。

 

 

その他

 ・小字萩原の丁度中心あたりは、かつて山だったが、現在は豚舎などが作られ開かれてしまっている。

 ・七切田の左手、小字古屋敷の中心に位置する山は、コウボシカブリとよばれていた。(弘  法大師の頭の意味)

 ・四斗切池は、現在は「四斗切」の字を当てるが、かつては「人切」の字を当てていた。

 ・四斗切池の左手のカマンツジは、かつてそこに「筒江窯」があった名残だそうだ。最初  に訪問した田中岩雄さんのお宅の前には「つつえがま」という窯があったが、それは以  前の「筒江窯」とは違うので、わざわざひらがな表記してあるということだ。

 ・しこ名ガンジョクの中を流れる綱内川にかかる筒江橋は、昔はガンジョク橋と読んでいた。また同じく、しこ名ハルハシを綱内川から分かれた小さな流れが横切っているが、その川にかかる橋も、かつてはハルハシと呼んでいたそうだ。

 ・学校までの道のりは約29キロほども離れていて、行くのに3時間もかかったそうだ。

 ・黒髪山にまつわる言い伝え。鎮西太郎為朝がこの地で大蛇退治をしたとき、退治した大蛇の流した血が流れ込んで、田が赤く染まったので赤田という地名がついた。また、その大蛇を退治した後、鱗を牛に引かせた車で運んでいたら、あまりの重さに牛の首が落ちたということから、牛首というしこ名がついた。

 

 

7月11日の行動記録

 9:00  九州大学六本松キャンパス集合。

 9:15  2台のバスに分乗して出発。

 11:30 バス降車地点到着。これより赤田村まで徒歩。

 12:00 赤田村、田中岩雄さん宅到着。到着はしたが、丁度お昼時間帯だったこと       と、「1:00に訪問させてもらう」としていたので、訪問する前にそとで       昼食。

 13:00 田中岩雄さん宅訪問。しこ名を中心的に教えていただく。奥さんのはつよ       さん、息子さん夫婦もいっしょに家族総出で教えてくださった。1時間ほ       どお話をしていただいた後、松尾勝六さん宅を紹介していただく。松尾さ       ん宅まで車で送っていただく。

 14:00 松尾勝六さん宅訪問。風習や昔の村の姿を中心的に教えていただく。1時       間半ほど。

 15:30 松尾勝六さん宅を出る。

 16:00 バス乗車場所到着。松尾さん宅から帰る道すがら、別の学生を送っていっ       たほかの村の方が、わざわざUターンして車で送ってくださった。

 18:00 九州大学六本松キャンパス到着、解散。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

調査地区:佐賀県杵島郡山内町大字宮野・赤田村

調査日:7月11日

調査担当者:文学部史学科考古学講座2年 1LT98043G 笠置美奈子

      (同行者:文学部史学科考古学講座2年 1LT98026Y 大串綾)

 

 

7月11日の行動記録

  9:00  九州大学六本松キャンパス集合

  9:15  バス出発

  11:30 バス降車地点到着(古場)

        赤田まで徒歩

  12:00 赤田到着

        昼食

  13:00 田中義昌さん宅訪問

        しこ名を中心に1時間ほどお話をしていただく

        松尾勝六さんを紹介していただく

  14:00 松尾勝六さん宅訪問

        昔の村の姿や風習を中心に1時間半ほどお話をしていただく

  15:30 松尾勝六さん宅出発

  16:00 バス乗車地点到着

        バス出発

  18:00 九州大学六本松キャンパス到着

        解散

 

聞き取りした方(敬称略)

田中岩雄:大正7年生まれ

田中はつよ:大正14年生まれ

松尾勝六:大正7年生まれ

 

村の名前:赤田

村の範囲:小字黒尾岳・七切田・古屋敷・原・萩原

 

 

しこ名一覧:フナゾコ、クロタケ(黒岳)、アカイシ(赤石)、サンジュウダー、セタイシガキ、マツント、サシキ(佐敷)、シマメグリ、カマンツジ、ハルハシ、サンダーク、 シクダ、ガンジョク、コノ、ワカミヤド(若宮宿)、コダニ(小谷)、ヒャートコ、ナナキリダ、ナキビス、コウボシカブリ、コンピラサン、シトキリイケ

 

田畑:小字黒尾岳のうちに:フナソコ

   小字古屋敷のうちに:クロタケ(黒岳)、アカイシ(赤石)、サンジュウダー

             セタイシガキ、マツント

   小字原のうちに:サシキ(佐敷)、シマメグリ、カマンツジ、ハルハシ、サンダーダ

   小字萩原のうちに:ワカミヤド(若宮宿)、コダニ(小谷)、ヒャートコ

   小字七切田のうちに:ヒャートコ、ナナキリダ、ナキビス

   小字筒江のうちに:シクダ

   小字上原のうちに:ガンジョク、コノ

                       (注:筒江・上原は赤田の範囲ではない)

 山:小字古屋敷のうちに:コウボシカブリ

   小字原のうちに:コンピラサン

 橋:小字原のうちに:ハルハシ

   小字上原のうちに:ガンジョクバシ

 池:小字原のうちに:シトキリイケ(四斗切池)

 

 

地名の由来など

 小字赤田:鎮西八郎為朝が黒髪山に巣食う大蛇を退治し、首を切り落としたところ、流      れ出した血が田んぼを赤く染めたことからこの名がついた。

 小字古屋敷:「オカノンサマ(お観音さま)」を祭る大きな建物があったから。

 小字牛首:鎮西八郎為朝が退治した大蛇のうろこを車に乗せて牛に引かせたが、そのあ      まりの重さに途中で牛の首が落ちてしまった。その地を牛首という。

 カマンツジ:かつてそこに筒江窯があったから。最初にうかがった田中さんの家の前に、       「つつえ窯」という窯があったが、ひらがな表記なのは昔の筒江窯と区別を       つけるためでは、ということ。

 ヒャートコ:「ヒャー」は「灰」か「蝿」の意味ではないかということ。

 フナゾコ:谷の地形が船底のようになっているから。

 ナキビス:昔は子供の夜泣きがとまらないと、ここに願を掛けにきた。

 コウボシカブリ:「弘法大師の頭」の意。

 コンピラサン:頂上に「金毘羅さん」の祠がある。

シトキリイケ:今は「四斗切」の字をあてるが、かつては「人切」と書いた。

 

 

村の水利

水は小字七切田のうちの七切田池から引いて、しこ名コダニの上でふたつに分けていた。水をめぐる争いは、特に無かったようだ。

 水の管理方法としては、村人たちの選挙によって水番を選んで、その人にまかせた。やはり大切な水をまかせるのであるから、公平な人が選ばれた。ある程度は前任者が次の候補者を決めたようだ。

 みんなは水番に米をわたし、水番は米を受け取るとそれぞれの田に水を入れた。水番にわたす米は、年度によって1斤、3升など異なっていた。水番の任期というのは特に決まってはいないが、やはり肉体的に非常に大変な仕事であるため、体力が落ちてくると次の人を選ぶ。ひとりの人が水番をやる期間は、大体10年くらい。 1994年の大渇水のときは、朝からトラックにタンクをのせてガンジョク(筒江橋のあたり・綱内川)や池などに水を汲みに行き、田に撒いた。あとは出水に頼るしかなかった。所有する田が少ない人は、それでも何とかなったが、多くの田を持っているところではそれではとても追いつかなかった。田というのは、常に水にひたっていなくてはならないのだから、上が少し湿っている程度ではどうにもならない。結局、その年はほとんどといっていいほど米は取れなかったそうである。そんな状況でも、水をめぐるけんかといったものはなく、早い者勝ちといったような意識であったという。これが50年前だったらどうなっていたでしょうかと尋ねると、笑ってそれはもうどうしようもなかったと答えられた。

 

 

村の耕地

 昔は田の収穫量に差があったそうで、荻原のあたりの田が一番よく米がとれた。反対に、黒岳の田はあまり米がとれなかった。そのため、田の良し悪しによって、納める米の量も違っていた。

化学肥料が入る前の田んぼの肥料は、やはり人糞だった。もちろん、自分の家から出る分だけでは足りないので、有田の人と1年間契約を結んでもらってきたそうだ。その代金は米で支払っていた。

 

 

村の発達

 村に電気が来たのは意外に早く、大正20年ごろ〔入力者注:大正は15年まで〕。それ以前は、夜は菜種油のランプを使っていた。

 

 

村の公有林

 赤田の公有林(クユウリンと発音)は黒岳のあたり。村のみんなの持ち物であり、1年に1回必ず枝打ちなどの手入れをした。その際は、各戸からひとりずつその要員を出した。もちろん無償である。この手入れの日には、薪にするために必要な木を持って帰ることができた。この日以外に個人で勝手に山に立ち入ることは認められておらず、区長の許可が必要だった。

 

 

米の保存

 米を農協に出すようになる前は、とれた米は収穫期にやってくる商人に売ったり、産業組合に出荷したりしていた。だいたい1反の田から6俵の米がとれるが、そのうち5俵は小作料として地主に収めていた。もちろん、良いほうの米からとられていく。残った1俵が自分の家で食べる米である。その1俵も、7割は種籾としてとっておかねばならない。ほんとうに自分たちの口に入ったのは、1俵のさらに3割ほどだったということになる。だから、正月とお盆にしか白いご飯は食べられず、普段は麦ご飯だった。種籾用の米は稲こぎでこいで袋に詰め、さらに箱に入れ、高いところにしまって大切にとっておいた。ねずみ対策はどうしていたのかと尋ねると、笑って、ねずみに食べられるほどの米が無かったとおっしやった。強いて言えば、猫を飼うことがねずみ対策であったそうだ。

 

 

村の動物

 牛や馬は田おこしのために必要。だいたい一軒に一頭飼っていた。牛や馬がいないと、当然のことながら農作業は全て人力でやらねばならない。牛馬を飼っている家は、収穫が終わると少しは休めたが、飼っていない家ではすぐに田おこしの準備にとりかからなくてはならなかったそうだ。

 牛と馬では、やはり牛を飼っている家が圧倒的に多かった。当時、牛馬を所有していた25軒の中で、馬を飼っていたのはたったの2軒だったそうだ。馬を飼っている家では、馬を農作業に使うだけでなく、馬車を引かせて荷運びをし、それでお金をもらっていた。それを「じんとり」といった。牛を飼っている家では、たいていが牝牛を飼っていた。雄牛の方が力があるが、値段が高く、また気が荒くて扱いにくかったからである。

 牛や馬は、「ばくろう」(ばくりゅうとも言う)を通して売り買いした。彼らは非常に口がうまく、商売上手だった。たとえば、Aさんが仔牛のころから育ててきて、農作業のノウハウを教え込んだ牛が年をとってきたとする。すると、ばくろうは「もう若くて元気な牛とかえたほうがいい」と巧みに勧め、新しい仔牛とAさんの牛を交換し、差額を払う。そして、Aさんから買い取った牛を、別の農家にAさんに払った以上の金額で売る。

 聞き取りをした方の時代には、すでに口交渉だったが、その父親の時代には「そでのうち」と呼ばれる方法が使われていたそうだ。あらかじめ、親指一本いくら、人差し指一本いくらというふうに金額を決めておく。そして、ばくろうと農家の人が手を握り合い、その上にタオルをかける。そのタオルの下でお互いに指を握り合って値段の交渉をする。しかし、農家の人はそもそも指一本がいくらということを知らずに交渉し、取引が終わってみれば、べらぼうに高い値段で牛を売りつけられていたり、反対に雀の涙ほどの金額で今まで大切にしてきた牛を買われたりと、ばくろうにうまいことしてやられてしまうことも多かったようだ。

 

村の祭り

 赤田で祭られていたのは、「金毘羅さん」「おかのんさん(お観音さん)」「お稲荷さん」。

 お稲荷さんは豊作の神様として部落全体で黒岳に祭られていた。金毘羅さんは小字原のうちの「コンピラサン」の頂上に祠がある。しかし、現在ではお祭りをしなくなって10〜20年ほどになる。お観音さんの祭りは、今でも8月15日に行われている。

 お祭りのための建物と土地は、部落長さんなど村の代表者3名の名義で登記簿に載っている。代表者の地位は世襲制ではないので、この名義も本来世襲ではないのだが、手続きが煩雑なため、やむを得ず現在の名義人が亡くなると、普通の不動産同様子供の名義にしているそうだ。聞き取りをした方は、登記簿の上でも村のものであるということにすればいいのだが、役所の手続きがあまりに複雑なため、仕方なく現状のままにしているとおっしやっていた。

 以前は、どの神様に対してもそれぞれの村人が、自分で気づいたときに掃除をしてあげたり、赤飯や米をお供えしていたそうだが、現在ではそうした意識は薄れてしまい、村人全員でお金を出し合ってお祭りするようになったそうだ。

 神様のお祭りで縁日が出るときは、子供たちはお小遣いをもらい、1銭とか2銭とかを持って喜んで出かけていった。10銭ももらえれば、もう大喜びで、「のぞき絵」(2銭)というものを見たそうだ。のぞき絵の内容は、昔話などで、教訓的な内容のものだったそうだ。また、縁日のときには朝鮮人が金物の回収に来たそうだ。聞き取りをした方は、学校に持っていっていたアルミのお弁当箱を交換してもらったが、親にとても怒られたとのこと。

 

 

昔の若者

 青年達は、青年クラブというものを作って、夜になると公民館に集まって雑談をしたり、囲碁や将棋をした。夜もふけると、若い女性がいる家にこっそりと忍び込んだりしたそうだ。当時、村の家は鍵などかけていなかったから、入り込むのは簡単だったのだ。この「夜這い」は、めいめいが好き勝手に行くわけではなく、公民館に人数が集まっていると、年長のものが「行ってこい」と言って、行かせたそうだ。この風習は、別に村の中で秘密というわけでもなかったようだが、やはりまだ明るいうちに行ったり、夜が明けてから帰ったりして見つかってしまうと、村のみんなに「あいつが何処そこの誰のところへ行った」と噂になって、自分も相手も恥ずかしい思いをすることになる。それで、その家の人に見つからないように、みんなが寝静まったころに行ったそうだ。夜這いをかける特定の相手というものはいなかったようで、毎回同じ人のところに夜這うわけではなかったそうだ。また、女性は女性で、観音講というものを作っていて、17日なら17日というように日にちを決めて集まり、雑談などをしていた。近隣の村の若者だちとの行き来も盛んで、互いによく遊びに行ったりしていたそうだ。

 

 

その他

・赤田は山の中にあるので、塩や魚を手に入れるために遠くまで足を伸ばしていた。男たちが当番で何人かのグループを作り、車に薪をつんで現在の「主要地方道伊万里・武雄線」(赤田の人たちは県道と呼んでいた)を通って伊万里の黒川まで行った。そこで海水を蒸留し、塩を作って持って帰ってきたのである。その塩は、現在の塩と違って苦かったそうだ。魚は、あまり新鮮なものは食べられなかったという。

・学校までは20キロも距離があり、3時間かけて通ったそうだ。

・山の中や分かれ道などでよく目印として使われたのはアカマツの木だそうだ。アカマツは何百年たっても太さがあまり変わらず、形が独特で覚えやすいからである。

・昔はどの家も子沢山で、12入子供をもうけた人は区から賞状をもらった。