道上

私たちは佐賀県嬉野町下野道上周辺について調査を行った。
バスを降り、古川さん宅を探し始めたが、初めて訪れた土地だったためか、 住宅地図を見ながら探したにもかかわらず、なかなか古川さん宅を 見つけることができなかった。そして数十分歩き回ってやっとのことで古川さん宅を 見つけることができた。後で分かったことだが、バスを降りた地点から古川さん宅まで 正しい道をとおっていれば、数分で着く距離だった。

午後一時ごろ私たちは古川さん宅に到着した。はじめに出迎えてくださったのが、 奥さんの歳子さんだった。そして部屋には義信さんが待っておられた。
わたしたちはこの義信さん、歳子さん夫婦にいろいろな話を伺った。

まず始めに昔の地名について話を聞いた。地名としては、イッポンマツ(一本松)、 ニホンマツ(二本松)、サンボンマツ(三本松)、ヨンホンマツ(四本松)、 ゴホンマツ(五本松)、ハジロギ(羽白越)といったものがある。
これらの地名は、地図からも分かるように主に水路で区切られて名付けられている。
しかし、三本松と四本松との境界のように今となっては埋められて地図上では、 はっきりとはわからなくなってしまった部分も多い。

次にしこなの話を聞いた。しこなには、モロヅ(諸津)、イイモリ(飯盛) シモノミチウエ(下野道上)、ナカコガ(中古賀)、シモノミチシタ(下野道下)、 ヒガシ、カセガワなどがある。ナカコガという名前は下野と羽白越の二つの地域に それぞれ存在しており、「下野の中古賀」と「羽白越の中古賀」という呼び方で区別される。

この地域は田んなかがあまりなく茶畑がほとんどであるためか、田んなかの小字のことは あまり聞けなかった。茶畑も小字のことはよくわからなかった。

水路は山の上のほうにある二つのため池と川の近くにあるナカミゾと呼ばれる 水路があり主にそこから水をひいていた。しかし、その川の水が足りなくなった 1994年の大旱魃の時はやはり大変だったようだ。山の上にある2つのため池は、 防火用水もかねているためあまり使えず、川から500リットルのタンクを2つ、 合計1トンの水をためて使っていたそうだ。そういったことを何回も経験しているためか、 義信さんは田んなかに水をためるのがうまいらしい。隣の若い人は田んなかに水を ためるのに苦労していたが、義信さんは簡単にできるとすこし自慢げにおっしゃった。
しかし、年配の方々が若い人たちにそういうアドバイスを送るということで、 地域全体に技術や知恵などが伝わっていくのだろう。
川の話の続きだが、今となっては、生活用水や汚水やらを平気で川に流し込んでいて、 昔と比べて川が汚くなっていると歳子さんは少し嘆かれている様子だった。
昔は、おばあさんとかが、顔を洗い、歯を磨いていた川なので、住民にも、 川を汚してはいけないという暗黙の掟みたいなものがあったらしいが、今は何でも 川に流し放題といった状況である。昔に比べて便利になったのはいいが、「今と昔では どっちがよかったんだろうね」と何回も言われて、昔のよさを懐かしんでいられるように思えた。

古川さんはお茶を作っておられるということでお茶の話をしていただいた。
お茶の収穫はだいたい4月に一番茶、6月に二番茶、8月に三番茶というように 行われる。今はお茶の葉を摘んでから、のめる状態になるまで約6時間かかる。
だが昔は機械がなかったので、すべて手で摘んでいた。だから、たとえ50人で 摘んだとしても1反摘むのには丸1日以上かかったそうだ。機械はほとんど個人で 購入するそうだ。というのも、昔は共同の工場(S25年設立)で、機械を購入して 使っていたらしいが、あまりに収穫するお茶の量が多すぎて、機械がそのすべてを 消化しきれず、共同の工場が解散してしまった(S38年解散)。そういう時代と 比べるといまは機械のおかげでずいぶん便利な世の中になったと義信さんが言っていた。

古川さん宅では、麦も作っていて、その時の苦労話を聞いた。昔、脱穀の道具は 千歯こきでその脱穀の作業がまた大変だったそうだ。うすに麦を入れてバシバシ たたくのだが、その時麦が飛んできて体にささり相当痛かったと歳子さんが、 笑いながら話してくださった。

義信さんは圃場整理の記録も見せてくださった。何十もあった田んなかが、3つほどに まとめられていて面積も少なくなっていた。全体を見てもやはり田んなかの面積は、 整理以前の2分の1ないし3分の1ほどにまで減少したらしい。費用の負担も聞いたが、 国が約半分の55%、町が20%そして個人が25%だったそうだ。

私たちが「村の伝統的な習慣はありますか?」と尋ねると即答で「ない!」といわれた。
しかし、部落ごとの結束は非常に強く、祭りやお葬式は部落ごとにやるそうだ。
祭りは毎年12月1日に行うものが一番大きく大人から子供までみんな参加する。
12月にやる理由は農家がみんな暇だからである。今はもうやっていないが、 9月1日にもやっていた。これは台風などの災害にあわないように山の神様にお願いする 目的で行うそうだ。やはり、農村では祭りなどの行事も農作業を中心において 行われるようだ。あとは、4月の水路そうじとソフトボール大会が主な行事として 行われる。水路そうじは部落ごとに水路を区切って自分の所の水路を担当する。
ソフトボール大会も歴史は古いらしく、たかがソフトボールだとあなどれない。

次に昔の村周辺の様子を伺ってみた。昔は、街に行くまでにすれ違う車は ほんの1,2台だったが、今では通りを横断するのにも苦労するぐらい 車の往来が多い。やはり、車というものは村に大きな変化をもたらした。
それより昔には、「シャリキ」というものがあったということである。車輪の ついた台車に人が乗って、それを牛に引っ張らせて荷物などを運んでいた。
しかし、下り坂に入ると牛は猛スピードで 坂をおりていくので、スピードを 押さえるために運転手は棒を持っていて、その棒で速度を調節したということで ある。そして、「シャリキ」の後に登場したのが、「リアカー」である。これは、 人力を主とするので逆に上り坂が続くと、疲れて上れなかったと義信さんは笑って 話してくださった。「シャリキ」を引っ張り、また田ん中を耕すのに重宝された牛は、 だいたい一家に一頭ずつ飼われていた。しかし、牛も生き物なので、夏の暑い日 などは仕事を嫌がってまったく働かない日もあったということである。そうかと 思って、たまに「シャリキ」を動かしてみると牛が喜んでものすごいスピードを 出し手がつけられない状態になる時もあり、牛を使っての作業は難しかったらしい。
食事の順番も、牛にえさを食べさせてから自分が食事をとるというようにしていた そうだ。まさに牛様々であった。しかし、「シャリキ」が車に変わり、牛を使った 作業が機会に変わったおかげで何倍も生活が楽になったということだ。やはり、機械化 および自動化が村の生活に多大なる変化をもたらしたのはいうまでもない。

昔の子供たちの遊びはどのようなものであったのか。義信さんに伺ってみると、 義信さんが10才くらいの時に日本は終戦を迎え、村には女性と老人と子供しか残って おらず、遊ぶ暇がないほど忙しかったそうだ。朝には学校に行き、学校が終わると 家に帰って農作業をする。そういった生活が続くのだから、遊ぶ暇がないのは 当然である。当時、義信さんは小学生であったため、大きな鍬を持っていくことができな かった。そのため、牛の鞍の上に鍬をつけ、自分は肥料をかついで行き、牛を引っ張って 田ん中を耕していた。だが、田ん中を耕す技術が未熟であったために、何回も 何回も同じところを行ったり来たりしていたそうだ。また、それが終わると 帰り道では川に寄ったりして、牛のえさとなる草を刈って持って帰っていた。
まさに、丸一日働き通しであった。

そうして、義信さん夫妻は戦争についてお話してくださった。特に、歳子さんは 長崎出身で、戦争に対する思いは大きい様子であった。歳子さんは、「若い人が 戦争で命を落とすのがとてもかわいそう。」と何回も涙ながらにおっしゃられた。
二人はしきりに「戦争は二度としてはならない」ということを強調されていた。
やはり、こういった言葉は実際に戦争を体験なさった方から聞くと、その 重みというものはかなりのものであると私達は感じた。戦争を知らない世代の 私達は、義信さん夫妻の話を聞いてすごく考えさせられるものがあった。二人の 言葉から、かなりの説得力を感じた。

いまの私達にはまったく想像もつかない時代を生きてこられたお二人の話を 聞くことができて、私達がこれから生きていくうえでの参考になったと思う。
いろいろな話を聞かせてくださった義信さんと歳子さんに感謝の意を述べたい。

古川義信さん 昭和9年3月19日生まれ
歳子さん 昭和6年9月2日生まれ
L2−11 1EC99074P 白藤雅也 1EC99061E 佐藤純 1EC99101T 永江貴志