兎鹿野

兎鹿野 しこ名 
    小字  五本杉 フジバル(藤原)
            シンガイ(新栄) 
            フカソコ
            イシワダ 
            ジョウトウゲ
        四本杉 ヘイゴノ(平五野)
            ウウタ (大田)
            ウウクボ(大久保)
            ヤナギダ 
            カノキワラ
            シロミチ
            カンノンザカ 
            ヤカタブネ
            ナガクボ
        兎鹿野 ハチワライシ(八割石)
            サカンタン
            イワノウエ
            オシカケ
岩           アカイワ
シュウジ        ニシュダケ
(古賀)        ウエボイ
            シタボイ
            オオフジ
       
村の水利
 兎鹿野では近くを流れる清水川から水を引いており、他の部落と共有することなく単独 で引水していた。それ故、他の部落との水争いなどはなかった。清水川は豊かだったので 水の配分に関する特別のルール等もなかった。水利に関する慣行は観音祭という祭くらい のものだった。(祭のことは後述)

旱魃
 1994年にあった旱魃の影響もあまりなく、八割方の家は特に困る事はなかった。と いってもここの集落は10軒ちょっとなので、2,3軒が困ったというだけだそうである。 その残りの2割の家は嬉野川からトラックで水を運んだそうである。
 この地域では、あまり水に困ることはなかったので、特に雨乞いなどもなかった。

村の耕地
 この集落の田は全て乾田だが、現在では裏作は行われておらず、良田、悪田などの差も とりたてて無いそうである。というよりも兎鹿野は山あいにあるので良い田はなかったそ うである。
 兎鹿野では化学肥料は昭和27,8年頃から使われ始め、化学肥料によって収穫は4割 増しになった。化学肥料を使う前は堆肥を使っていたそうである。
 
耕作に伴う慣行
 あぜにはやはり昭和44,5年頃まで大豆、小豆を植えていた。銭のタメだそうである。 農薬のない時代は廃油を使って防虫していた。油と水の比率の違いによって虫を殺してい た。

村の発達
 兎鹿野に電気は昭和44,5年頃来て、プロパンガスは昭和35年に来た。それが来る 前は薪を使っていたそうである。

村の生活に必要な土地
 村人が少しずつ小さな土地を持っていたそうなので、入り会い山などは特に無かった。 が、田は共有している所もあった。

米の保存
 農協に出す前の時代は、政府に管理されていたので「どがんもされん。」かったそうで ある。しかし、多少はヤミ米になったそうである。小作人は3,4割いたが、地主との関 係は別にそこまで気にするほどの関係でもなかったようである。政府米の基準に落ちた米 などは飯米として食べていた。ここでは青田売りは米でも野菜でもなかった。
 米の保存法は「人が入るごた太か甕にいれて、鼠のこんごとバシッと閉む。」というふ うに保存し、種籾は藁でおったカマギにいれて天井につるして保存した。 50年前の食 事における米:麦の割合は、大体1:1だが、多少麦のほうが多かった。

村の動物
 各家庭に馬はいないが大体1件に1匹以上は牛がいて、主に雄牛だった。博労はどこか らか村に来ていた。やはり口が上手かったのですかと聞くと、「ふさごと(嘘)ぬかす。」 そうで、挨拶とありがとうの他は本当の事はなにもなかったそうだ。
 馬洗い場、馬捨て場はなかった。

村の道
 学校道などは地図に記載しているが、距離が5〜6kmあり特に1年生の頃などは大変 だったそうである。
 塩や魚などは長崎のそのぎに買いに行ったり、たまに村に来ていた鯨屋から購入してい いたそうだ。
 動物は兎や狸が多くいたそうだ。兎が多くいたというので、兎鹿野だから鹿もいたので すかと聞くと、鹿(シカ)とは、山菜のウドのことでウドのことを方言でシカと言ってい て兎とウドが多かったので兎鹿野といったらしい。
祭  観音祭といって、8月の9日から10日にかけて長崎のトウメゴウ(今の彼杵)から観音様 の娘が嫁ぎにくると言われていて、お参りに行く。12月にも開かれる。この祭は各家々 が年毎にもちまわりで主催者をやっていて、男女問わず全員が参加する事ができる。観音 祭は村の水利に関する慣行でもあり、これにより水不足がないことを祈っているというこ とだそうだ。
 
             昔の若者
 兎鹿野にもやはり青年団があり、昔の若者はそこでよく遊んでいたそうだ。クラブ(公 民館)に集まって騒いでいたらしい。仕事は何をしていたのですかときくと、別に何もせ ず遊んでばかりいたと言われた。すいか泥棒などは日常茶飯事で、お日待ち、神待ちなど は存在せず、みんなやっていたからどっちもどっちみたいな感じで、許されている訳では ないが広く行われていたらしい。
 しかし青年団の中での規律は厳しく、様々な制裁があったそうだ。特に礼儀などには厳 しかったらしい。だが自警団を作るという事もなかった。
 夜遊び、夜這いなどは結構あったそうだ。しかも結構激しく。
 結婚はやはりお互いの親が認めなければできなかったようだったけれど、8割方はお見 合いで決まっていたらしいし、あまり親が認めなくて悲劇になったという話はなかったら しい。

村のこれから 
 村のこれからについては、だんだんなくなっていくのではないかという、暗いものだっ た。その理由はやはり跡取りがいないからだそうだ。

協力して頂いた方     
     井上 昭   様     昭和14年生
        セイコ 様

行動記録
10:00  この時間に松永清美さん宅に訪問する予定だったが高速を降りた時点で間 に合わないことが判明、とりあえず松永さんに電話しその旨を伝える。す ると「今田んぼにいってます。」といわれる。
10:30  先ほどの電話で10:30には着きますといったが道に迷う。
10:45  なんとか松永清美さん宅に到着、しかし電話にでたお子さんに「おんさら んです。」と言われ、不在であることを知る。
11:00  近所の方々に調査内容に詳しいという評判の井上昭さん宅を訪問、突然の お願いにもかかわらず快諾して下さる。
  12:20  調査終了。その後、お茶や梨などを頂いた。その時、井上さん宅で松永さ んに出したはずの手紙を発見、どうも松永さんはあまり自身がなかったの で最初から井上さんにお願いすることになっていたらしい。

                           1EC99070K 渋谷 実
                           1EC99089K 富永 寛樹
                           1EC99093G 中島 健太
                           1EC99108R 野見山 修一