三反田

 まず初めに訪れたのは、三反田の生産組合長の富永敏文さんのお宅だ。富永さんは戦後 生まれの方だったので、昭和初期の頃の話は聞けなかったが、色々なことをお話して下さ った。まず、しこ名について聞いてみたが、しこ名の概念がないようで、それについては 後で紹介して下さる年配の方に教えてもらうことになった。

○ 水利と水利慣行
5月の初めぐらいに水が充分に流れるように掃除をする溝掃除というものがある。それに は区民皆が出るそうだ。そしてその後、井手あげ(田んぼに水をひくこと)があり、その 日を決めていっせいに個人の田に水をひく。

○ 昔の暮らしについて
魚などは近くに魚屋があったからそこへ買いに行けばよかったが富永さんが学校に行って いた時はその魚屋さんが自転車で売りに来ていたらしい。またテレビは小学5年生ぐらい の頃だった。それではテレビがないときは何をしていたんですかという質問に、得意気に 「勉強ばっかりしておった」と答えられた。一斉に私達は「嘘でしょう!」といってどっ と笑った。富永さんも、わっはっはっ、と冗談だという風に言い、その場は大爆笑だった。 また嬉野は農業の町らしい。昔は米が主管作物であった。今は米ももちろんであるが、お 茶がそれを抜いているらしい。昔、吉村新兵衛という人がお茶の苗木を持ってきて飢えた のが始まりだそうだ。それで特産になったから毎年彼をたたえるお祭が嬉野町では開かれ るという。町全体としてみてみるとその他の現金収入としては、嬉野町は観光の町である。 ここで富永さんは嬉野の由来について話して下さった。それによると昔有名な人が怪我で 立ち寄って嬉野温泉に入ったところその怪我が治ったらしい。それでその人が「うれしー のう」といったことからだという。私達は「えー本当ですかー?」と笑いながら聞いたが 「いや、本当のことよ!」と富永さんはおっしゃった。「嬉野の温泉はすごい!」と私達は 連発してしまった。ガスがない時代のお風呂は薪でたいていた。お風呂は、今はタイルが はられているが昔はコンクリートのみだった。

○ 村の水利について
井手河内には近くに塩田川という比較的大きな河が通っており、そこから水を取り入れる そうだ。そして塩田川からの水はどの田へも等しく配分されていた。しかし、塩田川から 山の方へ行くにしたがって水が取り入れにくくなってしまうという。そういう田について は、溜池を作ってその水によって補うとおっしゃった。水争いのことについて尋ねてみる と、富永さんが小さいときに存在していたと親から聞いたことがあるそうだ。旱ばつにな ればなるほど田がからになってしまうので自分の田に水をひきたいといって個人間で争っ ていたらしい。あまりそういうことに馴染みのない私達は、少し驚いた。また、溜池に関 する行事として「のこし」というものがあった。これは米を収穫した後に、溜池の中の魚 をすくい、池の泥を取るというものだそうだ。溜池で大きく育った魚は家で観賞用として 移された。溜池は、田へ水を補うのと同時に養殖という要素も含んでいたようである。溜 池は、この辺では個人が持っていたから、管理人もいなかったという。水車については自 然の落差で流れるので、必要なかったそうだ。

○ 旱ばつについて
1994年(平成6年)に起きた大旱ばつの際の特別な水利策というものはない。それは塩田 川からの水をしようできたからである。普段の生活と変わるところはなかったらしい。そ れでも旱ばつになれば雨乞いをする。今もまだしているそうだ。「旱ばつで水がなくなれば 神様に雨が降って欲しいとお願いするのが今でもあるよ」とおっしゃった。どんな風にし てもらうんですかと尋ねると、神社に行って神主さんにやってもらう時もあれば、自分達 でお供え物をして、お祈りをする時もあると言う。井手河内に丹生神社というものがあり、 そこに集まって豊作を願う「たきとう」というものをするらしい。また、台風が一番来る 頃に、風除けのまじないとして「風火(風白?)」というものもする。
水害は、ダムができてからはないそうだが、できる前まではあったそうだ。どんな害かと いうと、川の近辺の川岸が崩壊したりしたという。

○ 村の耕地について
  三反田の辺りの田は、全てが乾田だそうだ。昔は裏作も行われていたが、お茶づくり が盛んになってからは、収穫時期が重なるため、米の方に力を入れていたらしい。また、 ちょうど収穫時期に雨も多いため、あまりとれないという。また化学肥料は40年以上前か ら使用していた。それが導入される前までの肥料としては「その時期に生まれていないの でこれは予想ばってんが」と言って教えて下さった。それによると、昔は田を耕すために 牛を1家に1頭飼っていたそうだ。だからその牛の糞を田に入れて肥料としていたのでは ないかとおっしゃった。
 どれくらいの米がとれていたかについてだが、化学肥料が入る前は1反当たり6〜7俵 くらいだったが、入った後では8〜10俵くらいであった。良い田と悪い田の差については、 化学肥料が使われるようになってからはほとんどなくなったが、昔はかなりあった。良い 田に比べて、悪い田は3/5ほどの収穫量がなかった。井手河内では、塩田川の近くの田は 土が肥えてきて収穫量が高くなり、山の方へ行くほど砂っぽくなって、収穫量は小さくな った。

○ 村の動物について
 牛や馬は先に述べたようにいたらしい。また「ばくりゅう」といって、牛の仲介人さん もいた。牛をここから買い、牛の欲しいという人へ売るのだが、やはり口のうまい人が多 かったという。安い牛を買って「この牛は力強い牛でいいからこうて下さい。安いですよ。」 と言って、もうけようとする、と言った。また、馬捨て場というものは聞いたことはない らしいが、それでは死んだらどうするんですか?という問いに、「どぎゃんしよったろ か?」とおっしゃって、うちで死んだということはなかったが、ばくりゅうさんがもう弱 っている牛なら取引に来て家畜の肉として食べられるそうだ。牛も家族の一員と当時は考 えられていたので、弱って売られていくときは牛も涙を流していたという。

○ 耕地に伴う慣行について
・ 畦に大豆や小豆を植えていた。これは自家用のためのもので、畦を有効利用していた。 ・ 農薬がない時代では、虫除けとして菜種油や鯨油を撒いていた。菜種油は竹の筒に入れ て、少しずつ撒いて、水を蹴って全体に広げていた。鯨油は大きな固まりを腰にぶらさげ て歩いていって、自然に溶けていくようにした。これらの油が防虫になった理由は、虫は 水には浮くが、重量の軽い油には抵抗することができないからだ。足をとられてしまい、 我々が無重力状態の中にいるような感じになるらしい。

○ 村の生活に必要な土地について
 井手河内には入り会い山はなかった。入り会い山を管理していくためにはそれなりの費 用もかかり、無理だった。

○ 米の保存について
 農協ができる前には産業組合に渡していた。産業組合ができる前には精米所に渡してい た。井手河内には精米所は2軒あって、そこが売りさばいてくれた。
 家族が食べる飯米のことは、作米、保有米といった。ネズミが入らないようにトタンの 倉庫でしっかりしきっていた。
 50年前、食事における米・麦の割合は7:3で、稗や粟、芋などの雑穀を主食にするこ とは今までなかった。戦時中でも米に不自由することはなかったという。

○ 昔の若者
 テレビがない頃は、夜特別することもなく、すぐ寝てしまったという。8時頃両親が仕 事から戻ってきて、それから夕食を食べて、9時頃には床についていたという。
 中学の頃からはテレビがあったので、夜はテレビを見て過ごしたそうだ。今とあまり変 わらないよ、とおっしゃっていた。
 若者の遊びについては、「たきとう」や「風火」のお祈りの後、風流といって、笛や太鼓 を鳴らしてお酒を飲んで騒いだりしていた。また、青年団や消防団といった若者の集まり があり、20〜30人で成り立っていた。スポーツをしたり、芸能をしたり、奉仕をしていた そうだ。大体1ヶ月に1回くらいのペースで集まっていたという。下は学校を卒業したば かりの者から、上は30歳くらいまでの人がいた。下っ端の者は、上の者から面白がってス イカ泥棒をさせられたりしたそうだ。
 他村との交流については、富永さんは青年団に入っており、野球をしていたので他区団 と試合などをしていた。あまり厳しさはなかったらしい。
 恋愛について尋ねてみると、少し恥ずかしそうに答えて下さった。恋愛の自由はあった そうで、今とあまり変わらなかった。恋愛は青年団の中でが中心だったそうだ。私達は青 年というからてっきり男性だけのイメージがあったのだが、女性もいるんだ、と笑いなが らおっしゃった。夜這いについても思い切って尋ねてみた。すると、わっはっは、と笑っ て照れながら自分達の時もあったということを上の人から聞いたことがあるとおっしゃっ た。上の人はやったことがあるらしい。嬉野はお茶で有名であり、特産だった。昔は機械 などなく、手で摘んでいたので収穫期には、地区外から女性が手伝いに来る。その間、村 の各家庭に彼女達は泊まるわけだが、その時に夜這いがあったな、とおっしゃった。結局、 青年団の中での度胸試しのような形で行われるらしい。それは遊びであり、行ったとして も悪気はなかった。ここで面白いことを富永さんは教えて下さった。それは男が夜、女性 の家に入るとき、雨戸を引く音がでる。その音を出さないように男性は雨戸の溝に水を流 していたという!その技に私達はびっくりして笑ってしまった。夜、夜這いに行く子は、 昼の間に青年団の中で決めていたらしい。なんだかこの話では妙に盛り上がってしまった。 昔も今も、そんなに変わりはないんだなあと思った。

○ 村のこれからについて
昔と違ってきたこと、それは“人間の質”と“農業”である。人間の質が変わってきたの は、車社会になった影響からだ。どこへ行くにも車を使うため、近くに住んでいる人でも ずっと会わないことがしばしばである。よって挨拶もあまりしなうなり、人間関係、絆と いうものが希薄になってしまう。村の人口は増え、以上のような理由もあり、何かあった 時でもまとまりにくくなってしまうだろう。なんらかの方策を考えねばならないというこ とである。
 農業が変わってきたというのは、まず田んぼが減ってしまったことが挙げられる。2分 の1になってしまったという。そして後継者問題というのがかなり深刻である。井手河内 には300戸の家があるが、そのうち専業農家として後を継ぐのが決まっている人はたった の7名である。お米の値段も安くなって、昔は1俵当たり3万円くらいだった(今の値段 に換算して)が、今では3分の1の1万円にまで下がったという。

○ 調査を終えて
今回このような調査をしたのは、私達にとって始めての経験でした。今まで大学の授業と いえば、教室で座って先生の話を聞くというのが大半だったがために、このような教室を 出て、現地で調査するという形式の授業はとても新鮮でした。しかし、やはりただ受動的 に聞くというわけにはいかず、自分達で動いて自分達でやっていかねば前には進まない授 業なのでやはり大変でした。しかしその分、やり甲斐も感じることができました。調査で は、現地の方々はとても親切に考えて下さり、感謝の気持ちで一杯です。今までしこ名の 存在など全く知らなかった私達が、この授業により知ることができ、また昔の人々の暮ら しを聞くことで改めて自分達の今現在の暮らしを見つめなおすことができました。