佐賀行きのためにたくさんご迷惑をかけてもうしわけありませんでした。なんとか
無事にレポートをしあげることができました。しこ名については10個程度しか調
べられませんでしたが、必死に現地の方のお話を聞いて、そのままをレポートにし
ました。 まず、お話を伺ったのは宮田秀一郎さん。住宅地図のおかげでたいして迷う事もな く、すんなり宮田さん宅にたどり着くことができた。家の庭に入ると宮田さんが庭仕 事をされていて、「こんにちは、九州大学の者です。」っというとなんだか苦笑いし て「わしゃーなんも、知らんよー」と言いながら、僕達を家のほうへ案内して下さっ た。部屋に案内されると、「あつかねぇー」といいながらきちんと正座で座られた。 僕達の質問にちょっと身構えていらっしゃるようだ。もちろん、僕達にとっても初め ての調査で落ち着かない気持ちは多少なりともあった。 そんななか、「まずはじめに、ここどき(土器)の地区範囲について教えていただ けますか?」と僕達が聞くと、「うん、こうらぎれっちゃーここらへんのことばい」 と住宅地図に記しをしてくださった。とりあえず、地名の読み方の難しさを改めて知 らされた。宮田さん自身も土器とかいて“こうらぎれ”といきなり読めるとは思って なかたようだ。宮田さんの次ぎにお話を伺った副島さんの話によるとこうらぎれの地 名の由来は昔ここらへんで瓦(かわら)を作っていたらしくそこからきたのではとい うことだった。いきなり出鼻を挫かれた気がした僕達だったが、気をとりなおしてし こ名についての質問にうつった。といってもやっぱりしこ名について始めは何の事か 良くわからいない様子。だからまず始めに宮田さんが所有している田んぼがないかを 尋ねて、それからこの田んぼに水をはったり、畑仕事に行く時になんてこの田んぼの ことを呼んでますかという具合にしこ名を聞き出した。そうすると「それじゃった ら。ここの田んなかにいくときゃーヤマシタ(山下)とかっていいよーよ」とあっさ りしこ名を教えて下さった。しかもこの山下というしこ名はまさに山の麓(下)にあ るからかってやましたと呼んでいるらしい。あと他にも、ジュウオ、ミゾネ、タカダ ンなどのしこ名を教えて下さった。しこ名にははっきりとその名の由来が分かってい るものと昔からその名だけが受け継がれているものがあるようだ。しこ名のじゅーお については宮田さんもなぜそういうしこ名になったのかは分からないと仰っていた。 水利について伺うと、村に塩田川と井手川内川の二本の川が流れており、それぞれの 田は近いほうの川から水を引いていると言う事だった。この地区に必要な農業用水は これらの川によってまかなわれており旱魃のとき以外は、十分な水量を確保できるら しい。また、田との高低差もほとんどないため、川から水をくみ上げたりせずに、各 田んぼにそれぞれの水路がひかれているということだった。これとは別に小高い場所 にある田んぼに関しては、田んぼの付近に溜池を作ったりしてそれで水をやり繰りす ることはあるようだが。宮田さんも山の奥のほうにシャーワケという田んぼを所有し ており、そのすぐ近くに溜池をもっているらしい。その名の通りシャーワケの溜池と 呼んでいるらしい。このように水利は各農家で別々に確保しているので、1994年 の旱魃の際には、宮田さんが水を引いていた井手川内川が干上がってしまい、他から の水源がなかったので農作物のほとんどは壊滅状態だったらしい。旱魃の話に関連し て「やはり雨が降らないようなときは雨乞いの祭りなどされるんですか?」とたずね ると、笑いながら「今んごろは、そんなことはほっとんどせんねぇー」と仰っていた が山の方では、昔ほこらに味噌を塗りつけて雨乞いをしていた部落もあったようだ。 ほこらに味噌でのどが渇いて雨が降るという意味らしい。その他にも、田植えの時期 にその年の豊作を祈願する祭り、田祈祷(たきとう)や、8月31日に台風の風を避け ることを祈願する風避(かぜび)などがあるらしいが、今はもう行われてないという ことだった。なんにしても、今も昔も多かれ少なかれその年の収穫は天候に左右され ているようだ。農業の話しをさらに詳しく尋ねてみると、昔は田の広さに応じて農協 に納める米の量が決まっており、農家に残る分は少なかった。そのために農協に出す べき米を隠したりする人もいて問題が起きたりしたということだった。あぜは現在コ ンクリートで作られているが、むかしは“あぜぬり”といって足で踏んで土をかた め、それを重ねて作っていた。そして最大限に土地を利用して少しでも多くの収穫を 得ようということで、あぜに小豆を植えていたということだった。 また、各農家に一頭ずつ農耕用に牛がいて、馬はほとんどいなかった。農家によって 雄か雌かということは異なっていたらしいが、面白いと思ったのは取引をする際にそ の仲介役を勤めた博労(ばくりゅう)という人々。何ヵ月かに一度各部落を回って、 馬や牛の取引の便宜をはかったらしい。取引の際、お金の交渉を荷物などで手を隠 し、魚の競りをするように、口では言わずに手を握って値段交渉を行っていたという ことだ。最後に宮田さんの子供の頃のお話を尋ねた。子供の頃は、やはり親の仕事の 手伝いをよくされていたとうことだった。「大変じゃなかったですか?」と言うと 「そいは、みぃんなどこの子でもしよったことですけん」と平然と仰っていた。友達 同士で遊ぶ時も、今とは違って遊び道具がたくさんはない時代だったので、川で水遊 びをしたり、自分で木の平たい板に車輪をつけた乗り物を作って宮田さんのお宅の奥 にあるアンタン坂を下っていたらしい。昔の学校道を尋ねたが、道が変わりすぎてい てもうだいたいのことしか言えないということだった。しかし橋の位置はかわってお らず、中井手橋を通って通学していた。学校自体も宮田さんが通っていたころからは 二度も移転している。生徒数の減少に伴いだんだん市街に近づいた結果である。今で は学校に歩いて通うと40分もかかるのでバスで通うようになっているのだそうだ。 次ぎに話しを伺ったのは、副島一豊さん。先に話を伺った宮田さんの家からすぐ近く の場所にあった。ただ少し違ったのは副島さんの家の庭は山にそのまま繋がるように できていて、よく手入れされた庭園の向こうには森が広がっていてこの山全体がおそ らく副島さんのものなんだなということは、すぐわかったし、見事な庭に負けじ劣ら ずの立派な構えの家を見ても明らかだった。玄関に近づくと副島さんとその親族の 方々が家の中の見えるところに団扇をもって座っていた。どうやら夏休みを利用して 息子さん達が子供を連れて帰ってきているようだ。家に案内されると、さっきの宮田 さんと同じように「ちょっと、あつかもんねぇ」といいながら扇風機をだして下さっ た。宮田さんに話を伺ったときと同じようにしこ名の説明をして住宅地図を見せる と、さっき宮田さんが教えてくださった、ジュウオの田んぼのところを見て「ここん 田ん中は、ジュウオじゃなしにシゲマツっていいよったごとある」「じゅうおっ ちゃー、塩田川でワシらがおさなかときによう遊びよったところばい」と塩手川の一 部の所を丸でかこって下さった。さらにそのじゅうおの川の下宿側の方にはショウ ジョウイワという岩場があるということも教えて下さった。今は塩手川の流れは別府 のひい川なんかよりずっとほそぼそとしたものとなってしまってはいるが、昔は今よ りずっと川幅も広く昭和30年くらいまでは子供たちがよく水遊びをしていたらし い。昭和30年くらいから塩手川であまり子供たちが泳げなくなっちゃった理由の一 つに、嬉野温泉の宿からの排水の垂れ流しによる川の汚染があるようだ。現在は温泉 宿の規模自体は大きくなってはいるが保健所が排水などを厳しく取り締まっているの で、昔に比べると随分、川もきれいになったらしい。次に教えて下さったしこ名は フッジョノモト(古城の下)、井手川内川の流れに沿って左側の、丹生神社の麓にある 田んぼ一帯をそう呼んできたらしい。宮田さんはこのあたりに住む沢田さんや藤田さ んの家のあたりを呼ぶときもフッジョと呼んできたらしい。副島さんが仰るには漢字 からも分かるようにこのあたり(丹生神社のある丘)には昔、藤城という城があった と言われており、その名残としてこの丘の一番上の所は平地になっているらしい。今 はその平地には副島さんが所有されている茶畑が広がっている。山王の茶畑と読んで いるらしい。また藤城があったと言われている場所よりちょっと塩手川よりには宮ん のきという宮のようなものもあったらしい。この“んのき”とは場所のこと表すのに しばしば使う言葉らしい。宮田さんに話を伺った時は僕たちが地図に教えてもらった しこ名を書き留めていったが、副島さんは自分でペンをもってきてくれて、僕たちの 地図に自分でしこ名を書きこんでいって下さった。 「ここらへんは、えーとフッジョノモトっていいよったばい。そいからそのうえのほ うには宮んのき・・」という具合に特に気負うこともなく淡々と落ち着いてしこ名を 教えて下さった。きれいな字でしこ名を地図に書く姿がみょうに板についていらっ しゃったように思えた。教えて下さったしこ名の一つにババというのがあって、今は 漢字で場々と書くらしいが昔はそこに馬のつなぎ場所があったことから漢字で馬場と かいていたらしい。しこ名は地図上には記載されないような地名で住民の間の通称の ようなものと思っていたので副島さんのお話からしこ名にもその由来やそれに沿った 漢字があることを知った。田んぼのしこ名を聞き終わり今度は井堰の話になった、井 堰自体はかなり昔からのものらしいが色んなところに様々な工夫が凝らされているよ うだ。例えば、水害がきても井堰のなかに物が流れ込んで詰まったりしないように井 堰の幅を狭くして造られているらしい。副島さんの田んぼ用に使っている井堰が井手 川内川に3つあった。それぞれの井堰にはしこ名があるらしいが普段その井堰を利用 はしても実際にしこ名で呼ぶことはほとんどないことから、今では副島さん自身も井 堰のしこ名は忘れてしまったらしい。ちゃんとした形で文書化されないしこ名が何十 年もの間、脈々と受け次がれてきたことの背景にはどれくらいそのしこ名が日常の中 で実際に声に出されるかということが実はとても重要な条件としてあることも知っ た。 94年の大旱魃の話を聞いてみると、やはり副島さんの所でも水のやり繰りに苦心 したらしい。周辺の住民で協力して水を確保しようとしたらしいが自分勝手な人がで たりして、喧嘩になりかけたりもしたらしい。嬉野町では昔から6年に一度くらいの 周期で旱魃がくると言われているらしく、まさに今年は前の旱魃から数えて6年目に あたり、副島さんも「今年はもう水のぉ水位が、だいぶぅ下がってきたけんねぇ」と不 安そうだった。 旱魃のせいで普段とは水の散水状態が異なりいつもは何も生らないようなところにそ の年だけは作物が生ったりもしたらしい。今も昔も旱魃の時は同じように水不足に悩 まされますか?と尋ねると、「いんや、やっぱぁり昔にくらべぇたら今のほうがぁ旱 魃にも強くたったんよ」と今と昔の農耕方法を話してくれた。昔は田んぼには水を常 に満タンにはっておくのが常識だったらしいが、最近は“どよぼし”といって稲のな えがある程度生えてきた時期に田んぼへの給水をわざと減らし田が少し割れるくらい にするらしい、そうすることで稲の根を活性化させ、後に重い穂をその稲がつけるこ ととなっても倒れたりしないようにする農耕方法が行われるようになり、昔よりも随 分、田んぼに使う水量は減ったらしい。また旱魃に強い作物として副島さんも多く栽 培されている茶があげられるようだ。茶畑には普段ほとんど散水する必要はないらし く、4月頃に新しく植えたものに関してだけは、旱魃などによる水不足は致命的なの で随時、散水をおこなうぐらいと言う事だった。農薬に関しては、今は害虫駆除に有 効な農薬があるからいいが、昔はやはり苦労したらしい。昭和20年ぐらいまでは農 薬の替わりに一度使っていらなくなった排油や菜種油とよばれる油を上だけ空いた筒 状の青竹にいれて田の横に立てて、それを勢いよく蹴っ飛ばして田に油をまいたらし い。油にはべつに害虫駆除の力はないんじゃないんですか?と尋ねると油をつかって 稲の穂や葉に付いてる虫を油ごと落としてしまおうとしたということだった。話から も分かるように一度や二度油を田にまいたところで稲についた害虫を駆除できるはず はない。何十回と青竹を蹴っ飛ばす必要があったらしい。また、話は裏作の話にまで 及んだ。やはり土地の場所によって地力に違いがあるらしく、しこ名が重松のあたり の田んぼは一等地で、米の一キロあたりの値段も一番よかったらし、裏作もできたら しい。裏作ができるような田のことをちゃ−ばる(茶春)とよんだりするらしい。反 対に、古城の下のあたりは地力が他のところに比べて落ちるらしく、昔は秋頃になる とその土地に栄養分がなくなってしまい作物が育たなくなってしまうことから秋おち 田などと呼ばれた。今は肥料の技術発達のおかげで大分、改善されたらしい。 副島さんはさすが専業農家だけあって、農耕方法などに関することはかなりお詳し く、質問する側の僕達としても質問に困る事もなく、副島さんの話に集中できた。始 めのころよりも大分、リラックスされた感じだけど、やっぱり淡々とお話しをされ た。途中で僕達の横で話を聞きながら、まだ4.5歳と思われるかわいらしい子供の 相手をしていた実家に帰ってきていた副島さんの子供さんたちが「それじゃ、わたし たちはこれでかえりますんでぇ、また連絡しま・いや会いにきますんで」と、副島さ んの息子さんの嫁さんと思われる人がちょっとはにかんだ様子でそういうと、副島さ んは淡々と低い声で話されていた今までの感じとはちょっと変わって、少し笑顔にな りながらはっきりとした声で「はぁい、またね」と言って、またすぐ説明を続けて下 さった。貴重な休日の時間を僕達のために割いてくれてあり難いと感じ、質問にもね つがこもった。 宮田さんも言っていたが、「どんどん減反政策がすすんでここ嬉野町に広がる田んぼ もどんどん宅地化されていくことに対して専業農家の副島さんは反対ではないのです か?」と尋ねると、あまり反対ではないと仰った。専業農家の副島さんからもそんな 答えが返ってきて多少の驚きを感じてその理由を聞いてみた。戦後、その日の食べる ものにも困っていたような時代には、農家になることや、農家に嫁ぐことは食料を確 保するにはまさに絶好の手段であったため、農家であること、更には農家の田んぼを 所有することへの執着心は今では考えられないくらい高かったという。しかし、その 反動からか米が日本であまるようになり始め、さらに昭和40年頃に政府が減反政策 を始めいっきに、米価は急落してしまったらしい。今は昔と同じ量の米を作っても、 儲けが全然少なくなってしまったらしい。農家の人達が自分達の田んぼを簡単に手放 すもう一つの理由は、後継者の不在も挙げられる。「この神楽でぇ、あととりがいん のは、うちの長男ぼーくらいのもんだぁ」と、農村地区での後継者不足は深刻のよう だ、小学校も嬉野町に以前は二つあったのに今は一つにまとまってしまった。「おっ と、ちょっと、ごめんよ」と、副島さんの過疎地区での深刻な悩みについての丁寧な 説明に聞き入っていたそのとき、副島さんがおもむろにポケットの中から取り出され たのは携帯電話。 しかも、最近買ったばかりというような感じでは全然なく、かなり手馴れた様子で携 帯電話を使いこなされていた。とんでもなく失礼な話だが、かなり意外だった。思わ ず、パートナーの子と顔を見合わせてしまった。そんなことはよそに副島さんはい たって普通におしゃべりしていた。神楽だけの住人は一体何人くらいなんだろう、土 器も合わしても50人もいないはずだ。副島さんが携帯電話で話されているのを家に いるときに話しているのを見たからいいようなものを、茶畑で草摘みなんかしてる時 に、かわいいチャクメロなんかが響き渡る光景は見たくないような気がする。 後から、携帯電話のことについて突っ込んでみたかったが、果たせなかった。残念。 その後もやはりしばらくは、農業に関する話が続いた。翌年の稲の種の保管方法だ が、今は大きな冷蔵庫のような所にまとめて保管するらしい。そんなものがなかった 頃は、ねずみ防止のために、保管箱の周りをギザギザのある杉の葉でまいたり、木箱 のなかに直接杉の葉を入れたりしていたらしい。取れた米の乾燥の仕方も今は、まと めて工場で機械がやってくれるらしいが、昔は天日で乾燥させていたらしい。当然、 昔のやり方だと乾燥状態が一様ではないなどの色々な問題点があったということだ。 重油からプロパンガスに変わったのは昭和38年ぐらいで、それまでは重油と薪を 使っていたらしい、一日に使う薪の量はかなりのものだったので、冬の仕事のそのほ とんどが山での薪集めになったらしい。薪は山からだけでなく、近くの製材所なんか に出向いて小さな枝などを貰ったりして集めたりもしたらしい。そのころはみんなし て山の薪を集めていたので今よりずっと山が整備されてたらしい。最後に昔の遊びに ついての話を聞いた。真っ先にあがったのはビー玉。土にビー玉が1個はいるくらい の穴を五個あけて遠くから、ビー玉を弾いてその穴にビー玉をいれるというゲーム だ。あとペチャという、メンコ取りみたいなものとか、五寸釘を一本地面にさしてお いてそれを別の五寸釘を土に投げて差し込んで、もとの五寸釘を倒すといったゲーム などの話を伺った。副島さんは、とにかく友達と遊ぶのが大好きで、学校に行く前か ら友達と集まってわいわい遊びまわっていらっしゃったらしい。「わしは、それでも いいとおもうがなぁ、今は子供たちがそとでわぁわぁ言って遊びまわる声が、全然聞 こえんくなってしもーたぁ」と、嘆いていらっしゃった。 宮田さん、副島さんに昔の様々な生活の知恵や慣習についてのお話を伺って、両氏 ともに長年自分が暮らして慣れ親しんできたこの土地にたいする思いになにか自分の 子供や親族への優しさのような、温かいものを感じた。古くから自分達の生活を支え てきた田んぼを自分達の力で耕し親しむ、自分達の住む土地にしっかりと密着した生 活。そんな生活の中からうまれてきたしこ名。僕達が子字をかいた地図を副島さんに 見せたとき、「ここら辺んことばーたしかに二本松てぇーいうかもしれんけど、そが ん名をつかう人はおらんとよ」とおっしゃっていた。副島さん達は、自分達とその土 地が他のだれよりもしっかり繋がっていることを、しこ名を呼ぶことで実感するのか もしれない。コンクリートで埋め尽くされた街のなか、自分の足で自分の住む地区を 歩くことすらなくなっている僕達。自分達だけが使う親しみのある土地や物などな い。ただただ消費して忘れていくだけ。本来、物につく名とは、もっとその所有者と その物の関係を表すものなのかもしれない。副島さんと一緒に農作業をしている息子 さんは、代々伝わるしこ名は使わずそれぞれの田んぼの名をA、B,Cと呼んでいる らしい。僕達が(苦労して)つくったしこ名入りの地図があと何年かしたらアルファ べットで埋め尽くされるのかと思うとちょっと寂しい気がする。なにより、しこ名や 昔からの自分達の生活を話されているときの宮田さんや、副島さんのイキイキとした 顔を思うと、一番寂しく思ってる人達が、長年この土地と共に歩んできた人達である ことは確かだ。 |