内野山

久保孝博 久保智樹 武田誠

話をしてくださった方  徳永 政敏 さん
(昭和12年生まれで、現在62歳)

@しこ名について
   チャーパイ
  シモグミ(ハン)/シモ組
  カンノンダニ/神谷
   マルヤマ
  テンジングミ(ハン)/テンジン組
  テンジンサンノマツ 〜 ただし、現在は存在しない
  サカイグチグミ
   シモヤマ
   タノキワ
  ドートク
  ウーヤマ
  ウチノ    以上、12個

A水利と水利慣行
 A・田の水は、道徳堤(しこ名は、ドートク)や、山の谷を流れてくる自然水からと    つていたそうです。
 B・昔は、河川が狭く洪水が起こりやすかったそうです。地図でもわかる通り、現在、   このあたりの川はずーっと堤防で囲われています。
 C・慣行は、それほどきびしいものはなかったようです。
 D・どの家もだいたい、井戸を2つもっていて、一方が涸れたときでももう一方が使   えるようになっていた。さらに、内野山には7〜8個の水ためが昔からあるそうで    す。
 E・内野山周辺は、上のような環境にあったため、昔から、水不足で苦しむというよ   うなことはなかったようです。さらに、最近ではダムもまわりにできたため、19   94年の大旱魃の際も、給水車に頼るようなこともなく、乗り切れたようです。

B村の耕地
 A・チヤーパイ(しこ名)が、豊作。
 B・特に、品種「ぴかいち」は、沖縄や佐世保などに売っているほどである。
 C・太平洋戦争前くらいに、化学肥料が入ってきた。それまでは、ニワトリや牛の糞、   山の草などを肥料にしていた。徳永さんの話では「効果は確かにあった」。
 D・裏作は基本的に行われなかったが、最近では豆類くらいはできているそうだ。

C村の発達
 A・電気がきたのは大正初期で、それまでの明かりはランプ。
 B・プロパンガスがきたのは、昭和30年ごろ(徳永さんが中学校を卒業した頃だそ    うです)で、それまでは、薪(まき)。
   *薪は一度にたくさんとってきておいて、乾かして、たきぎにしておいて、家の     床下に貯めておいた。また、山間の町ということで、特に決められた場所など      はなくどの山からでも取ってきてよかったそうです。

D米の保存
 A・30年位前までは、米:麦=7:3で混ぜて食べていた。
 B・いもは食べていたが、粟は餅つきの時に混ぜたくらい。
 C・米の保存は、「もみぐら」【下の絵参席】

E村の動物
 A・牛は、昔は、一家に一匹いた。徳永さんが、17歳くらいまで、1mあるかない   かの道を牛を引いて歩いたことがあるらしい。馬はほとんどいなかったらしい。    また、牛の性別は特にこだわらなかったようです。
 B・博労はいたが、博労は牛医者でもあったようです。つまり、博労は牛が働けるか   どうかを判断し、働けそうになければ、博労自身が「牛市」あるいは「牛とき場」    までつれていったそうです。
    *「牛市」− 牛を売り買いするところ。
    「牛とき湯」一 牛市で売り物にならなかった牛が処分されるところ。

(7)村の道
 A・となり村、海に行く道はいずれも現在の長崎自動車道。現在の長崎自動車道は昔    からあった道だそうです。
 B・昔は、五島方面の人々の魚と物々交換するために、村の人は農作物を持ってこの   道を通っていたそうです。
   * 塩の作り方 〜 上の道を通って“そのぎ”(彼杵・長崎の地名)から汲んできた海
     水をでっかい鍋で5日間ほどひたすら、たく。また、この海水を汲んでくると      いう作業はとても骨がおれるものだった。というのも、海水は「シヤーリキ」     【下の絵を参頗】で、人が汲んできていたため、その作業は一日がかりで、徳      永さんの話では、朝4時〜昼頃までかかっていたからです。

(8)まつり
 A・昔からある集りというものはないが、今は「おくんち」がおこなわれているそう    です。

H昔の若者
  A.夜は、ラジオ。
  B.力試しは、米俵などで行われていたようです。角力(すもう)も行われていたよ    うです。
  C.柿は、「おばちやんくれんね−」といって、もらえたそうです。
  D.若者は「コモリドウ」とよばれるところにあつまっていたそうです。
  E.隣村の人たちとは、あまりあそばなかったようです。特に、長崎の人とは仲が悪    く、お互いに「〜 の通った跡は草木も生えぬ」と言い合ったほど仲が悪かった    ようです。
  F.男の子と女の子がいっしょに遊ぶようになったのは、戦後になってからで、それ    までは、戦時中ということもあり、「男児たるもの・・・」という教育、しつけのさ   れ方が常識だった。だから、いじめというのもなく、それどころか、男の子で家に    泣きながら帰って来ようものなら、今度は父親に殴られるような状況だったそうで    ある。     また、当時遊びにお金をかけるということは考えられないことで、下に示した遊    びの道具はすべて手作りだったそうです。(例えば、こまのケンが釘だったように)     徳永さん等男の子が、子供の頃にやった遊び      こま 凧揚げ 竹馬 綿と竹のてっぽう くぎねんば ぺちや(めんこ)    一方、女の子がやっていた遊びは、むくろ玉、おはじき、紙風船、お手玉など。

I村のこれから
  A.徳永さんいわく「村はこれからもそれほど変わることはないだろう」。一方、隣の   村は大分変わったそうで、内野山にはないコンビニエンスストアもできているそう    です。
  B.これからの農業について、徳永さんはこうおっしやつていました。「農業機械や農   薬の値段はどんどんあがる一方なのに、米の値段は下がる一方なので割に合わな   い。」また、農業を縦ぐ若者が少ないことが悩みの種だともおっしやつていました。

補足−どぶ酒について
  米こうじで腐化させて、天日のあたるところで沸騰させて、出てきた泡を取り除いた  もので、10年前まではつくっていた。税務がやかましいから森でこっそりつくってい  たそうです。

レポートを終わるにあたって
 お話をしてくださった徳永さんは、ぼくらの質問に答えてくださった後も、脱穀機やゲ ンロク(漢字を聞き忘れてました)焼きのつぼ、それを焼いた釜の跡なども実際に見せて いただきました。徳永さんの奥さんには、早田うりの漬物を食べさせてもらいました。非 常にいい体験ができてよかったと思います。