湯の田区 ヨシンタン(芦ノ谷)、ゲーツジ、マツノキ(松ノ木)、モチ ノキ、シーノキダニ(谷)、ウークボ(大久保)、トシジョウ、 ウータン(大谷)、シモタン(下谷)、ハジンザカ(坂)、イワ ノシタ(岩ノ下)、ジョウヤマ(山)、トーリャン(東林庵)、 エボシイワ(烏帽子岩)、ウチヤマダニ(内山谷)、オノウエ (尾ノ上)、コグレ(小崩)、コガ(古賀)、ジングウ(神功) ヤマンナカ(山中)シモ 以上のうち、いくつかは現在の小地名と重なるが、昔のしこ 名がそのまま引き継がれたとされるもののみを掲載した。 小字 芦の谷―ヨシンタン 鴻の巣―ゲーツジ 大谷原―モチノキ 松の木―マツノキ、シーノキダニ 柳谷―シーノキダニ 大久保―ウークボ 小松原―トシジョウ 大谷原―トシジョウ、ウータン、シモタン 岩の下―シモタン、ハジンザカ、イワノシタ 囲い―ジョウヤマ 城山―ジョウヤマ 烏帽子岩―トーリャン、エボシイワ 角分―ウチヤマダニ 尾の上―オノウエ 用水源 柳谷のうちに水堂 話から予想するに、二部落で共有していた 年に一度、水堂祭り(ミッドサン祭り)を催す 温泉地域のため、水不足はなかった 拍子抜けをした。私達は今回の調査事前に先生の話を聞くにつけ、嬉野町とはどれほど の田舎であろうかと考え、期待し、狐でも狸でも猪でも出てきてみろと覚悟さえしていた。 しかし、いざ到着すると、大小の温泉旅館や洒落た喫茶店、更にはセブンイレブンまでも がバスから降り立った我々を出迎えてくれているではないか。 一体全体なんなんだ、このありさまは。こんな街中で田ん中のしこ名などが訊けるはずが ないではないか。そのために我々は単位を落とすばかりでなく、果ては現地の人々の笑い 者だ、そんなことを考えながら手土産の団子を買う。時刻は11時。岸川さんのお宅を訪 問するのは1時と約束している。1時ならば昼食にも差し支えはなかろう。とりあえずは 2時間以内に岸川さん家を探し出そう、と2人で相談して決定した。 地図を片手に黙々と歩く。それにしても、暑い。ふと、頭上の日差しを遮るものがない ことに気づく。しばらく歩いているうちに、町並みもずいぶんかわってきている。いつの 間にやら、車の騒音はすっかり聞こえなくなり、かわって蝉の音がワシワシワシワシこだ まする。蝉達の騒音の合間を縫って水の音が聞こえると思ったら、ほどなく小川にぶつか った。この川を過ぎたところに岸川家はあるはずだ。 岸川家を前にして時計を見ると11時30分、意外にも早い到着だ。そのとき、家から若 い青年が車で出てきた。息子かな、物陰から見送る。 べつに怖気づいたわけではないが、とりあえずその場を離れて昼食を取ることにした。 店内はクーラーが効いていて、お冷やは冷たくて・・・。リンガーハットなので、当然長 崎ちゃんぽんを食べながら質問をまとめてみた。この辺りはもはや田舎らしい田舎で、調 査も首尾よくいきそうである。ちゃんぽんが旨い。 店内で1時前まで時間をつぶそうと考えていたのだが、店員さんに皿を下げられてしまい やむなく額に汗をにじませながら外に出る。仕方なしに、近くのパチンコ屋の前で漠然と 暇つぶし。否、さすがにパチンコなどはしていない、これ本当です。 ようやく来るべき時が来て、岸川さん宅のインターホンを押す。出迎えてくれた方は、 感じのよい奥さん。息子さんはまだ帰っていないのかな。義男さんはちょうど畑から帰っ たところ。居間に案内してもらう。モダンな家だ。 今日のインタビューに対して、当然ながら事前に連絡を取っていた。しかし、理由あっ て手紙を出すことが出来なかった。今回、そのために話の食い違いがあったと思われる。 岸川さんは轟の滝などの「名所」やそれについての歴史について話そうと構えていたらし く、我々が田んぼや地名のことばかりを訊ねるので、少し拍子抜けされていた。どうやら、 電話で話をしたときに「慣行」と「観光」の錯誤があったのか、と今更になって気づいた。 我ながら笑いも取れないようなふざけた失敗だったが、その後の岸川さんの話は面白い。 岸川さんはまず、みずがみ祭りの話をしてくれた。話によると、湯の田区には19の班が あって、そのうちの2班(50所帯ほど)が本尊千手観音を祭っているそうだ。水堂観音 堂は1800年代に建立されたもので、歴史は古い。しかし、水堂祭り、俗に言うみっど さん祭りは現在でも行われているらしい。 ところで、岸川さんの言う「班」とは終戦後に湯の田部落の人口増加に伴ってできたもの だそうだ。さしずめ小地名といったところだが、いくつかの班は昔のその地のしこ名から そのまま引き継がれているらしいし、田畑の名前と同じ場合も少なくない。 余談かもしれないが、我々はもともと烏帽子岩を調査することになっていた。しかし、 そのような地名は地図を開いても載っていないし、先生に訊いても今ひとつ要領を得ない。 結局は湯の田区全域の調査をすることに落ち着いたのだが、はたして烏帽子岩こそが上に 述べたような代表的な昔ながらの班であり、その名は烏帽子岳という岩山に由来するそう だ。烏帽子岳は当然ながら烏帽子岩地域にある、念のため。 さて、その烏帽子岩班のとなりに隣接する班があって、人々からはトーリャンと呼ばれ ているのだが、正確には東林庵というそうだ。その地域に庵があったことは、おおかた想 像がつくだろう。庵はずいこうじ寺という寺の分家だったようだが、実は現在も存在する らしい。昔は小坊主が一人暮らしていたらしいが、もはや今は無人庵となって、班の住民 達によって管理されているそうだ。 話はサクサク進んでいく。今度は岸田さんの家が属するコグレ班についての話をしてく れた。コグレは、小崩と書く。この土地は地層が縦になっていて、縦盤というそうだが、 そのため昔から非常に脆いらしい。強い雨が降るたびにポロポロ崩れるものだから、人々 から小崩とあだ名をつけられる所以となったという、やはり昔からのいわれである。 ところで、そのような水害にあった時、人々は一体どうしていたのか。岸川さんの話で は、昔は区役というものがあって、それによって各々の所帯から区資が徴収されたそうだ。 したがって、損害はすべて区資で賄われていたという。しかし、裏を返せば当時は区資で 賄う以外の術がなかったと考えられる。そのため、どんなに大きな損害をこうむっても、 区資で何とかやり繰りするしか方法がなかったのであろう。現代では被害の規模に合わせ て、部落から町、町から県へと援助を申請することができるらしい。 他に古くから引き継がれてきた名前の班を挙げると、古賀班、山中班、神功班といった ものがある。 古賀班は20件ほどの農家で形成されていて、現在も専業農家が中心らしい。 山中班の地域も昔から山中と呼ばれていて、山中塚といった首塚がゆうめいである。そ の歴史は現在西公園となっている湯の田城と共に、戦国時代以前までさかのぼるらしい。 神功班の名は太古の神功皇后に由来する。むかしむかし、神功皇后が山間征伐のときに 兵を率いてこの地に立ち寄ったことがその名の起源。そこで、負傷した兵を温泉に入れる とたちまちに回復したという。神功皇后も思わず「うれしいのう!」。そのまま、「嬉野」 になったと、岸川さんは話してくれた。この他にも、この地の泉源は海軍病院などにも利 用されたそうである。現在の国立病院。 このように、古くからの土地の言われがそのまま現在の名前となっている班はたくさん ある。というより、湯の田区の場合はほとんどの班がそのようだ。が、もちろん終戦後に 生まれた班もあるので、いくつか挙げてみよう。 たとえば、住宅班。これなんかは、いかにも新しそうな名前である。その名のとおり、 戦後に住宅地が増えたために形成されたらしい。 宮の上班というものがある。この班は地図上でお宮の上に位置するためにこの名にした という。決して、宙に浮いているわけではない。 ほかに、まったく新しいものとはいえないが、小崩2班や山中2班、古賀2班などはす べて戦後に作られたものだそうだ。そもそも、湯の田区の人口が増えすぎたらしい。現在、 湯の田区そのものを二分割しようという計画が進行しているそうだ。 さきほどお宮の話がでてきたが、大師堂というものをご存知あろうか。我々はまったく 知らなかったが、岸田さんに教えていただいた話によると、最近になって発見された板碑、 すなわち死者の追善や供養のための石製の塔であるという。それには梵字や弘安9年が刻 まれているそうだ。なにやら、関東地方で流行した青石塔婆が嬉野に伝わっていたらしい。 岸田さんも、少年の頃にはよく遊びに行き知り尽くしていたものだっただけに、発見のニ ュースを聞いて非常に驚いたそうだ。この話はやや、本題とは関係のうすい話かもしれな いが、このようなものが土地の地名に影響を与える例も少なからずありそうなので、ここ に載せておいた次第である。 こうして岸田さんへの質問も一段落を終えた。参考になる話をたくさん伺えて、何より であった。 ただ唯一、惜しむらくは田に関する情報に接することが出来なかったことだ。岸川さん の話では、湯の田区で専業農家は全体の一割ほどしかないらしい。とりわけ、米を中心に 出荷を行っている農家といったら数えるほどしかないという。主に茶と温泉と焼き物で栄 えた町である。昔の人々は茶を背中の籠に担いで、リアカーとか自転車で行商を行って生 計を立てていたそうである。 まあ、しかしながら、これほど為になる話を教えてもらったのだから、我々は十分であ る。調査もほとんど完璧だし、もはや思い残すことは何もあるまい。時間もちょうど頃合 だ。いざ、発とうか。そう思っていたときである。すぐ近くにも専業で農業をやっておら れる方がいるよ、と岸川さんは言ったのだ。さらに、紹介の電話をいれてもよい、とつけ 加えるではないか。間髪いれずに、我々は頭を下げていた。 ところ移して、山口さん宅。またもや、感じのよい夫婦。ウチの親にも見習わせたい。 時間があまりないが、まずはしこ名をきかねばならぬ。人の田を皆で協力して手伝う作業 を説明すると、それはユイというらしい、逆に教えていただいた。はじめは、我々の質問 もなかなか要領を得ないで、望んでいた答えを得ることが出来なかった。本当にしこ名な んてあるのかな、と疑いきっていたところ、あざ名ならばあると奥さんが言う。それだ、 と意気込んで伺ってみたところ、正式なあざ名では呼んでいなかったと旦那さんが言うが、 まさにそれです。 二人ともあざ名を口にするのが照れくさそうにするから面白かった。それでも、色鉛筆 を渡すと渋々書いてくださった。その間、我々はこの調査の主旨・目的を説明するのだが、 今ひとつ、いぶかしげ。田とは意外と広いなと地図を覗き込みながら思った。時計の音が 刻々と聞こえる。前にも記したが、地域の名がそのまま田のあざ名となっている例もたく さんあると伺う。そういう点を理解するために結構苦労した気がする。 結局、田のあざ名を訊き終わるだけで時間が来てしまった。今更ながら、もっと早く岸 川宅を訪れておくべきだったと悔やまれる。山口さんも茶のことを訊ねられず、腑に落ち ない表情だ。いささか申し訳なかった。 しかし、山口さん夫婦のおかげで、調査もずいぶんと進んだ。田のあざ名を訊かずして、 調査が成功したとはいえまい。心より感謝しています。また、お忙しい中、時間を割いて くださった岸川さんにも、この場を借りてお礼を述べさせていただきます。有り難う御座 いました。 レポート完成・提出日 7月27日 |